言語学を超えて(ソシュール記号学の新解釈)

2015/04/08(水)06:00

アメリカ手話は、手話と英語のクレオールか。。。

手話(40)

フランス手話とアメリカ手話は、歴史的に見ると接点が多い。 手話が教育のための言語としてフランスで確立され、そのメソッドを携えた教育者がアメリカに渡り、それがアメリカ手話の基礎になったといういきさつがある。今でも基本的な単語に類似性が見られ、指文字に関しては一部の例外を除いてほぼ同じである。 私はアメリカ手話の専門家ではないが、アメリカ手話について見聞きした特長を挙げてみる。1つは、形容詞と名詞の位置。手話では普通、名詞をまずサインで示し、その形質を表すサインが、その後になされる。これが自然な語順であり、フランス手話はこれが原則である。しかしアメリカ手話の場合、まず形容詞が来て名詞が来る。つまり、英語と同じ語順なのである。 これは、アメリカの聾教育の現場で手話が言語としてではなく、コミュニケーションの手段として優先されたことが根底にあると考える。聾学校で、自然手話を獲得しなかったが手話(サイン)を覚えた聴の先生によって教育がなされたことが原因だろう。つまり「英語対応手話」が、一種の「クレオール(異なった言葉を話す話者同士で作られた言語が世代交代を経て母語の域まで達した言語)」として「アメリカ手話」として定着したわけだ。 これとは逆に、フランス手話は、その後1880年のミラノ会議を経て学校現場から禁止され、手話を話す聾の教師も職を奪われることになる(注1)。ここで歴史の皮肉というか、手話が禁止されなかったアメリカでは、手話がクレオール的な発展をとげたのに対し、フランス手話は、聴覚言語との接触が絶たれた事により、全くの自然な言語として独自の発展を遂げた。 これに関して、私の聾の友人も支持してくれている。ただあまり公には言えないのがもどかしい。まるで手話の禁止を肯定するかのように取られる可能性があるからだ。禁止を受けながらも、自然な手話を伝え続けてきたフランスの聾コミュニティーには私は多大の尊敬をよせる。 もう1つアメリカ手話の大きな特徴は、指文字によるスペリングで英語の語彙を直接使うことである。アメリカ人が手話で話しているとき、日常的なことでは問題はないが、学術的な話題になればなるほど、この傾向が強くなる。フランス語圏のカナダ人がフランス語で話としているのに、英語の単語になると突然アメリカ英語の発音になるのとよく似ている。つまり、二つの言語体系が混在しているのである。 ここには非常に大きな問題がある。つまり、アメリカの聾者が自分たちの言葉だけで思考することが出来ず、アメリカ英語の学問体系から独立していないことを意味する。聾者の場合、手話だけでは高度な学問を修めることが出来ず、聴覚言語の書記言語をマスターすることになり、聴覚言語からの「外来語」を使うことは避けられないのであるが、指文字ばかり使うアメリカ手話は、ボタンのかけ間違いがここまで来てしまったといえるのではないかと思う。 日本語でもカタカナで表記する外来語は多いが、もうこれは外国語というより日本語になっている。支那人を支配した様々な王朝から渡ってきた漢字も、今では「国字」となっており、現代の中国人たちが見ても、使い方に大きな差がある。日本語で話しているのに、英語の単語を連発するのは歓迎できるものではない。しかも、アメリカやイギリス英語バリバリの発音でまくし立てられたら閉口してしまう。 アメリカ人の聾者にとってアメリカ手話は、どんな発達を遂げたとしても自分たちの言葉であるという自覚はあるだろう。それはそれで結構なことだと思う。フランス語だって、ラテン語と現地語のクレオールと見る事だって可能なのだから。 しかし、アメリカ人言語学者の言語の定義を見ていると、手話をあくまでも「聴覚言語のジェスチャー版」と見ているきらいがあり、そこが私にはしっくり来ないのである。 (注1:日本でも同じことが、その50年後に起きている。詳しいことは、山本おさむ氏の漫画「わが指のオーケストラ」に描写されている。)

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