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カテゴリ:アイデンティティー
ようやく「記号」と「アイデンティティー」とをつなぐミッシングリンクが見つかった。まだ完全に二つがリンクしたわけではないが、いままでもやもやしていたものが、大分はっきりしてきた。 記号が生まれるためには、動物的な認知があることが大前提である。認知とは、外界からの物理的刺激を知覚し、生存のための行動を起こす場合に、単なる条件反射ではなく、個体が過去に経験したことに照らし合わせて判断を行うということである。ここで、間違えてはいけないのは、記憶の呼び出しに関して、個体には選択ができないことである。自分が直面している知覚情報と似た経験が、個体の意思とは関係なく呼び出される。 この意味においては、条件反射と実はあまり変わらないかも知れない。動物は、単に流れに任せているだけなのである。そこには人間が考えるような「主体性」はない。ただ人間から見ると、動物たち「思考」した上で判断を下しているように見えるが、これが大きな誤解である。そして、何を「似た経験」とするか、そしてそれからどのように判断するかは、種の間でも差があるし、同じ種でも個体差がある。動物の見せる「高度な知能的な行動」に惑わされてはいけないのである。 この「認知(行動)」のメカニズムに「離散化原理」が作用することにより、「記号/シーニュ」が誕生する。ここでいう「記号」とは、ソシュールの提言したものをかなりの部分で踏襲するが、全く同じではない。特に「恣意的」という表現に関しては、私は単語の選択を間違ったと考えているが、ここでは深くは触れないことにする。 「離散化原理」によって生み出されるのは、「シニフィアン」と「シニフィエ」という二層構造を持った「価値のシステム」である。特に「シニフィアン」に関しては、知覚情報が離散化原理により座標化することで、1つの「アイデンティティー」が誕生する。つまり、時間が経っても「同じ座標をもった知覚情報」を呼び起こすことができるということである。座標があることは、すなわち個体が自分の意思で記憶喚起をできることを意味する。これが所謂「名前」になる。「知覚情報のアイデンティティー」は「意味のアイデンティティー」というべき、1つの価値を形成するカテゴリーの集合体と呼応することで、「記号」として成立する。 「記号」というのは、人類に共通の能力であるが、具体的な個人のレベルで考えると「記号」は、個人の育つ言語環境の提供する記号に依存している。最初に習得する言語により、その個人の「記号」が大まか決まってしまうといっても過言ではない。これが所謂「国民性」と呼ばれるものであり、(大人になって)これに反発することも可能であるが、記号の習得によって行われる「価値のシステム」も同時に習得される。これには「道徳」や「一般常識」と呼ばれるものも含まれる。 こうやって、最初は生活のための単なる「記号」でしかなかったものが、個人の「アイデンティティー」へと発展していく。もとを正せば「記号」も「アイデンティティー」も同じ構造を持っているのであるから、これは自然な流れである。 続く。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.12.07 20:46:40
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