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中華人民共和国 で 文化大革命 の嵐が吹き荒れていたころ(昭和40年代)、その南の ベトナム では、激烈な戦闘が続いていました。ベトナム戦争 です。 この戦争は、南北に分かれた ベトナム を統一しようとして起こったもので、いわば内戦ですが、そこに、アメリカが 南ベトナム 支援のために介入して、長期の大戦争になってしまいました。 ベトナム は、戦前フランスの領土。第二次世界大戦時には、日本軍が全土を占領していました。 日本軍が撤収後、フランス軍が再びやってきましたが、第一次インドシナ戦争(2011年4月13日のブログ参照) で敗北し、ベトナム 北半に、ベトナム人による ベトナム民主共和国(北ベトナム) が建国されていました。 アメリカとフランスは、ベトナム 全土の共産化を防ぐために、ベトナム 南部に傀儡(かいらい)政権(南ベトナム)を樹立しました。 北ベトナム は、南ベトナム 解放のためとして、昭和35年(1960年)から、南ベトナム 政府軍に武力攻撃を開始しました。 アメリカは、アイゼンハワー大統領 のころから、南ベトナム 政府に軍事顧問団を派遣していました。ケネディ大統領 は ベトナム からの撤退を考えていましたが、後を継いだ ジョンソン大統領 は、積極的にこの ベトナム戦争 に介入しました。 アメリカ大統領・ジョンソン 北ベトナム へは、ソ連と中華人民共和国が膨大な軍需物資を送り込んで支援し、南ベトナム 側へはアメリカ軍のほか、韓国・タイ・オーストラリアなども派兵して、資本主義陣営と共産主義陣営との代理戦争 のようになりました。 こうして、この宣戦布告のない ベトナム戦争 は、15年に及ぶ長期の泥沼化した戦争になってゆきました。 ベトナム民主共和国国家主席・ホー・チ・ミン 北ベトナム は、ホー・チ・ミン国家主席 の指導のもと、軍民一体となって ベトナム 統一のために働きました。それだけに犠牲者の数も多かったのです。 南ベトナム には、ホー・チ・ミン に匹敵するほどの人物がなく、大統領や首相もたびたび代わったと記憶しています。 南ベトナムを訪れたジョンソン大統領 (前列左から、ジョンソン大統領・米軍ウェストモーランド将軍・ グエンバンチュー南ベトナム国家元首・グエンカオキ南ベトナム首相) アメリカは、ベトナム に55万の軍隊を投入し、昭和40年(1965年)2月からは、北ベトナム への爆撃(北爆)を始めました。 B―52爆撃機による北爆 北ベトナム 側は、南ベトナム 戦線への補給路(ホー・チ・ミンルート)を密林内に作り、アメリカ軍は、索敵のため上空から 枯葉剤 を散布しました。 補給路はラオス・カンボジアにも延びて、この両国も戦場になりました。 アメリカ軍ヘリコプターによる枯葉剤の散布 しかし、朝鮮戦争の場合と違って、南ベトナム軍 も アメリカ軍 も将兵の士気は上がらず、地の利を知った 北ベトナム軍 のゲリラ戦に手を焼きました。 ベトナム戦場のアメリカ軍兵士 アメリカ軍のヘリコプター ベトナム でのアメリカ軍の戦死者が増えるにつれて、アメリカ国内で、この ベトナム戦争 介入に対する疑問が出始め、これが若者の 反戦行動 につながってゆきました。 アメリカでのベトナム戦争反対運動 ジョンソン大統領 の人気はアメリカ全域で急落し、昭和43年(1968年)、ジョンソン大統領 は北爆の中止と、次期大統領選挙に出馬しないことを表明しました。 ジョンソン大統領の北爆中止声明を報じる新聞 昭和45年(1970年)1月、アメリカの大統領は ニクソン に代わり、昭和48年(1973年)1月には、パリで ベトナム戦争 終結についての話し合いがもたれましたが、戦争はさらに続きました。 陥落前のサイゴン市内 昭和50年(1975年)4月30日、北ベトナム軍 によって、ついに 南ベトナム の 首都・サイゴン が陥落。この日をもって ベトナム戦争 は終結しました。南ベトナム で解放の戦いが始まってから15年、アメリカ軍が本格介入した 北爆 から10年が経っていました。 この間に、ジョンソン大統領 も ホー・チ・ミン も死去しました。サイゴンはその後 ホー・チ・ミン市 と改名されました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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