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カテゴリ:差異
チンパンジーに手話を教えた実験を追ったドキュメンタリー映画化「プロジェクト・二ム」の最後に、実験を始めた研究者の結論として、実験に使われたチンパンジーが手話を覚えたのは結局のところ「食べ物をどうやって手に入れようという手段の一つ」であったということだとある。
今でも時々、インターネット上で言語の定義を探して読んだりするのであるが、やはり「コミュニケーションの手段」であるという定義が一般的である。手話を覚えたチンパンジーが、身振り・手振りで何かを伝え、逆に何かを理解しているのは確かである。しかし、そこには「個体としての欲望」がモチベーションとしてある。 これに対し、人間の場合、やはり「個体としての欲望」がベースにあることは否定できない。やはり「食べていかないといけない」のだ。しかし、人間には思考能力がある。これにより新しいものを想像し創造する力がある。そしてこれは「集団の記憶」として、蓄積されていく。 ただしここで1つ落とし穴がある。特定の言語を使うことで、先人達の蓄積した集団の記憶の恩恵を受けるわけだが、既に確立している集団の記憶に、創造性が封印されることがあるからだ。アイデンティティーを進化させることは、人類にとって共通の価値観ではない可能性があるということだ。 既に21世紀に入り、様々な国が近代化の道を通って経済的にも発展してきた。しかし、国力は高まっているようには見えるが「前近代的な国」が、存在する。日本にとって身近な例を挙げれば、支那と朝鮮である。 人間が平等であるということは、同じ価値観を共有することにおいて保障されるのであると思うが、それが適わない人たちが存在しているかもしれないのである。こういうことを書くと「人種差別的だ」という人もいるだろうが、彼らの行動を知るにつけ、疑問に思わざるを得なくなる。いわば、人類の進歩には目もくれず、私服を肥やすことだけに全エネルギーを注入する人たちがいるのである。そして、そうしない人たちを見下すのである。 チョムスキーの普遍文法に代表されるように、20世紀は、平等思想が栄えた世紀だったと思う。私も人類のもつ普遍性を全く否定する気はないが、人と人との価値観の間に「歴然たる差」が存在し、それを知識として知った上で付き合っていかないといけない世の中が来たのかもしれないと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.10.10 02:29:13
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