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私が大学に入学した年、昭和24年(1949年)、日本経済に大きな転機が来ました。ドッジ・ラインの実施です。 ドッジ・ラインとは、アメリカ大統領特命公使として来日した、デトロイト銀行頭取・ジョセフ・ドッジが実施した経済政策です。 立ち直りを見せながらも、いつまでも悪性のインフレが止まらず安定しない日本経済を不安視したアメリカ政府は、荒療治を行なって、日本の経済状態を安定させようとしたのです。 ドッジ公使(右)と池田大蔵大臣(左) ドッジは、 「日本の経済は竹馬(たけうま)に乗っているような状態だ。竹馬の脚を切らねば倒れてしまう」 と言って、復興金融公庫の債券発行禁止、超均衡予算による財政金融引き締め、統制の緩和、自由競争の促進などを打ち出し、実行させました。 これらは、国の財政健全化と経済の正常化には当然必要な政策ですが、今までインフレが常態化していた日本では、きびしいデフレをもたらしました。世にいう “ドッジデフレ” “ドッジ不況” です。 この “ドッジ不況” で、それまでインフレに慣れた経営をしていた企業の倒産と、労働者の失業が数多く起こりました。東京証券取引所の修正平均株価(現・日経平均株価)は、85円25銭の史上最安値となりました。 “ドッジ不況” の影響は、大企業にもきびしい影響を及ぼしました。今をときめくトヨタ自動車も、例外ではありませんでした。 のちに何かで読んだ話ですが、この “ドッジ不況” のとき、トヨタ自動車の当時の社長で創業者の豊田喜一郎は、住友銀行に融資を依頼して断わられ、会社の資金繰りに窮したそうです。 融資を断わるについて、住友銀行側は、 「機屋(はたや・繊維産業のこと)には銭(ぜに)を貸すが、鍛治屋(かじや・自動車などの金属産業のこと)には貸せない」 と言った、とのことです。 豊田市役所前に建つ豊田喜一郎像 占領下の時代、アメリカを始めとする連合国は、日本が二度と軍国化しないように、重工業をきびしく制限し、軽工業の国にしようと、本気で考えていたといわれます。住友銀行の貸し出し拒否も、こんな事情が反映されていたのかもしれません。 しかし、この “ドッジデフレ” で、インフレと放漫な経営者は去り、会社にも商店にも堅実経営が戻りました。また。為替レートも、1ドル360円 と決められ、その後、この固定相場が長く続きました。 ただ、当時、米ドルなどの外貨は、今のように自由に日本円と交換できるものではなく、必要理由のきびしい査定がありました。闇ドルの値段は1ドル500円以上、と聞いたことがあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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