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カテゴリ:知性(インテリジェンス)
ソシュールの唱えた記号論を理解した事で、ある意味、鬼の首を取った様な気分になっていたと思う。しかし、言語の本質を理解するだけでは、全く不十分であり、これから先の研究を進めるにあたり、方向性を考え直す必要がある。 前々から気付いてはいたのだが、人間が言語を使えるのは「知性」が発達したからだというのが一般的な見方である。道具を使ったり、集団生活をすることは、野生のチンパンジーの集団でも観察されているし、こういう行動は人間に特有な物ではない事は分かっている。 しかし、アフリカの平原で多くの類人猿の化石が見つかっている事から、アフリカのジャングルにいた人類の祖先が、木の上の生活を捨てて二足歩行することになることで脳の発達が促され、これが後に人間の知性の発達へとつながったと、この手のドキュメンタリーのナレーションによく出て来る。 ダーウィンの説いた進化論によって、生命、つまり種が、時間と共に、その形態を変えて行くということが当たり前になった。どのようなメカニズムで進化の方向性が決まるのかは、まだほとんど分かっていないのだが、進化するということだけが1つの事実として一人歩きしている、これはその一例である。 私の考えでは、知性のメカニズムがまず動物に生まれ、そのメカニズムが更に進化する事によって、人間に特有な知性が誕生する。といっても、誕生した瞬間に我々が考える様な人間になる訳ではない。しかし、初期の人類は、人間としての最低の条件を備えている。それは言語を発達させる能力である。 といっても直ぐに流暢にしゃべりだす訳ではない。これは、個人個人の意識の進化の形で、日々、そして世代を超えて少しずつ獲得されていく。ここで、1つ留意して欲しいのは、言語の本質とは、価値のシステム、或いは差のシステムを使って「命名する」と言う事である。自分という存在が、自分というアイデンティティーが確立することにより、自分を取り巻く世界を知るという欲求が生まれる。他を知る事は、裏を返せば自分を知る事になる。 人類の黎明期では、視覚言語の占める割合が圧倒的であったはずである。自らの体と手を使い、視覚情報に訴える方が「名の形」を特定しやすいという利点があるからである。しかし、何代か世代を経るにつれて、発音を使った聴覚情報への移行するは、自然の成り行きであったであろう。 ここでいう知性の発達は、実は人間となった生命体の意識の発達といい変える事が出来る。言語は、誰かに与えられた物でもない。生命体の意識の進化によって人間が生まれたとき、それぞれの個体が生きている中で1つずつ獲得したものの集大成を言語と呼んでいる物である。 文法と言われる物は、差のシステムの1つの定着した形に過ぎない。何を命名するか、どの順番で並べるか、これは言語毎にかなり差はあるが、規則性を持って定着することは間違いない。(ただ現在この部分に関しては、具体的に「何故」そうなるのか明確な回答はないのが問題と言えば問題であるが。) そして、チンパンジーの手話習得において、これが習得できなかったと結論づけられている。幾つかの組み合わせを試しては見るが、それは食べ物を欲しいという食欲に突き動かされた試行錯誤のなせる技であり、言語を習得した事にはならない。 この点に関して、今後も考察して行こうと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.09.20 05:10:43
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