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日本の農地の所有形態には、江戸時代の昔から、地主 (ぢぬし)・自作農 (じさくのう)・小作人 (こさくにん)の区別がありました。 また、この区別も単純ではなく、自分の田畑を所有する自作農でも、他人の田畑を小作する場合もあり、自分所有の田畑の一部を小作させている農家 (耕作地主) もありました。 広い農地を所有する地主でも、その村に住んでいる 在村地主 もあれば、都会に住んで、年貢米(ねんぐまい)を取り立てるだけの地主・不在地主 もありました。 その年貢の取り分をめぐる地主と小作人との争い、いわゆる “小作争議” が戦前から全国的に起こっていて、警察が介入する場合も多かったのです。自らは耕作せず、小作料を取り立てる地主を、小作人は寄生地主 (きせいじぬし) と呼びました。 所有する資産を他人に貸して賃貸料を取る、という行為は、貸家の家賃や貸し金の利息と同じで、資本主義社会では広く行なわれていることですが、人口の半ばが農民だった戦前の日本では、富裕な地主と貧しい小作人の争いが全国的に起こっていました。 敗戦後、GHQ(連合国軍総司令部)最高司令官・マッカーサーは、寄生地主が日本の軍国主義に加担したと考えていました。 昭和20年(1945年)12月、GHQは、幣原内閣に農地改革の指令を発しました。これに対する対応を不満として、昭和21年(1946年)6月、再び吉田内閣に農地改革を徹底して行なうよう指示しました。 こうして、農地改革(農地解放)は、昭和22年(1947年) から昭和25年(1950年)の3年間にわたって、地主が所有する農地を、日本政府がごく安い値で強制的に買い上げ、小作人に売り渡す、という方法で行なわれました。、 地主に渡された農地被買収者国庫債券 地主に対する買取り代金支払いは、財閥解体の場合と同様に、10年間換金できない国債で行なわれ、その間のインフレによって、事実上ただ同然の買い上げになりました。 在村地主 には、北海道で4ヘクタール、北海道以外では1ヘクタール、の所有が認められましたが、不在地主 は全所有農地を買い上げられました。都会で暮らしていた 不在地主 が、急いで田舎に帰り、在村地主 になった人も多くいました。 農地改革によって、地主から小作人に渡った農地は、198万7千ヘクタール。これは、日本の農地の7割に当たります。日本最大の地主、山形県・酒田の本間家(ほんまけ)の所有農地は3千ヘクタールありましたが、本間家は、農地改革でそのほとんどすべてを失ったと聞いています。 村の中で、政府の農地改革に率先協力し推進したのは、各地の共産党員でした。戦前、日本共産党が非合法政党のときも、隠れた支持者は小作人たちでした。 ところが、農地改革によって自作農となった小作人たちの多くは、その後、一転して保守政党支持に変わり、農村での共産党の勢力は、皮肉にも大きくそがれる結果となりました。 この農地改革の結果、日本の自作農家は284万戸から一挙に541万戸に増えました。しかし、一方では、農地所有が細分化されて、その後の農業大規模化の妨げになり、その影響は現在にまで及んでいます。 ただ同然の安値で農地を手に入れた小作人は、その後のインフレに続く日本の経済発展による地価の高騰で、土地成金になった者も多く出ました。とくに、都市近郊では、買出し人に対する食糧の闇売りで儲けたうえに、解放農地を宅地に売って、何億円も手に入れた農家もありました。 農地所有地主が資産を失う中で、山林地主 は強制買い上げの対象にならず、不公平だ、という声もありました。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 今、私の住んでいる家の土地も、土地台帳をさかのぼって見ると、元は農地改革による解放農地です。売主の農家は、解放農地に接して道路ができるとすぐに、解放農地を次々に売って、自宅を建て直し、裕福な生活をしています。 これを知り合いの非農家の人に話しましたら、 「マッカーサーから、ただでもろうた土地を、高い値で売っとるんじゃ ! 」 と、吐き捨てるように言いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
農地改革の事、こんなに詳しく説明していただき、((ヾ(。・ω・)ノ☆゚+.ァリガトゥございます
全然、知らない事でした。。。 日本の農地の所有形態には、江戸時代の昔から、地主・自作農 ・小作人 の区別があったのも、知らなかったです。 (2011年03月18日 13時15分11秒)
小生の親は戦前から小作していた農地を昭和末期に掛けて難題を吹っ掛けられ少しずつ取り返されてしまいました。勿論標準以上の小作料は納めていましたが…。農地改革の対象にならない農地も有ったのでしょうか。
(2011年08月08日 23時13分50秒)
長野 浩一さん こんにちわ
本文に書いていますように、在村地主は1ヘクタールの小作地所有は認められました。 あなた様のお話の、昭和末期に掛けて難題を吹っ掛けられ少しずつ取り返された、とのことについては、事情が分かりませんので、なんともお答えができません。 ----- (2011年08月10日 11時52分33秒)
とても分かりやすく中立な解説有り難うございます。戦前、戦後の実情は今の時代からは想像もできませんが、財産を奪う制度は現在では考えられませんね。買い上げるにしても相応の金額でしたら納得しますが、極端に言えばただ同然で没収されたのと同義です。まさにGHQに推され国家権力を発動したものです。多くの地主は没落してしまいました。一方、安値で土地を所有した農家は豊かな生活をしています(全部ではありませんが‥)。これこそ、ただで財産を得てボロ儲けをしたことにはならないでしょうか?
(2011年10月09日 14時18分29秒)
この日本は左翼がはびこっていて、教育も行政の世界も左翼の捻じ曲げた思想や言い訳がはびこっています。
農地改革のことを申し上げると、戦後、農地解放により、足袋一足、ただ同然で、約3000坪と山林を除いた土地を、全て労働者(小作)に渡しなさい。さもないと、GHQが逮捕すると、地主層は怖い思いをしました。 その側にたてば、当時のGHQや警察などは、抑留、監禁など、今の世界とは違った未知の世界なので、脅されていたようなものです。 日本左翼国家は嘘ばかり言いますが、これが真実です。 これにより、各、いっぱいいる小作人はそれぞれ、まんまと2000坪~3000坪の土地をただ同然で得られ、地主は3000坪と山林しか残らず、完全、平等化が図られたのです。 GHQにとっては、有力層の解体により、烏合の衆とすることで、核爆弾の報復を逃れるため、左翼を刑務所から出し、各部署に配置し、日教組を作り、共産化を推し進めたというか、利用したのです。 その後、小作人は一部を除くが、馬鹿ばかりだったために、だまされて土地を取られたり、サラリーマンたちに悪いことばかりをしています。地元では、道に出ている木を切らない。人様の家に木をわざとかぶせる等、とんでもない悪さをしています。(教養も道義もない爺が多いんです。小作は) あれだけ、共産共産といっていたにもかかわらず、今では、なんと、小作が、えっへん。おらは村一番の金持ちだと、営業マンに嘘ばかりついています。 これが、世の中の真実です。 (2011年11月29日 10時15分20秒)
続きですが。
その後、平等化された地主は収入を奪われ、ある程度年寄りのため山林などを売らないと大家族をやしえない状態になり、3000坪ほどの土地を切り売りしながら生きていく状態になります。 そして、地主は、年金などはくれないのに奉公人や丁稚や小作は年金を支給されていたのです。 明らかな差別です。 しかも、小作であったら、学校の用務員とか緑のおばさん母子家庭の職に優先的に就け、今の小作の老人は、公務員だったから、いっぱいもらってんだと自慢げに話、遊び歩いています。 このような状態だったから、日本の年よりは、皆、共産万歳さん立ちなのです。共産、金持ちきたねーといってれば、自分たちが得をしたのです。 これが真実です。 (2011年11月29日 10時28分02秒)
ふくもとさん こんばんわ。
農地被買収者国庫債券の写真は Wikipedia 農地改革 のページにあります。 (2013年07月26日 21時27分11秒)
興味深く拝見致しました。ところで農地被買収者国庫債券の写真はどうやって手に入れたらよろしいでしょうか。もし実物をお持ちでしたらいただけないでしょうか。記事に書いてみたいと思っていますのです。お返事をいただけるようでしたら、これで。
bunshof@gmail.com, お願いできるでしょうか。 (2013年08月02日 17時25分49秒)
ふくもとさんへ。
農地被買収者国庫債券の写真は Wikipedia 農地改革 のページにあります。 (2013年08月02日 21時18分31秒)
先祖が大地主のものです。
農地解放のせいで、地元地域の人身荒廃が進んで居ますね。 私が小学生の頃は日教組教員に先祖が地主だったと言うだけでイジメられました、この教師は校長にまでなったようですが。 私は当時のアメリカ(似非ユダヤ)日本の左翼、何より荒廃した同胞を一生許しません。 (2013年08月20日 19時11分12秒)
真実を書きます。戦後、学校でも日教組などが真実を隠蔽しますので。
大地主というのは、村に1人か2人います。それ以外は自作農が2家ほどと後はほとんど何もない小作人か奉公人になります。 戦後、官憲と言うのは情報もない時代恐ろしいもので、GIQに土地をただで解放しなければ逮捕すると脅されて震え上がりました。朝4時半に、長屋門の前に長蛇の列ができ、開放してくだせ~~と並んでました。そこには、関係ない大工とか土木とか職人なども並んでました。関係ないけど地主は小作人がもらっているのに、この職人たちは何もないから可愛そうだと思いあげました。 莫大な土地を足袋一足というただみたいな値段で取り上げられた。地主は、三千坪ほどの土地だけ残り、森林が残された。 ようするに、中国のような共産革命が起こったわけ。 それを、日本政府や行政や教育界やマスコミで言わない。なぜか、アメリカが日本の有志たちを解体したことを言わない。 日本は、当時反日であった側がいま、良い思いをしている国なのです。現在、富裕にある会社経営者たちは、日本がこの共産革命をしなければ、金持ちになれなかったのです。現在でも、法律によって、当時の地主たちは、アメリカとそれとつるんだ共産勢力たちによって、数代でつぶされるように法律プログラムを組まれてます。 腐った国です。 (2015年09月12日 08時09分13秒)
真実woさん
>数代でつぶされるように法律プログラムを組まれてます。 ----- 数代も持ちませんでしたよ。相続税がものすごかったので相続した以上に税金を納め続けています。自分で築いた財産も半分以上持ってかれてます。 (2017年01月14日 12時08分01秒)
先祖は農地解放前は隣村まで他人の土地を踏まずに行けたほどで、大庄屋をしていました。今は3000坪程度しか残っていません。自分の土地を掘って作った溜池も二つ所有していましたが、こちらはいつのまにか水利組合の財産にされ、売ったお金は組合員の旅行や飲み食いに使っており、元の所有者としては納得がいかない状況です。
うちが解放した小作の人が潤うのは良いとして、そういう過去の経緯があり今の自分たちの財産が形成されたということはしっかりと認識をしておいてもらいたいものです。 先祖築いた広大な農地は濡れ手で粟的に取得したのではなく、所有するのには、かなりの努力をした結果であるのは間違いないでしょうから。 (2018年06月09日 13時45分17秒)
日本歴史の中でも大事なところですね。勉強になりました、ありがとうございました
(2018年08月08日 13時25分20秒)
【補足情報】
・当時の日本人の有職者の実に約半数は農家 ・当時小作人と地主の割合は地主3に対し小作人7 ・今では考えられない事だが当時は宅地より農地の方が土地としての価値は高かった 【何故GHQは農地改革を行なったのか?】 ・反共産思想の一環 当時はソ連等共産思想に勢いがあり全世界に共産化の恐怖があった。上記の通り数では圧倒的に貧乏な小作人の方が多かった戦前末期日本は家督制度でありながら成人男性の殆どに選挙権は行き渡っていた更には成人女性にも選挙権を与える計画がGHQにはあり尚更貧乏人による共産化の恐怖と日本は常に隣り合わせであったそこで国民総中流化にし「共産化されればこの(ただ同然で得た)土地は没収されますよ?没収されたくなければ資本主義、民主主義に1票入れましょう」と餌を与え国民一人一人が自らの意思で反共産主義、資本主義を選んだとしたかった。とばっちりを受けたのは地主である ・愚民化政策の一環 地主と小作人といういわゆる会社型農業から一人ひとりが地主という現代型農業となったがこれは例えるなら大型デパートの店員が皆独立して小型店舗を持ってしまったようなもので更には農業すら行わずただ同然で得た土地をさっさと売っぱらい現金にする小作人も多く食料生産率は上がるどころか格段に下がる。これぞGHQが行った3S政策同様の愚民化政策の一環ではないのか? (上記はあくまで確定事項でなはく仮説です) (2019年06月01日 21時48分16秒)
日本人は事実と向き合い小作人を美化し正当化するのはもうやめよう
「寄生地主」「農地解放」という言葉はGHQと小作人とその末裔供が小作人を正当化する為に作り上げた言葉だ。 (2019年06月01日 21時58分52秒)
当方も、父から聞いています。
祖父の時代の終戦直後に、東京都内に6万坪を有した農地を小作人にタダ同然で払い下げられたこと。 当時に払い下げ金額は、300坪で日本酒1升瓶2本分(今でいえば約5000円程度)と聞いております。 当時は、多くの小作人が、にわか地主になりました。 その小作人は、昔の事を知らない人に対しては、今も地主面をしていますが、昔からの経緯を知っている人は、下げ蔑んで、その旧小作人を眺めてまよ。(苦笑) (2019年07月20日 01時39分41秒)
私の生家も、大地主でした。小作人と同様に自作をしていたことから、3000坪より多く残してくれたそうです。
その残った農地が、運良く高速道路となり高額で売却することができたそうです。同じく高額で売却した人は喜んですぐに家を建て替えたそうですが、父は貯蓄にしました。当時は利子がたくさんついたので、さらに高額になりました。それを元手に、将来活用できる土地を求めて自営業の傍らあちこち飛び回っていました。土地取得から30年以上も経ってから、堅実な企業と賃貸契約を結ぶことができ、今も安定した不動産収入を得ることができています。 この度、その父が亡くなり相続の協議に入っています。私は、町一番の規模の山林保有者になりそうです。莫大な相続税に、驚くばかりです。父のしてくれたように安定した収入を得られる不動産を持たなければ、子孫にも同じように山を、土地を守ってくれとは言えないと思いました。 (2020年05月24日 03時57分33秒)
うちの実家も戦前は大地主でした。曽祖父は村長、祖父は町長でした。戦前は小作人や使用人が沢山いて、現在で電車で11駅程の距離まで他人の土地を通らず行けたそうです。敗戦後、農地解放でほとんどの土地がただ同然に没収され、さらにせっかく焼け残った屋敷も区画整理で手放さなければならなくなり、その際に転居先として指定された土地はバラバラで全部合わせても600坪程。大黒柱だった祖父が若くして他界してしまい、残った家族はとても苦労したようです。相続を経て僅かな土地や現金も税金で取られてしまい、残っているのは家の敷地を含め土地が300坪程のみ。今は男兄弟が実家を継いでいますが、相続後、家と敷地と僅かな土地が残ったのみで、お金がある訳では無いので、次の相続では手放さないといけなくなるやも知れません。時代の流れと言えばそれまでかも知れませんが、残念です。私自身は女はお嫁に行くから学は要らないと言われた最後の世代だと思います。中学から私立の女子校に通っていましたが、大学を卒業する前にバブル崩壊。女子大を卒業したものの大手の求人も無く、小さな会社で安月給で働き、同じく安月給の同僚と結婚しました。今はオンボロ団地で暮らしています。一生懸命働いても家すら買えないのが現状です。子供達を私立に入れるお金は無く、塾に通わせる費用さえ苦慮するほど...。今の生活は不幸ではありませんが、つましい生活です。時折亡くなった母や大伯母や大伯父の話を懐かしく思い出します。
(2020年08月25日 10時02分10秒)
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