|
カテゴリ:記憶の進化
何度か気持ちがぐらつくことがあったが、やはり「記憶」という言葉が一番しっくりくる。もう一度、これの持つ意味を定義しなおしてみようと思う。 「記憶」という用語の持つ属性を幾つか上げてみると、「存在」「アイデンティティー」「離散性」「進化」となる。 「存在」というのは、記憶が全ての観察可能な事象の大元であるということである。我々を取り囲み、我々を形成している「物質」も「記憶」である。 「物質的存在」が「記憶」であるというのは、「遠い昔」のことを伝えてくれるからである。どんな物質でも「記憶」である限り、個々が進化して昔と全く同じ状態であるとは言えないが、「リトルバン」が創りだした時空間の中で、太陽系という一定の構造を保ちながら今日まで来ている。 「生命的存在」が「記憶」であることは、もっとわかりやすいかも知れない。子供が親と似た形質を持っていることを見れば明確であるが、受精卵からの系統発生から見てもわかるように、我々の持つ遺伝子は古代生物の記憶をとどめている。 「記憶」が「進化する」ということは、次の段階の「人間的存在」が「文明の発展」を通して個々の人間の意識の進化をさせていることにつながる。この「人間的存在」は「人間のアイデンティティー」と置き換えることができる。人間は自分が何であるか知り、それを覚えていることで、人間として存在している。つまり、人間というのは体は物質ででき、遺伝子にその構造を負っているが、「アイデンティティー」という記憶なのである。 人間が扱う記憶には、大きく分けて二種類ある。記憶という言葉から連想されるとおり、過去の記憶と、もうひとつ人間が先のことに想いを寄せる未来への記憶である。そして、その二つの記憶の間に「現在」があるのだが、これは「過去の記憶」と「未来への記憶」との境界線上にあり、二つの記憶の間の綱引きが行われている現場である。 過去の記憶が「歴史」となるのは日本人を含めた一部の人間である。過去の記憶を自分の都合のいいように「捏造」することで自分の存在つまりアイデンティティーを確立する民族がいる。未来への記憶と言う時、一番わかり易いのが、暦と時刻による将来設計であろう。過去の記憶を蔑ろにするものは、未来の記憶を紡ぐことができずに、結局は破綻してしまう。 この二つの綱引きの現場にあるのが「価値観」とか「文化」と呼ばれるものである。過去にこだわるか、未来指向かというベクトルの間で、一人一人の行動の選択がなされる。しかし、この綱引きはそう単純ではない。過去をしっかりと見つめて、その中から未来を見出すことによってこそ「人間の記憶の進化」は促進される。過去にこだわりすぎてもだめだし、自分の勝手な未来だけを欲しても、進化には結びつかない。 日本文化の中心にあるものは「あらゆるものへの感謝」である。この価値観が、日本人を稀有な進化を遂げた民族に作り上げた。感謝の気持ちを持てない民族は、滅びの道をたどるしか無くなる。 最後に「離散性」であるが、多分これが一番分かりにくいだろう。ただ、離散的システムを我々は既に実用化している。それが言語である。だから、私のこの文を読んでいる人なら、離散性を知ることは可能であるとかんがえる。 離散的システムというのは、その構成要素が互いの差によって定義されということである。言い換えれば、離散差位によって個々のアイデンティティーが確立され、全体として離散的システムが成立するということである。しかも、この離散システムは進化する。ただし、言語の場合、言語の上辺だけの変遷のことではなく、その使用者である人間のアイデンティティーの進化という形で実現する。 この理解のための1つの手がかりとなるのが「ソシュール」の記号論である。特に「価値」に触れている部分に注目することで、新しい解釈、いやソシュール記号論を超えた新しい理論を構築することも可能であると私は確信している。 我々が普通に使っている「存在」という抽象概念は、実は言語活動によってその意味に大きな制限を受けている。しかし、言語の本質がわかった時、「存在」が「記憶」に還元できるということが分かる様になる。私が実現しようとしているのは、正にこれである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.12.01 08:15:40
コメント(0) | コメントを書く
[記憶の進化] カテゴリの最新記事
|