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カテゴリ:手話
音韻論において、特定の(音声)言語を構成する一定数の「音素」を特定するのに「ミニマル・ペア」が使われます。これは「1つの音素の違い」で弁別出来る複数の単語を示すもので、1つ違う音素は、語頭、語中、語尾のどの位置でも構いません。例えば日本語では以下のようなペアがあります。
「こ(子)」と「ご(碁)」(子音 : /k/ と /g/) 「か(蚊)」と「き(木)」(母音 : /a/ と /i/) ミニマル・ペアは既に確立された音韻体系(発音記号も含め)を記述する時に使われるというのが一般的です。つまりこれだけを使って知らない言語の音韻体系を確立することはないようです。前に一度、この質問を言語学者にしたことがありますが、国際発音記号を使えば済むとあしらわれたことがあります。 私はここに落とし穴があると考えています。ここで注目しなければいけないのは「音素がどうして一線上に分節できるのか」ということ。音声を使っているのだから当たり前とすぐに反論が入ると思いますが、ここが重要なのです。音声認識において人間は必ずしも「音素レベル迄分節している」わけではないからです。 例えば「か /ka/」と発音する場合、どこまでが子音の/k/で、どこからが母音の /a/であるのかの境界線をきちっと引くことは出来ません。声紋グラフを使ってもきちんと一線を引くことは不可能です。我々は、この場合、/k/で始まって /a/で終わると認識しているだけなのです。これは逆に言うと言語の「意味のもつ単位」の「最初と最後」を認識する能力があるから、これを子音の/k/と母音 /a/の連続であると認識することが出来るということになります。 この見方は現在の音韻論に於いて全く抜け落ちています。この理由として考えられるのは、まず「書記言語」の存在です。言語にもよりますが、一般的にヨーロッパ言語は、音素毎に文字を与える方式を採用しており、一音素に一文字を割り当てるという発想は自然なもので、国際発音記号はヨーロッパの言語を元にして発案されたものです。一文字は平面上で1つの「単位」として扱われます。このため、それに対応する音素も一単位であるという発送に行き着く訳です。 しかしよく考えてみるとこれは全く自然ではないことがわかります。音素の認識があり、文字が発明されたのですから、この順序を逆にして、文字の持つ視覚的な単位性を逆に音素の属性と見なすのには問題があります。音声の認識はあくまで聴覚刺激であり視覚刺激置き換えることは非常に問題があります。しかもこれが多分「無意識」に行われている可能性があるため余計に厄介です。 この問題を更に補強しているのが「言語は音声言語で代表される」という言語感です。音声言語は書記言語となじみがよく、歴史的に書記言語がなかった言語もアルファベット等を使って「記述する」ことが可能です。この(音声言語に偏った)普遍性のため「音素の単位論」は、いかなる言語に対しても存在する普遍律であるという認識に発展する訳です。 近年になって手話言語学の登場により頭の中では手話の存在は認められて来ていますが、いかんせん音声言語のみで研究された期間があまりに長かったため、この2タイプの言語を統一出来る理論を構築する前に、手話を音声言語学の枠で考えてしまおうという(これまた、無意識な)動きがあります。これを示す顕著な例が「手話の音韻論」なのです。(つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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