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2010.03.22
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カテゴリ:音楽
早いもので、もう2年も前になりますが、
そのとき、本当に、偶然、気が向いて聴きに行って、衝撃を受けた、
イタリア出身の老巨匠といっていいアルド・チッコリーニ。
http://plaza.rakuten.co.jp/classical/diary/200803230000/
そのときで、すでに82歳を迎えていたので、
正直、もう一度聴くことがかなうとは思えなかったのですが、
この春、東京で3夜、豊田で1回コンサートをひらいてくれましたので、
ちょうど、土曜に豊田で開いてくれた、ただ一回のリサイタルに、
大阪から日帰りで行ってきました。

前回が余りにも奇跡的であっただけに、さらに齢を重ねた巨匠に再会に、
若干の躊躇はありましたが、
 (「年の割りに」とか「全盛期を彷彿とさせる」とかではなく、
   掛け値なしに「今、聴きうる最高の演奏(の1つ)」体験でしたので。)
チッコリーニが近隣県で週末にリサイタルしてくれるなんて、モンペリエとかまで行くことを思えば、奇跡&夢のようなことでした。
というわけで、今回、早々とチケットを獲得(@3000円)して出かけた次第です。

今回は、
一応、聴き手としては知っている曲ばかり。
シューベルトのピアノ・ソナタD960と、ムソルグスキーの展覧会の絵

果たして、どちらも、チッコリーニは、自らが必要と思う響きや音量やテンポに対するイデアに妥協なく向き合い、演奏上の「事情」や「苦労」などをまったく感じさせず、また、迷いや不安も感じさせることなく、今回も、これらの曲の「表現」の限りを尽くしたのでした。

リストの折には「老巨匠だから遅めに設定しているのかな?」とでも油断させるほどにゆっくりと始まったものでしたが、今回のシューベルトも然り。ただし、今回は、こちらもチッコリーニの手腕を知り、また信頼もしている、、のが前回との違いでしょうか。
前回同様、必要とあらば、いくらでもテンポを上げ、また、ホール中の聴衆の息が止まるかのような精妙なピアニッシモ(pppp......)から、腹に響くほどのホールを鳴らしきるフォルティッシモまでを、響きや音の始まり・終わりを崩したり暴れさせたりすることもなく、「必要な音楽、必然性のある響き、音型」として、それがいかに本来はリスクのあることであっても、そのリスクを、プロフェッショナルとして、完全に克服し乗り越えた上での、プロの仕事として、提示してくれたのでした。

また、一部の音の美しさに酔い・溺れるというものではなく、
音楽として、何の無理もなくバランスのとれた、
しかし、十分に挑戦的で表現主義的な、柔軟にして堅固、潔癖にして能弁なシューベルト。
元々が、生きることを突き詰めるほど死をも考えずにはいられず、情愛や夢をたたえるほどに孤独と寂寥にとりまかれる、、、そんな風情のあるシューベルトですが、
そのありとあらゆる「襞」を、あくまでも、音楽そのものとして、説明的にも描写的にもならず、音は完全な「音」として慣らしきり、情に任せたアゴーギクや、音の崩し(始めと終わり)は一切なく、「完全な世界」「完全な音楽」「完全なピアノ」というものがあるとすれば、これではないか、、、と思わせるような演奏でした。
楽譜をきっちり見たことがないうえ、僕はピアノがまったく弾けないのですが、
漠然とした記憶では、普段あまり聴くことの無い、リピートもかなり(全部?)実行していたように思います。

こうした精妙な表現を行うにあたり、「ノイズ」は、音質上も、和音のバランス上も、そして、テンポ上も一切ありません。
「こうあってほしい」「こういうものであるはずだ」、、、そう思うような音楽が、確かに、ごくあたりまえのように、目の前に現れました。
それは、決して巨大伽藍のような大げさなものでもなく、しかし、結果、巨大なのです。といっても、威圧感は一切ない、巨大さなのですが。


展覧会の絵 は、シューベルトに比して、一般的には、さらに「響き」と「音量」と「テクニック」のまさに「展覧」の曲、、、というイメージがあろうかと思いますが、
こちらも、響きと音量の面で、やはり、非常に多彩なパレットを用いた演奏でした。
が、表現される世界は、シューベルトとはある意味対極。
そして、かなり、アクロバティックな場面も続出します。
さらに、最期に行くほど、体力も消耗するであろう「マラソン」的な曲でもあります。
マラソンではあるが、ゴール前1kmほどで、宙返りやジャグリングやちょっとしたジョークもっ交えながら、最期には、オペラアリアを詠唱しながらゴールする、、といったくらいの負担かと。。。 およそ「老巨匠」が選びそうな曲では、一般的にはないでしょう。
しかし、
骨太な大音量や分厚い響きが必要なときには、
そうした音が、迷い無く選ばれ、実在させられ、
また、「マシン」としてのピアノの性能が存分に活かされもしたのでした。

「永字八方」とは意味が違うかもしれませんが、
あの、リストの折に聴いた、ありとあらゆる、響きと音量を存分に展開し、実在させる技能とセンスが、このムソルグスキーでは、再び聴くことができたように思います。

恥ずかしながら、どうしても、ラヴェル編 で親しんでいるので、
ピアノ版ではところどころ、「ああ、そうやったなあ、、、」と思い出すような人間ですので、
ごくごく細部で、版や編曲との相違なのか、ある程度やむをえないミスなのかは、
判然としない部分もありましたが、
しかし、そうしたことも、音楽にはまったく影響を与えず、
本当に、聴き応えのある「展覧会の絵」でした。

シューベルトの深淵にせよ、夢や追憶にせよ、ムソルグスキーの万華鏡のような逍遥にせよ、驚愕にせよ、夢想にせよ、、、
それらの幅広い表現に際して、チッコリーニ自身が、常に、フィジカルな人間としては、
冷静でのめりこむことなく、姿勢も安定して、「ピアノをして語らせる」ことに徹しているように見えたことも、また、合理的なプロフェッショナルとしての理想をまざまざと見せていただいた気がします。
やたら、顔芸をしたり、身体中でパフォーマンスするでもなく、
必要な力学的な作用を、指を通じて、鍵盤に伝えるに際し、
必要な姿勢や動きを、腕・肩・背骨&足(ペダル?)から、必要十分に与える。

昔、オイストラフがヴァイオリンを弾いてる姿を見たことがありますが(もちろんヴィデオで)
彼もやはり、映像だけ見ていたら、何の曲を、どんな曲を弾いてるのか想像もつかないほど、まったく「良い姿勢」で、きっと「基本に忠実に」立って、弾いていましたが、
チッコリーニは、そのオイストラフと重なるイメージがあります。

また、こうした非常に「具体的」な演奏に対する姿勢と実現方法、
そして、
音楽に対し、必要な響きと音量と全体のイメージと、すべての個々の音のそれぞれの「始まりと終わり」への当然のごとくの厳格さ、、、は、
チェリビダッケの演奏を想いださせてもくれました。
彼もまた、聴きようによっては、「とにかく遅い」とかいう印象をもたれがちですが、
必要とあらば、いくらでもアップテンポも行いましたし、
また、
タタキつけるようなド迫力のフォルテの炸裂、、、とか、
音がつぶれて歪んで崩れる、アクセントやスタッカート、、、や、
エクスタシーを迎える忘我への本能的なアッチェレランド、、、
などとは、無縁の、
音楽全体でのイメージと、
各瞬間でのそれらを必然的に構成するすべての音の積み重ねを、
丁寧に、形作っていった人でした。
(実演に触れたことのない人では、ジュリーニも、もしかしたら、そんな音楽家だったかも、、、とは思うのですが、わかりません。)

そういえば、チェリビダッケも、日本で突如もてはやされるようになってからは「ブルックナーの精神性」とか言われましたが、
しかし、プロコフィエフやムソルグスキー/ラヴェル、ミヨーなども、大好きでどんどん振っていた人でした。
「無類の音楽好き」で「響き~表現への探求者」でもあったのでしょう。

チッコリーニのアンコールは、1曲目が、意外や意外、
エルガーの「愛のあいさつ」でした。
本当に、混じりけの無い「歌」そのもの。。。。。
目頭が熱くなりました。
最後は、「火祭りの踊り」をやってくれるだろう、、、、と思いつつも、
ふと、
「ああ、巨匠は、この曲で、ぼくらに”さようなら”を言ってるのではないか、、、」
とよぎってしまうほど、美しい、やさしい、あこがれとなぐさめと愛情に満ちた、
「愛のあいさつ」でした。
ピアノは弾けませんが、きっと、楽譜があったら、
小学生でも弾けるような譜面なのかもしれません。
すくなくとも、「技巧的」ではないでしょう。

しかし、その曲を、本当に「ピアノ」であることすら忘れるほどに、
音楽そのもの、歌そのものとして聴くことができました。


そして、
最後は、お約束のファリャの火祭りの踊り、、、です。
前回と同様、何事もないかのように、姿勢を普通に正しながら、
必要なところは、腕を必要なだけ振り上げて下ろし、
必要なところは、指先を繊細に運動させ、
豪快にして、スピーティにして、熱狂的ではあるが、
崩れたり勢い任せなところはない、、、
火祭りの踊りでした。

が、同時に、「ああ、この人は、本当に、”音楽”が大好きで、好きで好きでたまらん人なんや!!!」と、しみじみと思い、ほとんど、ヤンチャな少年のようなほど「嬉々として」かつ「淡々と」弾く姿には、思わず、こちらが、笑みを浮かべずには居られませんでした。

ああ、しかし、チッコリーニ、、、なんと、録音に恵まれない人なのでしょう。
このファリャにしても、EMIに録音があり、ほとんど、同じ楽譜のはずなのですが、
そして、今よりも40年ほども若い「バリバリ」の頃の録音のはずなのですが、
自在感や自然さや天衣無縫さや響きの多彩さや均整、、といったものがあまり感じられない、普通にうまい人の演奏、、、といった感じすらしてしまいます。
実演で聴いたおかげで、大分、補正をして聴くことは可能なのですが、
友人に、チッコリーニってええで!!!って薦めたいときも、
たとえば、この録音を薦めることはかえって誤解を生みそうです。
EMIだから悪い、、、のかどうかはわかりませんが、とにかく、もっともっと録音がよかったら、、、、、と思わされるものが多々あります。
また、もっと早く聴きに行けてたかも、、、、(ただ、だからこそ、こうして、僕のような者でも、聴きにいくことができる、、、のですが)


前回も思ったことですが、
生きていくうえ、、、ましてや、仕事をしていくうえでは、
いろんな「事情」が存在し、、、それらはすべて、言い訳になりえます。
それも、単なる言い逃れではなく、
本当に、「正当な」言い訳にも。

しかし、自分・僕、、、として、
または、プロフェッショナルとして、
「コレ」が必要であり、あるべきである!!
と「思う」のなら、
「ソレ」に近づき、実現させるための努力と工夫を重ねるべきであり、
あきらめる、、のなら、それは、それまでのこと、、、であり、
自分・僕、、が、心の底から想い・求めている、、、とまでは言えないものである、、、
ということ、、、

そして、
チッコリーニは、
超高齢、、、といってもよい歳になって、
しかも、長時間フライトをしてきて、
ありとあらゆる言い訳が可能な状態になってもなお、
こうして、最高の演奏をしようとし、事実、実現してしまいました。
プロとしての成算がなければ、来ないでしょうし、
また、プロとしての成算ができるまでの努力を、
日々(それこそ70年くらい!!!)続けてきてこその「本番」
であり、
この土曜の「果実」は、実に、文字通り「不断の」努力と意思の積み重ねの上での
咲いた花が結実したもの、、、である、、、、と
つくづく思いました。

自分自身の「生き方」をも反射的に考えてしまう、
そして、稀有のお手本ともでもいうべき、
 (決してチッコリーニは誰か他者に対して求めたり誇ったりするようなものではまったくないですが)
そのような機会でもありました。





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Last updated  2010.03.22 23:58:57
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Re:チッコリーニとの再会(03/22)   KUMA0504 さん
ご存知のように全く音楽には疎い私ですので、
チッコリーニという名前も初めて聞きますし、文の途中まで指揮者かなあ、と思っていたくらいですので、コメントできる資格はないのですが、とってもクラシカさんの感動が伝わる文でした。

芸術は基本的には「本物」に接しなければ、評論は避けるべきだ、というのは加藤周一から学んだことです。基本的に、加藤は演劇、絵画、演奏に関してはその原則を貫いていました。いや、海外文学の紹介に関しても基本的には原書を読んでいないとコメントしていないほどでした。
そういう意味では、また10数年ぶりに演奏会に行ってみたいなあ、と思わせる文でした。 (2010.03.23 00:37:36)

Re[1]:チッコリーニとの再会(03/22)   クラシカ さん
>KUMA0504さん
ありがとうございます。
音楽について、なかなか、本当に正確に判るように書く、というのは難しいことです。
僕の場合は、「印象」を書いていて、こうしてその気持ちを汲み取っていただけることがうれしいのですが、
おっしゃるとおり、本当に評論をとなると、どういう立場で伝えるのか(体験を伝えるのか、対象を伝えるのか?、、)から、難しいことですね。
「本物」に接することはとても大切で、ただ、何が本物か、、、はともすれば難しいことが多いのですが(範囲を広げた場合)、
まずは、自身が「本物」と思えることに出会えることこそが、生きていくなかでとても貴重な、幸せなことなのでしょうね!!

>ご存知のように全く音楽には疎い私ですので、
>チッコリーニという名前も初めて聞きますし、文の途中まで指揮者かなあ、と思っていたくらいですので、コメントできる資格はないのですが、とってもクラシカさんの感動が伝わる文でした。

>芸術は基本的には「本物」に接しなければ、評論は避けるべきだ、というのは加藤周一から学んだことです。基本的に、加藤は演劇、絵画、演奏に関してはその原則を貫いていました。いや、海外文学の紹介に関しても基本的には原書を読んでいないとコメントしていないほどでした。
>そういう意味では、また10数年ぶりに演奏会に行ってみたいなあ、と思わせる文でした。
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(2010.03.27 14:59:19)


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