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昭和20年(1945年)8月15日、この日、私は引き続き滋賀県のS農場にいました。よく晴れた暑い日でした。 朝からラジオは、正午に重大放送があるので、国民すべてが聴くようにと、何回も放送していました。天皇が自らラジオで国民に話される、ということも伝えていました。 午前中の仕事を早めに済ませて、ラジオを農場宿舎の窓際に置き、K農場長を先頭に、農場で働く人全員が整列して放送が始まるのを待ちました。 正午になって、放送が始まりました。最初にアナウンサーが起立を求め、情報局総裁が、天皇陛下自らの放送であると説明し、それから、”君が代”が鳴ったと記憶しています。 昭和天皇(出典 Wikipedia) それから、いよいよ、昭和天皇の詔書朗読が始まりました。みな、頭を下げて聴き入りました。 都会の焼け跡で玉音放送を聴く人々 しかし、録音盤の雑音がひどく、天皇の声は、祝詞(のりと)を挙げるような、うわずった音声。そのうえに難しい漢語が多く、また、農場のラジオも、雑音の多い並四(なみよん・真空管が4個の並級品)で、結局、天皇が何と言われたのか、だれもわかりませんでした。 「本土決戦に勝利するために、国民はもっと励め、と言われたんやろ」 と皆が思って、それぞれの休憩室に戻りました。 その後、私一人、宿舎でラジオ放送の続きを聴いていました。すると、天皇の放送のあと、政府声明 とか 内閣告諭 とかいう言葉があり、「四国共同宣言を受諾するに至った」 とか 「戦争を終えることになった」 とか、いう言葉が聴き取れました。 私は農場の事務所に走って行って、K農場長にこのことを告げました。K農場長は、すぐに自転車で警察署へ走り、しばらくして険しい顔をして戻ってきました。そして、従業員全員を再度呼び集め、 「先ほどの天皇陛下の放送は、日本がアメリカなど連合国の宣言を受入れ、 戦争を終えることになった、といわれたのだ」 と話しました。 だれもが、”戦争を終える” とは、どういうことなのか、しばらくは理解できないでいました。戦争に負けたのだ、降参したのだ、と分かると、全員に動揺が走りました。 午後3時ごろ、姉が京都から農場へ来て、とりあえず、家へ帰るよう私に言いました。私はK農場長にお礼を述べ、荷物をまとめて、姉と共に、夕方、京都に帰り着きました。 京阪電車・五条駅に降りて、あたりを見渡しました。見上げれば、緑豊かな東山、振り返れば、鴨川の流れと五条大橋、これらは昔と変わらない景色。 しかし、見下ろせば、いちめん荒れた建物疎開のあと。 「国敗れて山河あり」 とは、今のような気持ちを詠んだものかと思いました。 「空襲の恐怖からは解放された、京都は大空襲を受けずに済んだ、けれど、これからどうなるのか」 私はこのとき16歳、不安な気持ちでいっぱいでした。 家へ帰って、新聞に見入りました。この日は、新聞の朝刊が午後になってから配達されたということです。 一面は終戦の詔書とその解説、裏を返すと、新型爆弾が原子爆弾であること、そして、投下された広島・長崎の惨状が、全面を使って掲載されていました。 昭和20年(1945年)8月15日・敗戦の日の新聞 この日が、日本の近代と現代を分けた日、今までの人生観、世界観、国家観、価値観がすべてくつがえり、日本が、世の中が、ひっくり返る日となりました。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 「国敗れて山河あり」は、古代中国・唐時代の詩人・杜甫(とほ)の詩「春望」の第一行。 全文を読み下し文にして掲載します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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