158374 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

極東三馬鹿調査委員会

PR

カテゴリ

バックナンバー

2022.01
2021.12
2021.11
2021.10

フリーページ

2005.06.04
XML
テーマ:戦争反対(1070)
パターン化して詰まらん

朝鮮新報の日本の過去を告発するシリーズですか?

あぁ


〈日本の過去を告発する〉 神戸製鋼所に連行された洪燦正さん(79)


「甘言を弄して騙した」 
[略歴]:1926年4月20日、慈江道時中郡で生まれる。貧農の家庭で8人兄妹の3番目として育ち、普通学校卒業後は両親とともに農作業に従事する。1943年3月、日本人の甘言に騙され神戸製鋼所に連行され強制労働を強いられているうち、朝鮮人労働者を搾取する日本人伍長を懲らしめた罪で神戸警察署に監禁。警察署が空襲を受けたことにより釈放され、故郷に戻る。




 私が8歳の時、祖母と両親、8人の兄妹は口に糊することすら難しかったため、故郷を離れ慈江道慈城郡に移り住んだ。しかし、ここでも両親は貧農として働くのが精一杯で生活は相変わらず苦しかった。私も普通学校を卒業すると同時に両親の農作業を手伝った。

 1943年3月のある日、軍需工場で働く前田という日本人が「日本に行けば勉強もできるし、技術も習うことができる」と、一緒に日本に行こうと言うのだった。私は家が心配なので行けないと言ったが、日本人たちは前もって面所在地で戸籍を調べ、日本に連行する対象者のリストを作成していたので、逃れようがなかった。

 その日本人に邑に連れて行かれると、私の同年代の朝鮮青年が私を含め40人いた。私たちは汽車に乗せられ、現在の黄海製鉄所に連行された。製鉄所では厳重な警備を敷いて、私たちが逃げられないようにした後、工場の工程を1週間かけて見学させた。その時になって、「騙された」と思い、夜陰に乗じて逃げようと思ったが、警備が厳重でとても逃げられる状況ではなかった。

 見学を終えた私たちは翌日、汽車で釜山へ、釜山からは連絡船で神戸に連れて行かれ、20人は神戸精錬所へ、私を含む残りの20人は神戸製鋼所へ連行された。製鋼所に着くや否や、日本人は私たちに作業服を渡し翌日から仕事をさせた。

 労働時間は一日14時間、食事は麦と大豆の混ざったわずかな飯とタクアンだけだった。

 私はここで、溶解工として働かされた。幼いうえに経験がないことから、作業をうまくできなかった。そのたびに、日本人監督は私を殴りつけた。重労働をしながらも、食べるものは少ないので、3カ月後には栄養失調になり働けなくなった。しかし、製鋼所では薬一つくれなかった。私がこんな状態では溶解工はできないと言うと、日本人はクレーン運転工として働かせた。

 製鋼所で働いている時、私たちに毎朝、神棚に向かって正座させ「天皇陛下に感謝しろ」と強要するなど、ありとあらゆる屈辱と虐待を加える伍長が一人いた。あまりにもひどかったので私たちはある日、伍長を捕まえて病院送りにしたが、すぐ後に2人の憲兵が駆けつけて私たちを神戸刑務所の地下室に連行していった。私たちは5人ずつ独房に詰め込まれたが、横になるのはおろか足を伸ばすこともできなかった。私たちはここで数日間暴行を受けたが、刑務所が空襲を受けたことで釈放され、やっとの思いで故郷に帰ってきた。

 日本で受けた暴行により、左耳は今でもよく聞こえないし、腰にも後遺症が残っている。当時のことを思い出すと、今でも怒りがこみ上げてくる。(整理・李松鶴記者)




〈日本の過去を告発する〉 羅南19師団に「徴兵」された趙寅化さん(80)




「戦争で廃人になった」
[略歴]:1925年5月25日、咸鏡南道北青郡で4人兄妹の3番目として生まれる。親せきが3.1運動にかかわったという理由で財産を差し押さえられ、家族のもとを離れ清津製鉄所で少年の頃から労働を強いられる。45年4月、「徴兵」により中国東北地方でソ連軍との戦闘に動員され、解放当日まで戦わされる。九死に一生を得て故郷に戻るも、凄惨な戦闘が原因で、現在も精神的に不安定な状態が続いている。




 私の一家は、代々咸鏡南道北青郡リャンガリで暮らしてきた。6歳の年、叔父が3.1運動に参加したという理由で一家の全財産が差し押さえられた。このため私の家族は食べられなくなり、離れ離れになってしまった。しかし、翌年故郷で河川工事が行われたのを機に家族が集まり、工事の仕事をしながら細々と暮らしていた。工事が終わった後、両親は小作農として働き、私は牛追いをしながら稼いだ金で小学校に通い卒業した。

 卒業後は清津製鉄所の溶鉱炉建設に強制動員された。工事現場では毎日2~3人の朝鮮青年たちが命を落とした。当時、日本人は少年たちを「徴用」で連行し、一定の歳になると「徴兵」していった。

 私も45年4月1日から日本軍羅南19師団で軍事訓練を受け、6月には同じ年頃の青年たちとともに貨車に乗せられ、中国東北地方に連れて行かれた。

 ここで私たちは8351工兵部隊に所属し、ソ連との国境から40キロほど離れた場所で対戦車壕や防空壕などを掘る作業をやらされた。また、木材で偽の大砲を作る仕事もやらされた。中国に行く時、日本人は「いい暮らしが保障される」と言っていたが、私たちに与えられたものは少しの麦飯だけだった。

 8月9日午前1時、ついにソ連軍が進撃を開始した。私は「もう死ぬ」と思った。退却している最中、ある朝鮮の青年が「日本の上等兵を殺し赤の軍隊へ行こう」と言ったが、計画が事前にばれどうすることもできなかった。

ソ連軍の爆撃は日に日に激しくなるが、後ろでは日本人が「天皇陛下のために戦い自爆しろ!」と追い立てた。私たちはどうせ死ぬのなら逃げようと決心し、行動に移した。すると日本人たちは逃げる私たちを銃や刀で殺し始めた。

何とか生き延びた私は後方に行ったが、そこにいた将校は「なぜお前だけのこのこ帰ってきた! 前線に戻れ!」と怒鳴るのだった。結局私は、解放を迎えた8月15日まで死と隣り合わせの戦場で生き地獄を味わった。

故郷に戻ってからも、夜中に飛び起きたりうわごとを発するなど、深刻な後遺症に悩まされた。そのため家では「戦争廃人」になったと私の「祭祀」まで行ったほどだ。

私は今でも日本人に刀で切られたことにより、右脚が不自由で杖なしでは歩くこともできない。日本は、植民地支配時代にわが民族に対して犯した罪に鑑みても、中国東北地方で虐殺した朝鮮青年たちの遺骨だけでも最低限探し出さなければならない。(整理、李松鶴記者)






(゜Д゜)ポカーン……

・・・・・・・・・・・・・・・・・ワンパターン?もっと読者を楽しませないとやっていけなくなるぞ朝鮮新報

1943年3月、日本人の甘言に騙され神戸製鋼所に連行され強制労働を強いられ


労働者募集条件には「成年であること」の項があったと思いましたが・・・・・・

重労働をしながらも、食べるものは少ないので、3カ月後には栄養失調になり働けなくなった。しかし、製鋼所では薬一つくれなかった。

↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

あまりにもひどかったので私たちはある日、伍長を捕まえて病院送りにしたが

えっと・・・・・上の人と下の人は別人?

・・・私がこんな状態では溶解工はできないと言うと、日本人はクレーン運転工として働かせた。

クレーン運転工が出来るって・・・・・・貴方相当のエリート?

クレーン運転工は大変だなぁ・・・・・・・・専門的な技術が必要だから・・・・・・

ばればれですね・・・・・・

・・・私たちは8351工兵部隊に所属・・・

8351工兵部隊って・・・・・・日本軍じゃなくて赤軍か?

いいかげんすぐばれる嘘をつくのはやめてください・・・・・・






最終更新日  2005.06.05 16:35:38
コメント(4) | コメントを書く


キーワードサーチ

▼キーワード検索

カレンダー

お気に入りブログ

日韓歩み寄りなし-… New! 佐原さん

久々の日記がこれか… ナナシィ1190さん

週刊オブイェクトはS… JSF.さん
ひたすら無題 サスケットさん

コメント新着

乗らない騎手@ ちょっとは木馬隠せw あのー、三 角 木 馬が家にあるってどん…
チリチリ@ 次は庭で全裸予定w <small> <a href="http://kuri.backblac…
地蔵@ 驚きのショックプライスw コウちゃんがこないだ教えてくれたやつ、…
ユーキ♂@ 盛り上がりすぎ(ミ ̄エ ̄ミ) まだ始めてから2ヶ月だけど毎日入れ食い…

© Rakuten Group, Inc.