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今日のブログでは、また、前々回に続く、昭和21年(1946年)の昔、敗戦直後の時代に戻ります。 昭和21年(1946年)11月12日、吉田内閣は財産税法を公布しました。 財産に対する課税は今でもあります。相続税、贈与税、固定資産税などです。しかし、戦後のこの時期の ”財産税” は、連合国軍の占領下で行なわれた、とてもきびしい臨時税でした。 このときの財産税課税の名目は、戦時利得の没収で、 GHQ(連合国軍総司令部)の指示した 「戦時利得の除去及び国家財政の再編成に関する覚書」 に基づいて行なわれました。 この年の3月3日の時点で所有していた動産・不動産の合計が、10万円以上の個人に課税されました。同一家族で該当者が複数ある場合は、合算されました。 1946年 財 産 税 の 税 率 査定当時の10万円は、現在の1億円くらいに当たるかと思います。動産のうち預貯金は、今年の2月18日のブログに書いた預金封鎖・新円切り替えで、すでに国によって差し押さえられていました。表でご覧のとおり、財産税は、税率も累進率も、とても高いものでした。 財産税の納税対象者の多くは、当然ながら、高年の資産家と中産階級者でした。対象者の中には、軍需景気に便乗して金を儲けた戦時利得者もいましたが、長い年月にわたってまじめに働いて、老後のために資産を築いた人の方が多かったと思います。 私の父もその一人でした。北陸の山村から都会に出て、住み込み奉公人として働き、独立して店を開き、刻苦精励、勤倹貯蓄につとめ、いくばくかの資産を作り上げた者です。 50歳代半ばになって、これから楽な暮らしをしようという時になって、戦争が始まり、商売もできなくなってしまったのです。戦時利得どころか戦争被害者なのに、財産税を徴収される破目になりました。 財産税の徴収は、第二封鎖預金から先に行なわれたようです。私の父は預貯金を分散していたので、第二封鎖預金が少なく、おもに不動産の貸家を徴税の対象とされました。いわゆる物納(ぶつのう)です。 大蔵省(おおくらしょう・現在の財務省)は、これを入居している借家人に売って換金しました。 私の家では、戦中戦後の生活のための売り食いと、この財産税の物納で、十数戸あった貸家は3戸が残るだけとなりました。父は、 「あーあ、苦労して手に入れた、家も、貯金も、みんなアメリカに盗られてしもうた」 と嘆きました。 財産税課税で徴集した額は莫大なものだったはずです。それは何に使われたのか。占領下の日本の国家予算は、明細は示されず、予算の4割近くが終戦処理費という名で計上されていた、と記憶しています。 終戦処理費とは、日本を占領した連合国軍の経費のうち、日本政府が一般会計から支出したものを言います。徴集された財産税による収入の大部分は、連合国軍の駐留経費に使われたのではないか、と、私は思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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