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2011年01月07日
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戦前の大日本帝国は、天皇の統治する国。もちろん、主権在民ではありません。この時代に実際に国の方針を決め、国を動かしていたのは天皇を取り巻く、国の上層部でした。そして、議院内閣制で政権が決まる現在の国の姿より、もっと複雑でした。

内閣は国家行政の執行機関。その長である総理大臣は、元老や重臣たちの助言と推薦を受けて、天皇が任命します。

陸海軍は天皇に直属し、戦時となれば大本営を設置して、作戦を立て、戦争を指揮し、その命令に従って、戦地の部隊は戦闘を行ないます。

このほかに、天皇の諮問(しもん)機関として、枢密院(すうみついん)・重臣(じゅうしん)会議内大臣府(ないだいじんふ)がありました。

枢密院とはずいぶん難しい名称ですが、昔の中国にあった皇帝の諮問機関の名を、そのまま採ったそうです。枢密院には顧問官が何人かいて、国家の重要な機密事項について、天皇の諮問に対して答申をします。鈴木貫太郎は、総理大臣になる前、枢密院議長でした。


         枢密院会議
                    枢密院会議(出典 Wikipedia)

重臣会議は、総理大臣経験者によって構成され、おもに次の総理大臣の候補者を選ぶために開かれ、結果を天皇に奏上(そうじょう)します。

総理大臣候補者の人選には、明治以来、元老と称する人たちが当たってきましたが、昭和になって元老西園寺公望(さいおんじ きんもち)一人になり、老年にもなったので、重臣会議がそれに代わったと聞いています。

内大臣府は、宮中(きゅうちゅう)に置かれ、その長の内大臣(ないだいじん)は、天皇の側近にいて、天皇を補佐し、天皇の相談相手にもなり、天皇の意向の伝達役もしたようです。

このときの内大臣は、木戸幸一(きど こういち)。木戸幸一は、明治維新の三傑の一人・木戸孝允(きどたかよし・旧名 桂小五郎)の妹の孫で、父が木戸家を相続し、そのあとを継いだ者。近衛文麿と同級生で、国の重要事項の決定に、隠然たる影響力を持っていました。

東条英機は、サイパン島陥落の責任を問われて退陣したにもかかわらず、重臣会議では発言が大きかったそうです。鈴木貫太郎を首相候補と決めるときも、「陸軍以外のものが総理になれば、陸軍がそっぽを向く」 と反対しました。

これに対して、二・二六事件当時の首相・岡田啓介から、 「陛下のご命令で組閣をする者に、そっぽを向くとはなにごとか ! 戦争がここまで追い詰められたのは、陸軍の責任ではないか !」  と反論され、東条は一言も無かった、と伝えられています。


       岡田啓介 木戸幸一
               岡田啓介                  木戸幸一 


海軍大将・岡田啓介は、元々和平派で、鈴木内閣の影にいて、終始、鈴木首相に助言を行ないました。

戦局が厳しくなってから、国の上層部は、戦争完遂派と和平派に分かれての暗闘がありました。しかし和平派も、戦争完遂派の陸軍の力を恐れて、表立った発言や行動はできませんでした。

元総理大臣・近衛文麿は、昭和天皇に対して、和平の道を開くために、天皇が命令を発して、陸軍を粛清して建て直すよう、上奏文を提出しました。しかし、昭和天皇は

      「もう一度戦果を挙げてからでないと、なかなか話は難しいと思う

と言って採り上げませんでした。ここまで追い詰められて、もはや、戦果を挙げることなどできないと思うのが普通でしょうに。軍の大元帥(だいげんすい)の天皇までもが、陸軍の戦争完遂派に遠慮していたようです。

近衛文麿は、陸軍の戦争遂行派にかつがれて、総理大臣を3期も続けた人物。中華民国との戦争を起こして、さらに大戦争への道を進めておきながら、この期になって、天皇に ”陸軍の粛清” などと、よくも言えたものだと思います。

この上奏文提出の情報が軍に洩れて、近衛の相談を受けた、のちの総理大臣・吉田茂(よしだしげる)が、憲兵(けんぺい)隊に逮捕されました。

お人よしの近衛文麿は、なおも和平の道を開こうと、連合国のうち日本と中立条約を結んでいたソ連に、アメリカ・イギリスとの和平の仲立ちを頼もうとして、ソ連の日本駐在大使を通じてモスクワ訪問を申し出ました。

しかし、ソ連外相・モロトフ は、この申し出を断わりました。

モロトフ外相は、小磯内閣が総辞職したその日に、「日ソ中立条約を延長しない」 と通告して来ていました。このとき、2010年12月9日のブログに書いたヤルタ会談で、ソ連の対日参戦の秘密協定が、すでに結ばれていたのです。

        スターリン モロトフ
               スターリン                 モロトフ  

近衛文麿は、おろかにも、日本を虎視眈々(こしたんたん)と狙うソ連邦書記長・スターリンに、手の内を読まれていたのです。日ソ中立条約延長拒否通告が、何を意味するかを悟るべきだったのです。

近衛文麿木戸幸一らが和平の条件としていたのは、”国体の護持” でした。”国体” とは国の政治形態のこと。そして ”国体の護持” とは、具体的には、”天皇制を現状のまま維持すること”、”今の天皇の罪を問わないこと” です。戦災に苦しむ国民のことなど、念頭に無かったのでしょう。

ただし、こんな和平工作が行なわれていたことは、戦後かなり経ってから知ったことです。このころ、政府や軍は、国民に対して、 「尽忠報国」 「本土決戦」 「一億玉砕」 と叫び続けていました。

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元首相・岡田啓介は、海軍大将ながら、戦前から軍縮を唱え、対米英和平派の常識人でした。そのゆえに、二・二六事件で命を狙われたのです。

岡田啓介は、娘婿の内閣書記官長・迫水久常(さこみず ひさつね) を通じて、裏で鈴木内閣を支え、戦後、昭和27年(1952年)、アメリカ軍の日本占領が終わるのを見届けて、85年の生涯を終えました。

内大臣・木戸幸一は、戦後の極東国際軍事裁判で、A級戦犯として終身禁固刑となり、昭和30年(1955年)に仮釈放され、昭和52年(1977年)、87歳で死去しました。

  





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最終更新日  2011年01月07日 16時37分34秒
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