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2006.02.19
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カテゴリ:映画・演劇
大阪は都会だけにある程度、色々な映画は上映されるのだが、
大都会のワリには、すぐに上映が打ち切りになったりして、
こちらの注意不足や都合とあいまって、見そびれることが多い。

ギリシアのアンゲロプロス監督の久々の作品「エレニの旅」も、
封切り時には完全に見逃していたのだが、
ありがたいことに、
朝日シネマベストテンという催しで、
昨日上映されたのを見に行くことができた。
(正統派シネマファンからすれば、
 「ベスト++」というのはお仕着せの邪道というとこもあるだろうが、
 ただただ、観たかった映画を観る機会が出来る、というだけで、
 とてもありがたい。)

上映会場は、フェスティバルホールの地下にある、リサイタルホール(昔のSABホール)。
フェスティバルホールで音響を発すると、かなりハッキリ聴こえてきてしまい、昨日も、静寂な場面や、風の音を聴きたい ような場面で、
あたかも「遠方で、戦乱の大砲の音でも??」というような音が始終聴こえてきて、かなりハッキリと邪魔であった。
もしこんど機会があるときは、フェスでの公演内容や予定時間を考慮して行く必要があると、真剣に思った。

映画館でもコンサートでも、案外、内容そのものもさることながら、こうした環境は、大事な要素になるものだ。
「隣の人」というのも案外大きい要素だったりする。(コンサートで微妙にズレつつ「指揮」したり、チラシをビラビラめくり続けたり…)
また「前の人」(単純に坐高の問題というものもある)の影響を避けるためには、通路側が望ましい。
昨日は幸い、舞台に向かって、左のブロックの右端通路側に座ることが出きた。また、僕の左隣には、上品な女性が単独で来られていて、2時間50分の間、マナー良く、ミネレルウォーターのボトルを手に、リラックスした雰囲気で座っておられたので、座席の条件としては最上であった。前から大体10列目くらいであろうか。真隣ゆえお顔もちゃんと拝見もしなかったが、ピンクのカーディガン(セーター?)を出掛けに羽織られたこの方には、とても感謝したい気持ちで一杯になった。(偶然、ふたりとも会場を出る仕度に少しかかったものの、突然誘ったり声かけたりする訳にも行かず・・・)
人は、しらぬまに、人を傷つけたり悲しませたりしてしまうこともあるのだが、一方で、このように本人は知らず、自然に過ごすだけでも、人を幸せな気持ちにさせることもあるようだ。(もう2度と会うこともなく、そもそも顔もちゃっと観てないわけだが)

エレニの旅を見て、ふと、その昔観た、ベルトルッチ監督の「1900年」(原題では「1900年代」)を思い起こした。時期と場所がやや類似する面はあるものの、撮り方も、ストーリーも、人物の描き方も、そしてもちろん、登場人物の立場も全く異なるので、個人的な感想にすぎないのだが。
あえて言えば、どちらも、(これも全く別の形でだが)音楽が非常に印象的で重要な位置を占めている。(映像も息を呑むほど美しく、しかも安易なCGを用いず、象徴的な場面も、しっかり創り込んで撮っていて、まさに「これこそが映画だ」といえる映像になっている。(七人の侍 などの折の黒澤明のこだわりと工夫を思い出した。コレもまた全く異なる作風であるが。))

「人」の内面からは映像的には距離を置いた撮り方になっていて(びっくりするほど、距離やスパンの変化があるシーンでもワンショットだったりする)、また恐らく余り個人的感情を説明的に描くシーンや、筋書き・経緯を細かく解説するシーンはカット(編集で削除)したのではないか、という気がするシーンもあった。説明的なセリフも極力抑えられている。
登場人物はほぼ全て「難民」であり、このエレニは、「あらゆる意味で」「あらゆる面で」の「難民」の女性である。
実の両親・家族とは幼少期に別れ(記憶すら?)、ロシア革命からの難民である帰還ギリシア人の「親」からも、養父の妻になるのを逃れるという過酷な断絶を強いられ、

 (ロシア帝国の繁栄期には、多くの国からの移民が居たということになる。
  経済・政治の興亡に伴う民族移動は、常に起こっているようだ。)
それとともに、育った村からも断絶し、
かつ、追ってくる養父の影から逃れ、
別の戦争難民の集落(テサロニケの港町にあることになっている)の一員となり、
養父の葬儀に伴い帰郷するも、村人の排斥と(地主への反発?)自然災害により、故郷を再び永遠に追われ、
戻ったテサロニケの集落では、王党派(?)政権により、(普通の)労働者への弾圧から音楽を奪われそうになり、夫はアメリカへ渡り(ほどなく家族は呼び寄せるつもりで)、
エレニは、恩人を匿った罪で投獄され、あらゆる家族から離別させられる。

ギリシアの近代史を知らずに観たのだが、旧ユーゴと類似した面があるようで、王党政権・労働(戦線?)政権・王政復古政権(?…連合国側として参戦したのはこの時期?(確認中))・ドイツ・イタリア占領期に加え、1945以降に内戦があったらしい。エレニは、その変わり目毎に、監獄を変えられ、「制服」を替えさせられながら、ずっと自由を奪われ「抑圧されつづけた」。
 註)(2月25日)
   1919~1922年:希土戦争
   1924~1935年:共和制
   1935~   :王政復古
          ~第二次世界大戦中はドイツに占領~
   1945~1949年:内戦
   1952年   :NATO加盟
   1967年   :アメリカ合衆国の支援下に軍事独裁政権が成立
          (国王亡命)
   1974年   :国民投票により、君主制廃止。共和制へ
   1975年   :共和国憲法制定
   1981年   :欧州共同体 (EC) 加盟
  (wikipediaより…手抜きですみません。
   エレニの時代には、王政→共和制→王政→ドイツ占領下→王政・内戦とたどったことになるようです。戦後も含め、戦争に苛まれた歴史なのですね。)


1900年の方は、登場人物は全て主体的に動き、自らの行動の「結果」を受け止める存在であるが、エレニは違う。映画の中での「人」と「ストーリー」の描き方の大きな印象の相違は、この点も大きいようだ。

 (自らの運命に対して、主体的に作用できない というのは、
  多くの場合現実はそうなのだが、小説・映画などでは、「ウケ」にくい。先日のオリバーツイストも(映画では)そうであった。戦場のピアニストも宇宙戦争も同じくである。ただしこれらは別の「サービス」(ヤっつける場面とか、ドイツ人将校を感動させる場面とか…)で、「ニーズ」に応えてるが。
  その対極は「司馬遼太郎」的な、
   「この人のこの人格があったからこそ、コレが成し遂げられた」
   「一般に、++人には??気風があって、この気風をもってして、
    ##のこの快挙は成し遂げられたものであり、
   まさに++人の総決算ともいえるべき存在が##なのである」
 風な「気持ちのよい解釈付き、"結論"」であろう。)
あらゆる意味で「逆境」のエレニではあるが、心から愛する夫が居て(居なくなる不安…は常に心に影を落とすが)、自らの子供も引き取ることができ、そして音楽を愛する仲間や恩人も居て…という「生活」があり、そこに喜びと幸せと自らの存在意義も見出している。逆境そのもので、恐らくは「一般国民」からすれば、差別される集団の中のさらにアウトサイドの位置に居るエレニたちにもごく「ふつうの暮らし」があることを描くのにあたり、
「音楽」はとても重要で説得力のある縦糸となっている。そして、音楽は鼓動そのもののように、映画の「心拍数」をも表現している。それも多くの場合は、いわゆる劇伴音楽の枠を超えて、エレニの夫達や仲間自身が演奏している「映画の中の現実」として。
エレニには、愛する人の声そのものでもあるのである。
ただし、エレニ自身には音楽は全く奏でさせることもなく、軽く口ずさませることすら一切ない。「ママは(楽器は)何をするの?」と、子供と再会して問われる場面も、子供が始めてママと呼んでくれた感動の涙が溢れる場面となっている。

過酷な生活の内、具体的な経済的な側面や日々の生活時間・家事労働などを写実的に描くことはあえて避けており「貧困でのかわいそうな苦労話」的な色は全く皆無であり、人との関係や、周りの状況の変化がどうしようもなく(ただし極めて静かに「知らぬ間に」)押し寄せてくる。
そして、「ふつうの暮らし(家族と一緒に暮らすという)」の全てを、破壊しつくす。ギリシアが近代に経験した、何回かの戦争によって。
そのたびに、多くの「難民」が生まれ、別れや喪失がもたらされ、それは「とりかえしのつかない」ことであり、なぐさめようすらないほどである、ということを、エレニという1人の女性を描くことによって、ほとんど静かに語りかけてくる映画であったとも言える。エレニが涙する場面はいろいろと多いのだが、たぶん、絶叫し痛々しく泣く場面は、最後の最後に凝縮されている。本当に全てを失い、全て取り返しのつかない・・・そういう状況が、幻想的とすら言えるほど美しい、水の上に浮かぶ廃屋の場面に映し出される。

文字にすると、そんな「メッセージのための映画」みたいに読めてしまうが、そんな甘えた「宣伝映画」などではなく、本当に良い意味で「映画」である。

なお、
エレニの夫が戦死するのは、慶良間諸島でオキナワ戦だが、
映画でも「地獄のようなところ」と言っている。
オキナワも、多くのエレニやエレニの子供たちやエレニの夫が生まれた場所である。
今は「オキナワのオバア」とかコミカルな扱いを、ヤマトではされてるが、
(それもまた悪い面ではなく、いつも悲しみ眉をひそめるべきというのでは全く無いが)、
本当の地獄を、その眼で見て、通り抜けて、「今」を生きておられる方が多いことを思う「想像力」を少しずつお互いに持ち合うことは、あってもよいように思う。

このことは、なにも戦争・政治・歴史以前に、
「普通の周りの人々・他人」を見る折にも、大事な視点=「その人、その人に、いろいろな苦しみや想いを持って、"今"まで生きてきている」という事実に対する敬意と洞察を持つこと
にもつながる話 と思う。
歴史を見ること、「人」の話を聞くこと、「人」と接すること は、結局、「人」としての「お互い」を尊重すること、最低限の敬意を払いあうこと、につながるのだと思う。
そんなことも、この映画を観終わって、いろいろ考えているうちに、思ってきたのだった。

(「アイツら」「**のヤツら」よばわりして思考停止&理解停止することは、簡単であり心地良いことだろうが。
「ボクらはアイツらと違うもんね」といいあう「仲間」どうしでは。

これはどこでも起こりうる悲しむべき人間の性のようだ。職場では汚職にも背任にもイジメにもつながる・・・。
「カルト化」とも言えるだろう。)






Last updated  2006.02.25 16:32:43
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