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2011年01月21日
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昭和20年(1945年)8月15日未明ポツダム宣言全面受諾と、玉音放送(ぎょくおんほうそう)の情報が、どこからか、陸軍の戦争遂行派に洩れました。

近衛師団所属の一部の戦争遂行派青年将校らは、玉音放送を阻止して、戦争継続内閣を立てるクーデターを計画しました。そして、制止する近衛師団長を殺害し、偽の師団長命令を発して、近衛連隊の一部を率いて、皇居内に乱入しました。

近衛連隊の反乱行動を知った、東部軍管区司令官田中静壱(たなか しずいち)陸軍大将は、このクーデターに対処するために、直ちに皇居に乗り込んで、若手将校らを説得、鎮圧しました。


               田中大将
             陸軍大将・田中静壱(祖国日本・ふるさと日本より)

録音盤奪取に失敗したクーデター部隊は、内幸町の放送会館(現在のNHK)を襲って占拠しましたが、ここでも東部軍首脳に説得され、鎮圧されました。

クーデター部隊の別働隊は、首相官邸と鈴木首相の自宅を襲撃、さらに枢密院議長・平沼騏一郎邸、内大臣・木戸幸一邸、東久邇宮(ひがしくにのみや)邸、などを襲い放火しました。

鈴木首相は、辛うじて官邸を脱出し、無事でした。木戸幸一は、皇居内に隠れていました。

クーデターを起こした若手将校たちは、二人を残して自決。これと同じころ、陸軍大臣・阿南惟幾(あなみこれちか)は、自宅で割腹自殺を遂げました。

玉音放送の録音盤は、運ぶ途中での襲撃を警戒して、偽物まで用意され、本物はこっそりと、無事に放送会館まで運ばれたそうです。

玉音放送を阻止しようとした戦争遂行派青年将校らのクーデターは、田中大将率いる東部軍の手で鎮圧されました。

しかし、アメリカ軍先遣隊やマッカーサー到着間近の8月24日になって、少数の徹底抗戦派残党が、川口放送所を襲って、ラジオを通じて徹底抗戦を呼びかけようとしました。いわゆる川口放送所占拠事件です。

これを察知した田中大将は、関東配電(現・東京電力)に指示して、川口放送所への送電を停止させ、自ら現地へ乗り込んで、天皇の命に反する行為の愚かさを説いて、鎮圧、解散させました。この事件で、関東一円のラジオ放送は、9時間停波したそうです。

この、陸軍最期の反乱を鎮圧した田中大将は、東部軍管区司令部へ戻り、従容として拳銃で自決しました。享年57歳でした。

            * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

田中静壱陸軍大将 は、私の義兄の伯父です。兵庫県揖保郡揖西村(現・たつの市)の出身。

陸軍士官学校、陸軍大学を優等で卒業、イギリス・オクスフォード大学留学の恩典を与えられました。

昭和7年(1932年)から、アメリカ駐在陸軍武官としてワシントンD.C.にいて、当時アメリカ陸軍参謀総長だったマッカーサーとも親交がありました。

日中戦争では中国戦線を転戦、アメリカと開戦後は、フィリピン平定中の司令官を勤め、戦争末期には、東部軍管区司令官として、東日本の本土防衛を担う役目につきました。

政治に関わることなく、陸軍の派閥に与(くみ)することなく、軍人としての職務を全うし、最後には、昭和天皇を守って、玉音放送による戦争終結を無事に済ませることに貢献しました。


     田中大将顕彰碑
          田中静壱陸軍大将 顕彰碑(祖国日本・ふるさと日本より)

田中大将の郷里、兵庫県たつの市には、大将の遺徳を称える顕彰碑が建てられています。

  





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最終更新日  2011年01月21日 12時57分23秒
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 Re:田中大将、クーデターを鎮圧(01/21)   flamenco22 さん
こんにちは!
クーデターを起こした若手将校たちは、二人を残して自決したのですね。
これと同じころ、陸軍大臣・阿南惟幾は、自宅で割腹自殺を遂げたって、驚きました。自殺の仕方が、恐ろしいです。 (2011年01月21日 11時45分24秒)

 Re:田中大将、クーデターを鎮圧(01/21)   太田 宏 さん
はじめまして。
太田と申します。 我が家では、今でも田中静壱大将の事は、まるで、家訓の様に語り継がれて居ります。
当時、私の父親が、川口送信所の所長をして居りました。
事件終結後、大将がわざわざ我が家(所長社宅)へお見えになり、頭を深々とお下げになり「不詳の部下が、大変ご迷惑をお掛けしました」と仰ったのです。
星三つの大将が、一般人の前に立たれる事も稀な当時です。どちらかと言えば、反戦派で有った父も「ウッ」と言葉に詰まって、何も言えず、ただ、無言で頭を下げる以外に、何も出来なかった・・と申して居りました。
70年の月日が経った現在でも、8月ともなれば、必ずこの話が出て、知らぬ世代の者たちへ語り継いで居ります。
父もあの世で大将にお目に掛かり、お言葉を頂いて居るかも知れません。 (2015年05月30日 15時52分49秒)

 Re[1]:田中大将、クーデターを鎮圧(01/21)   チュー さん
太田さま
私のブログを見てくださってありがとうございます。あなた様のご父君が敗戦当時に川口送信所の所長をしておられ、最後に田中静壱大将の言葉を受けられたことを知りました。お差し支えなければ、このことをブログに書き加えさせていただきたいと存じます。田中大将は兵庫県の大地主の家の生まれで、地元では今でも慕う人が多いと聞いています。

(2015年05月31日 15時30分41秒)

 Re[2]:田中大将、クーデターを鎮圧(01/21)   太田 宏 さん
太田です。 入力間違えました。失礼致しました。
先日のお便り、一箇所訂正が御座います。
「後日、大将が来られた」と言う書き方をしましたが、兄弟と話をしていて「鎮圧にこられて、その足で社宅へ来られた」のだった・・との結論でした。
それからお帰りになって、すぐ自決されたのではないか・・と、話し合いました。

ブログ書き込みは慣れて居りませんので判らないのですが、画像を添付する事は出来ますか?ご教授ください。 (2015年06月06日 19時04分32秒)

 Re[3]:田中大将、クーデターを鎮圧(01/21)   チュー さん
太田 宏さま
田中大将の詳しい行動をお知らせいただき、ありがとうございます。
ブログのコメント欄には画像は入らないと思います。何か画像をお示しくださるのであれば、私のホームページの掲示板をお使いください。私のホームページへのリンクは、私のブログの各所においています。そこから私のホームページに入って、表紙ページにある掲示板をクリックすると、掲示板のページが開きます。
----- (2015年06月07日 12時43分44秒)

 Re[4]:田中大将、クーデターを鎮圧(01/21)   太田 宏 さん
チューさん
先輩で居られますが、この様に呼ばせて頂きます。

ホームページ拝見致しました。愚兄(昭和6年)と同年代でいらっしゃいますね。 私は昭和13年です。当時は小学2年生でしたが、昨日の事の様に鮮明に記憶して居ります。これも、毎年、当時を振り返り、忘れてはならない事として確認し合い、次世代にも伝えて置きたいと言う気持ちからだろうと思って居ります。
戦後の日本人は、日本の近代史をタブーとして目を逸らせ、結果、ポッカリと穴が開いた状態で放置して居た結果が、今日の対中国・対韓国問題として表面化している原因では無いかとも思えます。ドイツにこの様な問題が少ないのは、戦後の対ヨーロッパ諸国・対イスラエル政策が、効果を表して居るからでは無いでしょうか。

見て頂きたい画像は、当時の様子が書かれた記録の一部です。判りにくいかも知れませんが、ページを汚させて頂きます。
宜しくお願いします。
(2015年06月08日 09時19分15秒)

 Re:田中大将、クーデターを鎮圧(01/21)   姪の孫 さん
私の祖母は田中大将の姪であり、大将の四人のご子息とは従兄弟の関係でした。次男俊資少佐、三男祐輔少佐が毎年今の私の家に来ることが恒例であり、田中4兄弟は非常に仲がよく、その関係はずっと続いていたと聞いております。長男、次男は自衛隊の幕僚となり、四男はNHKの重役になったそうですが、祖父母世代が他界した今、ご子息はどうなっているのか、長男光祐少佐が病死されたこと以外、全く分からない状態です。
以上、長文失礼しました。 (2016年03月08日 21時37分34秒)

 Re:田中大将、クーデターを鎮圧(01/21)   太田 宏 さん
田中 静壱陸軍大将が、私の愚父に向って敬礼を御贈り下さり、その直後、自ら天に召されたと言う事を、昨日の様に覚えて居ります。 (2020年06月07日 12時10分22秒)


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