チューさんの今昔ばなし

2011/01/05(水)11:40

小磯内閣総辞職、鈴木貫太郎内閣発足

昭和20年(1945年)4月5日、小磯内閣が総辞職 しました。沖縄にアメリカ軍が上陸したばかりなのに、また、内閣が総辞職してどうなるのかと、不安がつのりました。 小磯内閣は、成立のときから弱体な内閣だったそうです。というのは、陸軍内でもまだ東条派の人物が多く、統帥部である参謀本部からも、陸軍省からも、距離を置かれていたのです。 小磯首相の唱えていた戦いの ”天王山” とは、フィリピンのレイテ島作戦で、アメリカの陸海軍を殲滅することだったようです。ところが、反対に、日本の連合艦隊が殲滅され、フィリピンの諸島で、陸軍も敗北を重ねました。 そのうえ、硫黄島を占領されて、日本への空襲は激化。小磯首相は、現役に復帰して陸軍大臣を兼務しようとしても軍につぶされ、中華民国との単独講和の画策も失敗。新設した最高戦争指導会議でも、統帥部の充分な協力が得られず、8ヶ月半の短命で総辞職しました。 次ぎの総理大臣が発表されて、驚きました。海軍大将・鈴木貫太郎(すずき かんたろう) です。驚いたのはその年齢でした。鈴木貫太郎 、このとき77歳。こんなおじいさんの総理大臣で戦争が続けられるのか、と心配になりました。                                 鈴木貫太郎(首相就任時、出典 Wikipedia) 聞いてみると、鈴木貫太郎 は、日露戦争の日本海海戦で、「坂の上の雲」で有名な秋山真之(さねゆき)の指揮のもと、駆逐(くちく)艦隊を率いて戦功を挙げ、それから海軍大将まで昇りつめた人。 そして、昭和11年(1936年)の二・二六事件のときは、侍従長をしていて、青年将校の襲撃で瀕死の重傷を負った人、ということでした。 鈴木貫太郎 、満77歳2ヶ月での総理大臣就任は、日本の内閣総理大臣就任の最高齢記録です。 のちに知ったところでは、総理大臣候補を選ぶ重臣会議でも、意見が分かれてまとまらないなか、固辞する鈴木貫太郎 に、昭和天皇が頼むようにして引き受けさせた、ということでした。 鈴木貫太郎 の後添いの妻・たか は、昭和天皇4歳のときから10年間、皇孫(こうそん)養育係として宮中に仕えた婦人で、昭和天皇の第二の母のような存在でした。貞明(ていめい)皇后(昭和天皇の母・当時は皇太后)も、鈴木貫太郎 に天皇の親代わりになってくれと、首相就任を頼んだそうです。                               鈴木内閣発足(出典 Wikipedia) 鈴木内閣発足から5日後に、ルーズベルト・アメリカ大統領が死去 しました。鈴木貫太郎 は、短波放送を通じて  「私は、深い哀悼の意をアメリカ国民に送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の   死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません」 という談話を世界に発信しました。この談話を聴いた世界の有識者らは、                「日本の武士道、いまだ死なず」  と賞賛したとのことです。ルーズベルトの死去により、副大統領のトルーマンがアメリカ大統領となりました。                      ルーズベルト               トルーマン  でも、沖縄にアメリカ軍が上陸して、激戦が始まったばかりのこのときに、また総理大臣が代わる、内閣が代わる、とは、どうしたことなのかと、不安は増すばかりでした。             * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *  小磯国昭 は、戦後の極東国際軍事裁判で、A級戦犯として終身禁固刑となり、昭和25年(1950年)、巣鴨拘置所で食道がんにより死亡しました。享年70歳。   

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る