l'arbitraire(恣意性)がソシュールの勘違いであったことを言語学界が認める日が来るのだろうか。
これを一部指摘する動きはあるが、踏み込んで間違いであったという動きはないようである。しかし、私はソシュールの記号論を否定する訳ではない。言語学者達にほぼ完全に無視されているが、「一般言語学講義」の中にあるように、言語が「価値のシステム」であることを指摘した功績は大きい。今必要なのは、100年以上も前に考えだされたこの理論のアナクロニズムを修正し、新しい理論として再構築ことだ。
特に恣意性に関しては、今でも手話言語を排除する心理的な要因になっている。シニフィアンとシニフィエの関係を「恣意的」つまり、動機づけのない関係であるとするが、これは音声言語にのみ通じる見方である。シニフィアンとシニフィエが2つの二重の価値のシステムであるという認識に立てば、手話言語も音声言語も、それぞれのチャンネル(視覚と聴覚)の特性を反映しながら全く同じ土俵で論じる事ができる。早くこれに気付く人が1人でも増えてほしいと思う。
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Last updated
2012.02.14 20:32:13
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