チューさんの今昔ばなし

2011/10/15(土)15:15

第二室戸台風来襲・・・台風の目に入る

・ 昭和35年(1960年)、私は京都市上京区の別の家に移り住みました。 この家は、戦前に父が何軒も持っていた貸家のひとつで、昭和21年(1946年)に 財産税(2011年4月27日のブログ参照) の名のもとに行なわれた、国による財産没収のとき、2戸だけ残されたうちの1軒です。 この一帯は、平安時代のころには、皇居・大内裏(だいだいり)のうちの西北部で、前の道路は、その昔の西大宮大路に当たるのですが、皇居が東に移るにつれて、庶民の住居地になった所です。  西陣の南西のあたりで、近所には機屋(はたや)や染物屋が多く、居住環境はあまり良くないところ。家も小さい機屋風の造りで、築後50年も経っているので、入居前にかなりの修繕工事が必要でした。 数百メートル北には、菅原道真(すがわらのみちざね) を祭る 北野天満宮 があり、祭礼の時には、野菜でこしらえた有名な神輿(みこし)・ずいき神輿 が家の前を通りました。                                   北野天満宮 昭和36年(1961年)9月16日、この家で 第二室戸台風 の来襲を受けました。この台風は、昭和9年(1934年)9月21日に関西を襲った、室戸台風(2010年5月6日のブログ参照) に匹敵する猛烈な台風でした。                                 大型台風の衛星写真 進路もよく似ていて、奄美大島を通り、四国の 室戸岬 に上陸、大阪湾に入って、大阪市・京都市 の真上を通過しました。                                   高知県・室戸岬 9月16日朝に、台風の中心が 室戸岬 の西に上陸。上陸時の中心気圧は925ヘクトパスカル。この上陸時の中心気圧の低さは戦後最低、伊勢湾台風 よりも低い値でした。 室戸岬 での最大瞬間風速は、秒速84.5m となっていますが、ここで計器が振り切れたそうで、それ以上の猛烈な風速でした。 台風の中心 は、大阪湾から尼崎市の西に再上陸。陸上でも台風中心の目は崩れず、京都市上空 を通過したあと、日本海岸に沿って進みました。 京都市内 では、未明以降、東からの暴風雨。私の家は機屋造りで、二階の東には窓がなく、吹き破られる恐れはありませんでした。 昼ごろ急に風雨がやみ、空に青空が出ました。 「これが台風の目か」 と道路へ出て、空を眺めました。青空の高い高いところには、何十羽もの海鳥が飛び回っていました。台風の目 から出られなくなってしまったのでしょう。 暴風雨がやんで青空が出た時間は、30分足らず。再び暴風雨となって、今度は吹き返しの西風になりました。 西は道路側で、二階に窓があり、雨戸はなく、風でガラスがしなうのです。破れては大変と、畳をあげて、それでガラス戸を押さえ続けました。暴風雨は夕方まで続きました。 この台風による各地の被害総計は、         死者 194名、 不明者 8名、 負傷者 4972名        家屋全壊 15238棟、 半壊 46663棟        床上浸水 123103棟、 床下浸水 261017棟 と報道されました。 猛烈な 台風 だったのに、伊勢湾台風 よりも被害が少なかったのは、来襲が昼間だったこと、のほか、戦前の 室戸台風 と、2年前の 伊勢湾台風 からの教訓があったからだと言われています。             * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * この年、昭和36年(1961年)。2月に私の 4番目の姉 が亡くなりました。この姉 は、姉たちの中でもっとも気性がすぐれ、容姿も良く、私ともよく気が合いました。ただ、若いときからたびたび大病をしました。 女学校を卒業して、大銀行に入社。客からも上役からも評判がよく、何年か勤めましたが、病気のため退職しました。 戦時中に結婚しましたが、相手がまもなく戦病死して実家に帰り、しばらくして母が死んだので、家事万端を引き受けてしてくれました。 再婚話もあったのですが、この年齢層の男子は多くが戦死しているので、思わしい縁もなく、そのまま実家にいて、兄が結婚してからは、家事を兄嫁に任せて、店を切り盛りしていました。 私の結婚を見定めて、自分の役目も終ったかのように、急死しました。42歳でした。私にとっては 第二の母 のような存在でした。

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