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2011年11月18日
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東京オリンピック の開催と、それに先立つ 新幹線の開業 で賑わった昭和39年(1964年)が暮れ、昭和40年(1965年)に入りました。

神武景気岩戸景気オリンピック景気 と、打ち続く 好景気。勤勉な勤労階級の働きに支えられて、日本の産業が、奇跡といわれる発展を遂げた 昭和30年代 が終わりました。

昭和40年(1965年) に入ると、東京オリンピック新幹線などの建設需要・テレビなどの購入が一段落し、経済が収縮しました。そして、これらの関連産業で手を広げ過ぎた企業を中心に、一転して 不況 が到来しました。

昭和40年(1965年)3月、姫路市の 山陽特殊製鋼 が、当時最悪の総額500億円の負債を抱えて倒産。多くの関連会社・子会社にも 連鎖倒産 が広がりました。倒産 する会社は、すでに前年から出始めていました。、住宅関連のサンウェーブ日本特殊鋼などです。

東京オリンピック後に急速に広がった 景気の反動と信用の収縮 は、株式市場 に大きい影響を及ぼしました。

日本の 株式市場 は、昭和30年代の打ち続く好景気をバックに活況を呈し、実体以上に値上がりしていました。証券会社 は、日々 推奨銘柄 を発表して買いを勧め、投資信託 を設定して販売しました。ところが経済状況が一転すると、株価はいっせいに反落 に転じました。

株価反落 の原因 は、ほかにもありました。それは会社の 増資方法の転換 です。昭和30年代までの会社の増資は、株主への 額面割当て が主流で、いったんは 権利落ち しても、好況による増益で値上がりして、株主は大きな利益を得ました。

それが、昭和40年(1965年)ごろから、時価発行増資 が多くなりました。時価発行増資 は、会社には多額の資金が入りますが、株主には 額面割当て の特典がなくなります。

当時、四大証券 といわれた、野村証券・日興証券・山一証券・大和証券 のうち、株価の値下がりでもっとも大きな痛手を受けたのは 山一証券 でした。


              山一証券の入っていたビル
                   山一証券の入っていたビル

昭和40年(1965年)5月山一証券 が危ないと報じられると、取引客が各支店に殺到して、預託している株券・債券・現金の払い戻しを求め、取り付け騒ぎ となりました。

この事態を憂慮した政府は、日本銀行総裁取引銀行頭取(とうどり)たちを集め、この場で、時の大蔵(おおくら)大臣・田中角栄 は、融資を渋る頭取たちを一喝して、無制限・無担保の 日銀特融(日本銀行からの特別融資) を決めた、と伝えられています。


                 田中角栄
                        田中角栄

資本主義の原則からすれば、無茶な政府の介入でしたが、無制限・無担保の 日銀特融 の発表で事態は沈静化しました。

そのうえで、、都市銀行や証券会社が出資した 日本共同証券会社 と、証券会社各社の出資による 日本証券保有組合 なるものが設立され、下落する株を買い支えました。

日本共同証券日本証券保有組合 の設立は、表向き銀行や証券会社の自発的意思によるものとなっていますが、裏では 大蔵省(おおくらしょう・現在の財務省) と 日本銀行 の大きな意向があったものと、私は思っています。

ただ、この二つの 株価買い支え機関 は、その後の いざなぎ景気 による株価の上昇により、それぞれ利益を出して、日本証券保有組合昭和44年(1969年)に、日本共同証券昭和46年(1971年)に、それぞれ解散しました。

政府は株価のさらなる下落を防ぎ、景気を浮揚するために、昭和40年(1965年)11月19日に、赤字国債発行 を閣議決定しました。

赤字国債発行 に対して、日本銀行代表の 吉野俊彦 は、

国債発行は、禁断の木の実 になるおそれがある。満州事変以降の苦い経験を忘れてしまったのか

と強く反対しました。このときは内閣改造により、大蔵大臣は 福田赳夫 に代わっていましたが、政府の方針は変らず、翌昭和41年(1966年)1月に、敗戦後初の 赤字国債 が発行されました。


                 福田赳夫                                     
                        福田赳夫

このときの 赤字国債発行額 は、今から見るとごく少ないものでしたが、この “禁断の木の実” はその後も発行が続き、額も大きく膨らんで、国債発行総額は、今や約800兆円というすさまじい額に達しています。

あと何年先か分かりませんが、国債発行額 がある限界を超えたとき、どんな大地震よりも、大津波よりも、恐ろしい破局が日本全国を襲うのではないかと、私は心配しています。

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世の中が少し沈んだような昭和40年(1965年)でしたが、私にとっては吉事がありました。それまで10年ほどをかけて続けてきた研究結果をまとめて、提出した論文が認められ、10月に、出身大学から 農学博士 の学位を授与されたことです。

戦前、博士の学位は、医学を除いて、旧帝国大学の教授などごく少数の人に与えられるものでしたが、戦後、大学院制度ができて博士課程が設けられ、状況が変りました。

博士の学位 を取得することで、自分はやっと一人前の研究者として扱われるようになったのだ、と思いました。学位授与式の日、私は36歳でしたが、大学の総長室に集まった30人ほどの中には、私よりも若い人が何人かいました。






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最終更新日  2011年11月18日 11時57分05秒
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