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言語学を超えて(ソシュール記号学の新解釈)

言語学を超えて(ソシュール記号学の新解釈)

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《自己紹介》
佐藤直幹(さとうなおみき)と申します。令和二年で満54歳になります。丙午です。現在、フランスのパリ近郊在住で、翻訳を中心に仕事をしています。
nsato75@yahoo.fr

記憶による自己同一性進化論という、テーマに取り組んでいます。言語の本質を追い求めているうちに、人間とは何か、認知とは何か、生命とは何か、太陽系とは何か、時空間とは何か、物質とは何かという問いが生まれ、これらの根底に流れているが「記憶」という概念だと気がつきました。

ただ。ここでいう「記憶」の概念は、端的に言うと私の造語で、我々の知っている「記憶」をカバーしてますが、全く新しい概念で「すべての存在を生み出し、支え、進化させる」ものです。

記憶による自己同一性進化論は、今の科学の枠組みとは全く違うものになりますが、今の人類の知識を、新しい枠組みで捉え直すというプロセスと考えれば、矛盾は無いと思います。一言で言うと「科学のパラダイムシフト」を起こしたい訳です。

今は、ソシュールの記号学を「記憶による自己同一性進化論」という枠の中で再構築することを課題としています。ソシュールの「一般言語学講義」を再読しながら、記号学を新たなレベルに引き上げることを目標としています。


日本の大学では経済学を専攻しました。卒業後、金属素材メーカーに就職しましたが4年後の1995年に退職、直後にフランスに渡航し、言語学の勉強を始め今に至ります。一応フランスで修士と同等の免状(DEA)を取得していますが、博士論文は途中で断念しました。

高校三年のときにアメリカのイリノイ州に1年間のホームステイ留学、大学3年に上がる前に韓国に一年間、語学留学していました。最近は大分忘れましたが、フランス手話もフランスで勉強し、私の言語理論の重要な支えになっています。

始めはフランス語で発信しようと思いましたが、フランス語の語彙の概念を借用しながら、日本語で書く事にしました。あまりネガティブなコメントにはおつきあい出来ないと思いますが、興味があれば読者の方々と色々とディスカッション出来ればと思います。

「日本人の為のフランス語自習室」というブログもあります。最近は更新していませんが、フランス語に興味の有る方は是非どうぞ。
http://francais75.exblog.jp/

趣味は折紙ですが,最近は半分プロとしてやっています。
折紙のバラが専門です。ここに作品を発表しています。ミクシーでは、もっと多くの作品を公開しています。ハンドルネームは「Mikki」
http://pliagedepapier.com/gallery/index.php?cat=11645

2015年8月に、「バラの折り紙 ROSE」という本が出版されました。
http://www.amazon.co.jp/バラの折り紙-1枚の紙から作る-佐藤直幹/dp/452905466

2018年1月27日に「美しいバラの折り紙」という本が出版されます。
https://www.amazon.co.jp/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E3%83%90%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%8A%98%E3%82%8A%E7%B4%99-%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%9B%B4%E5%B9%B9/dp/4529057674/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1516427564&sr=1-1&keywords=%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%9B%B4%E5%B9%B9

2019年9月24日にアメリカのTuttle社から「美しいバラの折り紙」の英語版「Naomiki Sato's Origami Roses, create lifelike roses and other blossoms」が出版されます。
https://www.tuttlepublishing.com/other/naomiki-satos-origami-roses


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2016.01.18
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黎明期の人類が話していた言葉は、視覚言語であったという仮説に立っている。ただ、当時の人間の大部分は耳も聞こえたから、発声をコミュニケーションに利用していたのは想像に難くない。つまり、聾者が中心になって発展させてきた現代の手話とは多少性格が異なる可能性が有るが、しかし、「シーニュ」を基本とする言語としては、手話でしかなかったはずだ。

この言語社会では、聾者達は、社会から全く隔離されることはなかったと推測できる。耳は聞こえなくても、目と身体で手話を操ることができるからだ。目が見えなくても、話し言葉をほぼ普通に操ることができるのと同じことである。

これに対して当時の盲者達は、手話にアクセスすることもできず、分節化されていない声が錯綜する世界で完全に孤立していた可能性がある。目が見えないことは、生活をする上でのハンデがより大きい。現代でいえば、言葉の習得に関しては盲聾として生まれてくるのとほぼ同じ状況だろう。聴覚と触覚だけでどのように社会に溶け込んで言ったのかはわからないが、どちらにしろ簡単な道のりではなかったはずだ。

この状況が聴覚言語の発明と普及によって大きく変わる。今まで、社会から隔離されてきた盲者が言語を手に入れ、その逆に聾者が言語を失うということになる。

聾者のこの状況が劇的に変わるのは20世紀になってからである。フランスのド・レペ神父らによる手話教育がとりいれられるのが18世紀であるが、その後聾児教育は口話法におされ、一部を残して世界中から姿を消す。日本も例外ではなかった。書記フランス語ができた当時のフランス聾者の社会的地位は大きく向上したが、その後、その地位を追われることになってしまう。

歴史上では、共同体の言語の推移によって翻弄される人達がいたが、21世紀の現代、人類はそれを乗り越える知恵を獲得した。視覚や聴覚に障害があっても、人類の記憶にアクセスすることは可能であると、我々は理解した。

人類の記憶である様々な知識にアクセスできることは、人間として生まれたら保証されるべきものだろう。





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Last updated  2016.01.18 16:26:18
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ネアンデルタール人の歌(1)   ともちゃん さん
佐藤さん
fractalemode さん

佐藤さん、明確なご回答ありがとうございました。
fractalemode さん、1月14日のコメントに、
答えさせて頂きます。

歌うネアンデルタール人が滅びたと言うのは、
面白い考え方です。
たぶん、これは、ネアンデルタール人は、
歌でコミュニケーションを取っていたと言う発想から
来ているのではないかと思います。

歌謡曲の歌詞を、曲を付けずに思い出せ!
これは、無理な注文です。
しかし曲を付ければ、
歌の文句はズラズラと連なって出て来ます。
これを根拠に、言語の始まりは音楽であったと考える
研究者がいます。

ネアンデルタール人は、
歌でコミュニケーションを取っていた。
しかし、我々「新人」は、手話を使っていた。
この様な時代設定だと思います。

fractalemode さんがおっしゃる意味での手話は、
現在でも、我々の生活のいたる所で見ることが出来ます。
おっしゃるように、野球のブロックサイン。
それから、セックスサインが有ります。

今晩やりましょうか?
子供に気付かれないように、
ブロックサインで交信されるご家庭もあるそうです。

こう言う悪賢い暗号を使用する「新人」に、
歌で交信するネアンデルタール人は、
たやすくやっつけられた。
fractalemode さんは、こう言う事を、
おっしゃっているのだと思います。

しかし、この場合は、あくまでも味方にしか伝わらない
「暗号」です。なるべく見つからない工夫がしてあります。

しかし、全員に知らせたい手話もあります。
競市(せりいち)で使うサインは、公開手話です。
卸売業者は、野球のブロックサインの様に、
敵にかくす必要は有りません。
ただ我々から見たら、スピードが速すぎて、
神業(かみわざ)のように見えるだけです。
ネアンデルタール人も、
この神業でだまし討ちに有ったのかも知れません。
(次に続く) (2016.01.19 06:05:47)

ネアンデルタール人の歌(2)   ともちゃん さん
(前回から続き)

昔、『ジェスチャー』と言うテレビ番組がありました。
これは、1月14日のコメントに書きました。
「ジェスチャーNHK名作選」で検索すれば、
すぐに出て来ます。

あ、インチキをしやがった!
私は、子供心に感じました。

腐ったものを食べた「ので」腹が痛くなった。
殴られた「ので」気を失った。

こう言う「お題」を頂いたタレントさんがいました。
彼は、この「ので」を表現する時、インチキをやりました。

まず右手で、自分の「のど」を指差します。
次に、同じく右手で、自分の左「て」を指差します。
つまり「のど」と「て」で、「ので」を表現するのです。

これは、この番組の趣旨から外れています。
これが、私のクレームです。

タレントさんの表情とポーズで、「言語」を表現する。
その工夫に、そのタレントさんの個性が出る。
これが、この番組の面白さです。

とは言っても、これはバラエティー番組です。
まあ、いいでしょうと言う事で、
司会者からのクレームは出ませんでした。

ところが、次の週もこの「ので」を使う、
別のタレントがいるのです。
その次の週も,また別のタレントが使っているのです。
つまり、この「ので」は、いつの間にか、
「約束ごと」になってしまったのです。

当時は、違和感を感じた私です。
しかし今から考えると、
実はこれが「言葉」の始まりだったのです。

私たちは、今でもジェスチャーを使っています。
日本人は、欧米人のようなオオバーなジェスチャーは使いませんが、やはりそれでも「身振り手振り」で感情を表現します。

この「身振り手振り」は、あくまでも感情表現です。
「身振り手振り」で、論理的な表現はできません。
しかし、人間が「約束ごと」を取り入れる事によって、
人間の言語が出来あがりました。

犬や猫・チンパンジーも、親子や夫婦、
あるいは群れの仲間とコミュニケーションを取っています。
ある種のスキンシップが、
コミュニケーションの手段になっています。

しかし、そこには「約束ごと」が有りません。
これが人間と動物の、コミュニケーションの違いです。
まさに「約束」が、人間の言葉の原点なのです。

私は、この辺りの事までしか解りません。
後は、佐藤さんのご高説を聞きながら、
言語学を勉強させて頂いております。

佐藤さんとfractalemode さんの討論は非常に面白いです。
一人で語っておられるときは、ちんぷんかんぷんの話でも、「第二者」の頭を通して聴く話は、ムダなところが濾過
(ろか)され、非常に解りやすい話に昇華されております。

頭の単純な私であります。
難しい言葉は理解できません。
小学生に話すつもりで、お手柔らかにお願いいたします。
(2016.01.19 06:14:37)

Re:ネアンデルタール人の歌(2)(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん

>まず右手で、自分の「のど」を指差します。
>次に、同じく右手で、自分の左「て」を指差します。
>つまり「のど」と「て」で、「ので」を表現するのです。

>これは、この番組の趣旨から外れています。
>これが、私のクレームです。

逸脱は人間らしいですね。知恵があるというか。差異化=差分=離散化。これを限りなく小さくすると微分ですね。しかし、ゼスチャには限界がありますよね。だから連続にはできない。

言語の離散性=非連続性はゼスチャを見ても明らかですね。

>つまり、この「ので」は、いつの間にか、
>「約束ごと」になってしまったのです。
>実はこれが「言葉」の始まりだったのです。

サイン(ルール)はV《勝利》ですね。

>犬や猫・チンパンジーも、親子や夫婦、
>あるいは群れの仲間とコミュニケーションを取っています。
>しかし、そこには「約束ごと」が有りません。
>これが人間と動物の、コミュニケーションの違いです。
>まさに「約束」が、人間の言葉の原点なのです。

新人にとっての原点は狩りのルールだったと思のですね。
一人ならそんな必要がありませんからね。つまり協働する必要があったわけです。それが多数になって公開の言語になった。セリは公開言語ですが、場としては離散化されてるのではないでしょうか。

そこで考えてみたのですが、狼煙は極めて速い意味伝達のサイン《離散記号》ですね。今風に言えば電波ですね。この電波だけを取り出すとアナログ=連続ですね。しかし、意味は離散化されている。受信側ではそれをデジタル化して画像として表現する。人間はそれを見て連続な画像に編集する。一方、音はアナログに変換して出す。人間は耳でアナログとして取り込む。さらに脳の中では対数変換して量子化される。更にそれを意識として浮かび上がらせるときは解釈という連続化をやっています。

このように途中だけ見て判断するとアナログが先かデジタルが先かさっぱりわからなくなります。根源はデジタルで途中でAD・DA変換があって、最終的にはアナログ(連続)として感覚となるのではないでしょうか。脳《自己》は自己(意識)によって自己をだましているという構造になりますね。

脳科学の研究で分かったことですが、腕を上げる動作には上げるという無の意識が働き、その後で、腕を上げたと意識(認識)するという報告があります。ここから発想したのですが、人間は自分のやったことは正しいと正当化しますよね。自己弁護、いいわけですね。そういう能力は動物にはないでしょうから、これが人間の意識の特徴でもあると思うのです。後付けするのが意識であると考えると、意識がどのように段階を踏んで発生してきたのかがわかるのではないかと思い始めました。

切りがないのでこのへんでやめます。 (2016.01.19 10:03:27)

脳の中の対数変換と量子化   ともちゃん さん
fractalemode さん

コメントありがとうございました。
以下の部分が理解できませんでした。
もう少し詳しく、解説をお願い出来ないでしょうか?

「さらに脳の中では対数変換して量子化される」
脳の中の対数変換と量子化がイメージできないのです。
私の、小学生レベルの頭に合わせて、
宜しくお願いいたします。
(2016.01.19 10:57:35)

Re:ネアンデルタール人の歌(2)(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん

約束が言語の始まりということに関連してですが、約束は協働する場面が必要だったと思いますね。ところはこれが人間だけの特徴かというと、そうではありません。ライオンは狩りをするときにはチームでやります。その時は無言のサインがありますよね。こう考えてみると、ミツバチのダンス、番いを求めるときのダンスなど、動物行動のいたるところに無音の記号があります。それでは、なぜ、人間だけが言語を持ちえたのかというところがぼけてきてしまいました。

生命はすべて無言の言語を持っている。ただ、そのレベルがあり階層構造になっている。ウイルスにはウイルスなりの意識があり、言語がある。そう考えることもできるのではないでしょうか。そうすると今度は意識の濃度というところに入っていきます。意識が関数だということも数学化できそうです。関数とはイレポンダシポンの自動販売機です。この関数を言霊とします。

意識は言霊としてガウス平面で表現できる。縦軸は虚数で気とします。表現できないので省略します。

無意識(霊)―1・・〇・・+1(言)⇒意識


これを使うと、言語と意識の関係がクリアになるかもしれません。ただし暫定版です。

バクテリアにも意識がありその言語は塩分濃度に対する離散化=差異化の認知です。つまり、言語は関数だといえます。ただ関数にも高度なものと程度の低いものがあるでしょう。ウィンドウズのOSのようなものです。現在は10ですが、ウイルスは1、バクテリアは2,人間は?という感じです。結局、意識はOS+アプリ+記憶ですね。これによって進化のレベルが違うということが説明できるのではないでしょうか。

人間と動物は違うといってみたとろろで先に進まないので、関数として普遍化してみると、あとはどんな関数、どんな記憶構造というところに落とし込めます。何故、サルはサルで止まってしまったのかですよね。手が使えるのですから手話に発展してもよかったのですよね。その可能性を奪ったのは何かです。

それはアフリカで起きたある事件(大陸を分断する亀裂が大地溝帯の出現)に関係しそうです。結局、森から締め出しをくったサルが人間になったというわけです。森の中は天国です。しかし、手が移動や食べることに占有されてしまう。狩りの必要もなかったのですね。追い出されたサルは手が自由になった。これが言語の契機ではないでしょうか。ライオンはチームで狩りをしたが手は使えなかった。だから言語の進化、意識へ進化しなかった。

思いつきです。 (2016.01.19 11:03:57)

言葉の始まり   ともちゃん さん
佐藤さん
1月14日の記事の疑問点を書かせて頂きます。

ともちゃんさんからの「自然言語」に関する質問を受け、
いろいろと整理をしているのだが、
結局のところ「自然発生的言語」といえるのは
「手話」しかないという結論に達した。

私が「自然」という表現にこだわるのは、
人間だけの力で
迅速に使用可能な言語を構築できるという性質である。
それを今から少し変えて「自然発生的」にすると
説明がしやすくなる。

視覚言語の手話の場合は、
一代で独立した言語を構築することが可能であるが、
聴覚言語の場合、音韻体系が成立していないことには、
シーニュが成立しない。

この見地に立つと、人類は「音韻体系」という
発明をしたという仮説が成り立つ。
つまり、人類の黎明期は、手話から言語が始まったが、
その後「音韻体系」をベースにした「二重の価値体系」が
確立することにより、徐々に聴覚言語に移行していったと
考えることができる。

「文字」に関しても、文明によっては
音韻体系の確立の前に出現したとも考えられる。
文字によって「記録」されたシニフィエに対して、
「音声」であるシニフィアンが割り当てられる。
文字という「記録媒体」があることで、
音声の固定が可能になったのだ。
しかし、日本のように文字が無くても聴覚言語を発達させた
文明もあるのだから、文字は不可欠ではないはずだ。

聴覚言語の文法を使って手話のサインを並べるものも
「(日本語)対応手話」というが、
最初のうちは視覚言語の文法を使って
文字を並べていた可能性さえ考えられる。

その後、聴覚言語が、それ自体として発達し始めると
視覚言語の文法は失われ、最後には忘れ去られることになる。人類がこれを再発見するのは、
聾者コミュニティーの出現を待つしかなかった。

まだ閃いたばかりなので、あやふやな点も多いが、
これをしばらくテーマにしようと思う。


佐藤さんが書かれた文章の6行目から7行目に掛けて、
「人間だけの力で迅速に使用可能な言語」と有ります。
本来、言語システムは、人間の力だけで築き上げたモノです。ここで、ことさら、
「人間だけの力」と言うのは,おかしいと思います。

これは、個人が一代で築き上げることのできる手話の事を、おっしゃっているのだと思います。
したがってここは、「個人だけの力」に
書きなおすべきだと思います。

12行目に、
「聴覚言語の場合、音韻体系が成立していないことには、
シーニュが成立しない」とあります。
「これは、ラングが成立していなければ、
パロールが成立しない」と言うようには解釈できませんか?

つまり、ラングと言う「音韻体系」の無い場所では、
パロールを話しても誰も理解できない。
この様な解釈は出来ないのでしょうか?

17行目の「二重の価値体系」とは、「手話の価値体系」と
「音声言語の価値体系」と言う意味なのでしょうか?

20行目に、
「文字に関しても、文明によっては
音韻体系の確立の前に出現したとも考えられる」とあります。

これは「音声言語」よりも,文字の方が先に出来た文明も,
有りうると言う意味ですね。

次に、「文字という『記録媒体』があることで、
音声の固定が可能になったのだ」とあります。
これは、非常に重要な事だと思います。

これを言ってしまうと、「文字の無い状態」で、
どうして「音声が固定」出来たのだ。
こんな疑問が湧いて来るのです。

私たちが外国語を習う場合、必ず文字と一緒に習います。
文字があった方が、「音声が固定」しやすいのです。
しかし赤ん坊は、文字を知らない状態で
「音声言語」を覚えます。
これが、外国語を習う時と、母語を習う時の大きな違いです。

ここで佐藤さんに質問があります。
文字を習わずに、外国語だけを覚えると言う学習方法が
有るんでしょうか?
そこを、教えて頂けないでしょうか?

ここで、佐藤さんが書いておられることは、
人類は、まず手話を覚えて、
手話の順番に言葉を発音して行ったと言う意味ですね。

そして音声言語が発達した時点で、手話が捨てられて行った。
その次が、1月18日の記事に続く訳ですね。

これは言語の始まりとして、面白い発想だと思いました。 (2016.01.19 12:03:10)

Re:ネアンデルタール人の歌(1)(01/18)   CLG2009 さん
ともちゃんさん
>fractalemode さん

>歌うネアンデルタール人が滅びたと言うのは、
>面白い考え方です。

ネアンデルタール人が歌うという発想は初めて知りました。どこかに出典が有るのでしょうか。できれば知りたいと思います。

>これを根拠に、言語の始まりは音楽であったと考える
>研究者がいます。

音楽も、人間の意識の離散化によって可能になります。音階が取れるようになるからです。アマゾンのピダハンも口笛で話ができます。他にも、ヨーロッパで口笛でコミュニケーションが取れる人達がいます。どこかは覚えていませんが。鶏が先か、卵が先かの議論になってしまうかも知れませんが、まず手話が成立したことが前提になったのであれば、音韻体型を持つ聴覚言語登場の前に音楽があってもおかしくありません。

>ネアンデルタール人は、
>歌でコミュニケーションを取っていた。
>しかし、我々「新人」は、手話を使っていた。
>この様な時代設定だと思います。

ネアンデルタールの絶滅は、化石人類学者達にとって大きな謎で、いろんな憶測が飛んでいるのだと思います。ただ、どのような活動をしていたのかの記録がほとんどないので憶測の域を出ないと思います。

>fractalemode さんがおっしゃる意味での手話は、
>現在でも、我々の生活のいたる所で見ることが出来ます。
>おっしゃるように、野球のブロックサイン。
>それから、セックスサインが有ります。

言葉を使えるようになるには、まず個々人が「人間」になっている必要があります。つまり、自分のアイデンティティーを持ち、意味のパラダイム的構築ができるということです。フランス人の聾者であるエマニュエル・ラボリさんの「かもめの叫び」に、彼女は言葉らしいものは小さい頃は話さなかったが、確か5,6歳で初めてアメリカで手話を使う聾者たちとあって、一ヶ月で手話をマスターしたという話があります。それ以前の彼女の記憶は、時系列がなく混沌としたものでしたが、それ以降は言語による記憶の構築ができました。つまり、彼女は家族との生活の中で、人間らしさ、離散化原理を自分なりに身につけていたのです。それが、体系化されたアメリカ手話に出会うことで開花したのです。

一旦、意味の構築ができると同じコンテクストの共有が可能になります。そしてこれがサインにつながります。この順番が多くの言語学者や初期の言語を考察する人の頭にはありません。私はあくまで認知から意識、記憶の離散化が人間に起きてからサインが生まれる事になります。

手話にも音韻体系に該当するものがあります。人間の身体が既に分節化されているからです。身体と頭と腕と手、そして目と鼻と耳と口、これは人間に共通しますし、皆同じ位置にあります。これらの動きを時間軸上である点とある点を結ぶんだ軌跡がサインになります。手話のサインを紙に記す時は、そのサインの始まりの手の位置と終わりの手の位置を重ねて書いて、その移動軌跡を矢印で示します。「手話 サイン」で画像検索してみてください。いろいろ出てきます。当たり前の様なことですが、この視覚的座標が確立していることが、手話の利点なのです。聴覚言語では、音韻体系を一代で確立して、実用に耐えうる言語に発展させるのは無理です。どちらにしろ視覚を駆使したほうが早いのですから、そちらに「流れた」と考えるのは容易です。

>こう言う悪賢い暗号を使用する「新人」に、
>歌で交信するネアンデルタール人は、
>たやすくやっつけられた。
>fractalemode さんは、こう言う事を、
>おっしゃっているのだと思います。

生存のための戦略に関する考察が一般的に多く見られますが、私自身は本題から外れると思うので、それを中心には持ってきません。こういう考察は興味がありますが、それだけでは説得力がないからです。

人間の祖先の類人猿が、森から草原に移り住んで手が自由になったから手が発達したというのはもっともらしい説かも知れませんが、私にはこじつけにしか見えません。その裏にある進化のメカニズムを私は知りたいと思います。

-----
(2016.01.19 13:07:04)

Re:ネアンデルタール人の歌(2)(01/18)   CLG2009 さん
ともちゃんさん
>(前回から続き)

>ところが、次の週もこの「ので」を使う、
>別のタレントがいるのです。
>その次の週も,また別のタレントが使っているのです。
>つまり、この「ので」は、いつの間にか、
>「約束ごと」になってしまったのです。

こんなエピソードがあったのですね。非常に面白いです。当時から言葉に相当に関心を持ってらしたようですね。

>当時は、違和感を感じた私です。
>しかし今から考えると、
>実はこれが「言葉」の始まりだったのです。

約束事が「シーニュ」になるという点では確かにおっしゃるとおりです。ただこの場合、「ので」の発想は日本語からの借用であることを明記しておく必要があります。

手話にもお約束事があります。やった、すごいといった感情表現も当然手話で表現できますが、このような論理展開のためのサインは、大体、聴覚言語及び書記言語からの借用です。フランス手話には、接続詞の様なものはありません。サインを組み合わせ、分節して意味を作っていくのですが、接続詞の様なサインを使わなくても論理構成が可能なのです。手話を勉強するときにナチュラルアローチと呼ばれるメソッドがあります。手話独特の文法を学ぶわけです。

手話法による聾児の教育を始めたド・レペ神父の使ったメソッドは実はフランス語対応手話でした。これは根付きはしませんでしたが、彼が聾児を一箇所に集めて教育したことにより、ニカラグアの例から見ても分かるように、学校内に自然発声的に手話が生まれました。そこにベビアンという混血の聴者がいて、彼は聴覚言語の書記言語としてのフランス語と学校で生まれた手話の両方をマスターしていました。聴者と聾者の間を結んだ彼の功績は大きいです。


>しかし、そこには「約束ごと」が有りません。
>これが人間と動物の、コミュニケーションの違いです。
>まさに「約束」が、人間の言葉の原点なのです。

手話の場合、お約束事がなくても論理構成は可能なのですが、この発想自体は正しいと思います。お約束事はそのままシーニュにつながります。

>佐藤さんとfractalemode さんの討論は非常に面白いです。
>一人で語っておられるときは、ちんぷんかんぷんの話でも、「第二者」の頭を通して聴く話は、ムダなところが濾過(ろか)され、非常に解りやすい話に昇華されております。

対話という形での討論は、非常に有効だと思います。皆さんの視点を取り入れて、自分の考えを再確認できます。ありがたいことです。
(2016.01.19 13:26:43)

Re[1]:ネアンデルタール人の歌(2)(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん
>ともちゃんさん

>逸脱は人間らしいですね。知恵があるというか。差異化=差分=離散化。これを限りなく小さくすると微分ですね。しかし、ゼスチャには限界がありますよね。だから連続にはできない。

>言語の離散性=非連続性はゼスチャを見ても明らかですね。

この部分が今ひとつわからないのですが、ご説明いただけますか。ジェスチャーは連続性であって、シーニュは離散的であるということでしょうか。それなら納得がいきます。ただ、手話の場合、シーニュが基本的にあるので、ジェスチャーで味付けができます。話のうまい人は、ジェスチャーやマイムを多用します。時にあまりに大げさになると、通訳の人が理解できない場合があります。

>サイン(ルール)はV《勝利》ですね。

同感です。(笑)

>新人にとっての原点は狩りのルールだったと思のですね。
>一人ならそんな必要がありませんからね。つまり協働する必要があったわけです。それが多数になって公開の言語になった。セリは公開言語ですが、場としては離散化されてるのではないでしょうか。

私は、コミュニケーションを取る前に、個人自身が「お約束事」つまり「意味/概念」を確立する必要があると思います。これがまずはじめにあり、それに対する「サイン」が二次的に現れると考えます。まずは内省ありきです。

>そこで考えてみたのですが、狼煙は極めて速い意味伝達のサイン《離散記号》ですね。今風に言えば電波ですね。この電波だけを取り出すとアナログ=連続ですね。しかし、意味は離散化されている。受信側ではそれをデジタル化して画像として表現する。人間はそれを見て連続な画像に編集する。一方、音はアナログに変換して出す。人間は耳でアナログとして取り込む。さらに脳の中では対数変換して量子化される。更にそれを意識として浮かび上がらせるときは解釈という連続化をやっています。

人間は音や光という物理現象を使ってシーニュを作ります。これはアナログですが、デジタルの頭を持っている人であれば、それを離散化できます。

>このように途中だけ見て判断するとアナログが先かデジタルが先かさっぱりわからなくなります。根源はデジタルで途中でAD・DA変換があって、最終的にはアナログ(連続)として感覚となるのではないでしょうか。脳《自己》は自己(意識)によって自己をだましているという構造になりますね。

アナログ的な感覚というのは言語を使う上で非常に重要だと思います。文字に慣れてしまった人達が、聴覚的記号が視覚に置き換わっても何の違和感も感じなくなってしまう。一種の麻痺だと思います。

>脳科学の研究で分かったことですが、腕を上げる動作には上げるという無の意識が働き、その後で、腕を上げたと意識(認識)するという報告があります。ここから発想したのですが、人間は自分のやったことは正しいと正当化しますよね。自己弁護、いいわけですね。そういう能力は動物にはないでしょうから、これが人間の意識の特徴でもあると思うのです。後付けするのが意識であると考えると、意識がどのように段階を踏んで発生してきたのかがわかるのではないかと思い始めました。

フィードバックですね。今名前が思い出せないのですが、フィードバックを使って、手や足がまひしてしまった人達の運動を助ける機器を実用化している方がいます。山海嘉之博士のことは、このブログでも取り上げました。今探したらこのページがヒットしました。

http://robonable.typepad.jp/column/2_/
(2016.01.19 13:52:18)

Re:脳の中の対数変換と量子化(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん

>「さらに脳の中では対数変換して量子化される」
>脳の中の対数変換と量子化がイメージできないのです。

五感は対数変換される
http://sky.geocities.jp/bunryu1011/5kanlog.html

直感の対数変換
http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200646213
直観と走馬灯は無限速度の実現である。
http://symdance.blog.fc2.com/blog-entry-176.html

簡単に言いますと、手で握って重さを感じますね。その感じはどうして生まれるのかというと、前の感じが記憶に残っていて
、次に重いものを持った時にその差を感じて差異を離散化しています。次第に重くしていくとどうなるのかというと、その感じ方は次第に頭打ちになっていきます。丘をイメージして下しい。決して↗ではないんですね。これは人間の感覚というのは鈍化してくるということです。重さが重くなると離散化(区別)できないということです。1gと2gの区別はついても100gと110gの区別がつかないのですね。丘の連続曲線を指数関数R=e^kEといいます。Rを重さという刺激、Eを感覚とします。感覚Eが指数関数の方に乗っかっているので、感覚を求めることができません。そこで、これを対数変換すると

《フェヒナーの法則》
 「感覚量は刺激強度の対数に比例する。」
 E(感覚量<心理量>) =k(定数)log R(刺激強度)

となります。

後は右辺をテイラー展開すると多項式の無限の級数となりますが、無限は通約不能なので、尻尾を切ると左辺は有理数で表現された感覚となります。これが量子化(数えられる量)の意味です。

主観を数式で表現するとこんな感じです。

しかし、これでは科学は成り立ちません。いつでもどこで測っても100gと101gは区別できなければなりません。電子バカリは重さと目方の関係は人間のように丘のようにはならずに直線になります。相対論ではこれが崩れますが。

いずれにしても感度が鈍る習性を人間の感覚は当てにならないとみるか、人間は適度にやりくりしているとみるかですね。

いや人間がやりくりしているのではなく、自然の力によってそう仕向けられているのです。その力を探しに行きましょう。 (2016.01.19 13:58:08)

Re[1]:ネアンデルタール人の歌(2)(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん
ともちゃんさん

>約束が言語の始まりということに関連してですが、約束は協働する場面が必要だったと思いますね。ところはこれが人間だけの特徴かというと、そうではありません。ライオンは狩りをするときにはチームでやります。その時は無言のサインがありますよね。こう考えてみると、ミツバチのダンス、番いを求めるときのダンスなど、動物行動のいたるところに無音の記号があります。それでは、なぜ、人間だけが言語を持ちえたのかというところがぼけてきてしまいました。

私は、人間以外には「言語」と「記号」は使わないことにしています。私の中のお約束事です。でも、一般的にどちらも動物世界のことを説明するときに使われるのは知っています。

>生命はすべて無言の言語を持っている。ただ、そのレベルがあり階層構造になっている。ウイルスにはウイルスなりの意識があり、言語がある。そう考えることもできるのではないでしょうか。そうすると今度は意識の濃度というところに入っていきます。意識が関数だということも数学化できそうです。関数とはイレポンダシポンの自動販売機です。この関数を言霊とします。

ウイルスはウイスルなりの「意識」があるのは分かります。少なくとも、ウイルスとしてアイデンティティーはもって、外界を察知しコンタクトをとっています。そういう点では、私は物質にも「意識」があると考えます。それが私の宇宙離散化論の発想です。

関数が言霊、私も言霊には大いに注目しています。言霊を研究している機関があるようで、セミナーへのお誘いがありました。私は話だけ聞いただけです。興味はありますが、今入会金を払ってどうのこうのということはないです。

>意識は言霊としてガウス平面で表現できる。縦軸は虚数で気とします。表現できないので省略します。

>無意識(霊)―1・・〇・・+1(言)⇒意識


>これを使うと、言語と意識の関係がクリアになるかもしれません。ただし暫定版です。

直感的には理解ができませんが、この式を私が見たことで、今後の私の研究に影響があるかも知れません。こうやって視覚されていることは素晴らしいです。

>バクテリアにも意識がありその言語は塩分濃度に対する離散化=差異化の認知です。つまり、言語は関数だといえます。ただ関数にも高度なものと程度の低いものがあるでしょう。ウィンドウズのOSのようなものです。現在は10ですが、ウイルスは1、バクテリアは2,人間は?という感じです。結局、意識はOS+アプリ+記憶ですね。これによって進化のレベルが違うということが説明できるのではないでしょうか。

生物の場合、どんなに下等であっても自分の環境を知ることが基本にあります。これも確かに1つの離散化です。そしてそれが蓄積することで意識が発達すると考えています。

私の宇宙離散化論では、物質のレベルではバージョン1,生命レベルでバージョン2、そして意識レベルでバージョン3としています。人間は、v3.5くらいかとおもっています。

>人間と動物は違うといってみたとろろで先に進まないので、関数として普遍化してみると、あとはどんな関数、どんな記憶構造というところに落とし込めます。何故、サルはサルで止まってしまったのかですよね。手が使えるのですから手話に発展してもよかったのですよね。その可能性を奪ったのは何かです。

人間と動物の違いを関数で普遍化。私にはできない芸当です。

>それはアフリカで起きたある事件(大陸を分断する亀裂が大地溝帯の出現)に関係しそうです。結局、森から締め出しをくったサルが人間になったというわけです。森の中は天国です。しかし、手が移動や食べることに占有されてしまう。狩りの必要もなかったのですね。追い出されたサルは手が自由になった。これが言語の契機ではないでしょうか。ライオンはチームで狩りをしたが手は使えなかった。だから言語の進化、意識へ進化しなかった。

森から人類が出たのは確かでしょう。しかし、私は人間になったから世界を探検したいという好奇心が生まれ、森を出たと考えます。あくまで人間への進化があった上で、その後に行動が伴うと考えます。

>思いつきです。

思いつきには、大事なことがいっぱいあると思います。

私も何か閃いた時はすごく嬉しいのですが、二三日経つと大したことではないと思うことも多く、しばらく考えてからメモするようにしています。でも、思いつきの連続が新しい発想を生むのは間違いないでしょう。


(2016.01.19 14:13:06)

Re:言葉の始まり(01/18)   CLG2009 さん
ともちゃんさん
>佐藤さん
>1月14日の記事の疑問点を書かせて頂きます。


>佐藤さんが書かれた文章の6行目から7行目に掛けて、
>「人間だけの力で迅速に使用可能な言語」と有ります。
>本来、言語システムは、人間の力だけで築き上げたモノです。ここで、ことさら、
>「人間だけの力」と言うのは,おかしいと思います。

>これは、個人が一代で築き上げることのできる手話の事を、おっしゃっているのだと思います。
>したがってここは、「個人だけの力」に
>書きなおすべきだと思います。

ご指摘の通りです。直ぐに訂正させていただきます。

>12行目に、
>「聴覚言語の場合、音韻体系が成立していないことには、
>シーニュが成立しない」とあります。
>「これは、ラングが成立していなければ、
>パロールが成立しない」と言うようには解釈できませんか?

>つまり、ラングと言う「音韻体系」の無い場所では、
>パロールを話しても誰も理解できない。
>この様な解釈は出来ないのでしょうか?

聴覚言語の場合は、シニフィアンである「音韻体系」の確立が一代ではできません。そうなるとおっしゃる通り「ラング」は成立しません。視覚言語の場合は、シニフィアンはほぼ「所与」です。チンパンジーでも、ジェスチャーでコミュニケーションが取れるのはそのためです。(ただし、チンパンジーには離散化能力がないので、言語にはなりませんが)

そしてラングが確立していなければ、パロールもない。その通りです。

>17行目の「二重の価値体系」とは、「手話の価値体系」と
>「音声言語の価値体系」と言う意味なのでしょうか?

これは「シニフィアン」と「シニフィエ」の二重体系です。このそれぞれの座標の対応をソシュールは「恣意的」と言っていますが、これほど誤解を生んだ用語もないので、今後これに変わる説明を離散的な視点でできればと考えています。

>これは「音声言語」よりも,文字の方が先に出来た文明も,
>有りうると言う意味ですね。

古代支那文明は、その可能性が高いです。あくまで憶測に過ぎませんが。

>次に、「文字という『記録媒体』があることで、
>音声の固定が可能になったのだ」とあります。
>これは、非常に重要な事だと思います。

>これを言ってしまうと、「文字の無い状態」で、
>どうして「音声が固定」出来たのだ。
>こんな疑問が湧いて来るのです。

音声の固定は、声の「子音と母音」への分節化(離散化)ということで実現できます。日本語の「か」は「k/a」です。この離散された構造を、人間の離散化した意識は認識ができます。これが音韻体系の端緒となります。

>ここで佐藤さんに質問があります。
>文字を習わずに、外国語だけを覚えると言う学習方法が
>有るんでしょうか?
>そこを、教えて頂けないでしょうか?

子どもたちは普通に覚えていきます。大人でも頑張ればできますが、微妙な音素のニュアンスが区別できないことがあり、文字がある言語の場合は、やはり文字から入ったほうが楽です。日本語の病院と美容院の違いが外国人にはわかりにくい例から見ても理解できると思います。


(2016.01.19 14:40:57)

Re:言葉の始まり(01/18)   CLG2009 さん
ともちゃんさん

>ここで、佐藤さんが書いておられることは、
>人類は、まず手話を覚えて、
>手話の順番に言葉を発音して行ったと言う意味ですね。

>そして音声言語が発達した時点で、手話が捨てられて行った。
>その次が、1月18日の記事に続く訳ですね。

>これは言語の始まりとして、面白い発想だと思いました。

手話でないと、共同体の共通言語となりえません。語順に関しては、手話の順番によったのか、それとも新しい順番を考えたのか、これも憶測の域を出ませんが、どちらもあったのだと思います。ただし、手話の語順のほうがより自然だとは思いますが。

手話(ジェスチャー)を完全に捨てていない人達もいます。カンボジアでは、聾の人達と家族や知り合いがジェスチャーで会話しているのを何度も見ました。といっても言語である手話まで発展したものではありません。でも、意志の疎通はかなりのところまでいけます。私も、聾者と会うと簡単な会話なら可能です。

これに似た例はアフリカにもあります。確かセネガルだったと思うのですが、このある村では、聴者と聾者が普通にジェスチャーで会話しています。

どちらの場合もジェスチャーで表現することに抵抗がないのでしょう。日本は「猿マネ」といってジェスチャーを嫌う傾向があります。フランスの場合はもっと激しく嫌います。しかし、マイムという身体表現芸術の基礎を作ったのがエティエンヌ・ドゥクルー(Etienne Decroux)というフランス人であったのは皮肉です。彼は、パントマイムのマルセル・マルソーの師匠でしたが、パントマイムという表現に行き着いてしまったマルソーは破門されました。 (2016.01.19 14:45:51)

言霊のパワー   ともちゃん さん
fractalemode さん

ライオンの無言のサインですか!
唸りかたによって、
群れのリーダーが指示を出しているんでしょうか?

カラハリ砂漠に集団ですむ小さな猿は、
敵ごとに違ったサインを出します。
泣き声の種類で、
襲ってくる敵の種類を仲間に知らせるそうです。

蛇が来たら、樹の上に逃げるサイン。
鷲が来たら草むらに隠れるサイン。
それぞれ、泣き声が違うそうです。
このサインも、言語なのでしょうか?

ウイルスにはウイルスの意識があり、蜂には蜂の意識がある。
それぞれ生物には意識の濃度があるが、
生物はその濃度に比例した言語を持っている。
fractalemode さんは、こうおっしゃっているのでしょうね。

しかし「意識の濃度」と言う意味が難しいですね。
濃度であるからには、数字で表せるのでしょうが、
どうしたらこの「濃度」を測れるのか?
ここが問題だと思います。

ある刺激に対する、
それぞれの生物の反応を数値化する事は出来ます。
しかし、それはあくまでも、
生物を機械として外から見たものです。

したがって、それは心を測定したことにはならない。
佐藤さんは、そのように言って
認知科学とたもとを分かったと言っておられました。

意識は言霊としてガウス平面で表現できる。
すごい事が書いて有ります。
ガウス平面とは複素平面の事ですが、これは、高校教育では、年代によって習ったり習わなかったりしてますね。
たぶん佐藤さんの年代では、習ってないはずです。
これは,言霊は虚数として計算出来ると言う発想ですね。

fractalemode さんは、お経を読まれますか?
私は、毎日、仏前で般若心経を上げております。
般若心経に限らず、お経はすべて中国語で書かれています。

普通の日本人に、中国語は理解できません。
しかし、日本人は、お経を日本語に翻訳しないのです。
訳のわからない、中国語のままで読んで来ました。
なぜだと思いますか?

まさにこれが言霊なのです。
お経を、日本語に翻訳したら、言霊が働かないのです。
般若心経は短いお経です。
簡単に意味が解ります。

しかし、意味の解る日本語の般若心経を
上げてもダメなのです。
まったく御利益がありません。

玄奘三蔵、つまり『孫悟空』の三蔵法師ですね。
彼が、サンスクリットから翻訳した、
中国語の般若心経にパワーが込められています。
私の感じでは、「言霊」とは、このパワーの事です。
このパワーが虚数で計算出来るのですね!

私の身内に霊能者がいます。
いろんなものが見えるそうです。
霊が寄って来る苦しみは,大変だと言っております。

しかし私は、霊能者ではありません。
本人が見えると言ったって、私には見えないのです。
何とか助けてやりたいのですが、私には見えないのです。

我々、一般人にも見える様にしてくれ!
そんな願いで、心の数学を始めました。
どおか、参考になる事を教えて下さい。
宜しく、お願いいたします。 (2016.01.19 15:08:15)

Re[2]:ネアンデルタール人の歌(2)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん

>>言語の離散性=非連続性はゼスチャを見ても明らかですね。
>この部分が今ひとつわからないのですが、ご説明いただけますか。ジェスチャーは連続性であって、シーニュは離散的であるということでしょうか。それなら納得がいきます。ただ、手話の場合、シーニュが基本的にあるので、ジェスチャーで味付けができます。話のうまい人は、ジェスチャーやマイムを多用します。時にあまりに大げさになると、通訳の人が理解できない場合があります。

ゼスチャは手話の延長だと考えました。ゼスチャに限界があるというのは、あるゼスチャとあるゼスチャとの間に別のゼスチャをいくらでも作り出せるのかということです。それは無理ですよね。ですから連続化できない。こう考えました。

ジェスチャーとシーニュは≒ではないのでしょうか。だからともに離散的だと考えました。ただ、大げさなゼスチャは通訳できない場合があるならそのゼスチャは無理数と同じ通約不能=通訳不可能です。大げさなゼスチャは連続とした方がいいのかもしれませんね。いくらでも意味不明にできる。

身体的に無限のゼスチャなどないと勝手に思い込んだようです。

>私は、コミュニケーションを取る前に、個人自身が「お約束事」つまり「意味/概念」を確立する必要があると思います。これがまずはじめにあり、それに対する「サイン」が二次的に現れると考えます。まずは内省ありきです。

野球では監督が内省してサインを作って、それから選手に教えますからね。そこはいいのですが、ライオンたちはそれをどうしているのでしょうね。

>人間は音や光という物理現象を使ってシーニュを作ります。これはアナログですが、デジタルの頭を持っている人であれば、それを離散化できます。

音や光はエネルギーで離散値です。昔は連続と考えていたのですが今は実験で確認され逆転しました。しかし人間は連続と見たり離散値としてみたりするということですね。

つまり連続的記号というのがあるということになり、記号化=離散値とは言えないということですね。それとも自然言語に限って言うなら離散値をとるということでしょうかね。いや人によりけりですか。

昔の科学者:エネルギー=波=sinΘ=連続値
今の科学者:エネルギー=粒=振動数=離散値

確かに人によりけりですね。しかし、言語は離散値をとるのではなかったのではないでしょうか。混乱してきました。

とりとめがなくなりました。続きます。 (2016.01.19 17:04:56)

Re[2]:ネアンデルタール人の歌(2)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん
続きです。

>>このように途中だけ見て判断するとアナログが先かデジタルが先かさっぱりわからなくなります。根源はデジタルで途中でAD・DA変換があって、最終的にはアナログ(連続)として感覚となるのではないでしょうか。脳《自己》は自己(意識)によって自己をだましているという構造になりますね。

>アナログ的な感覚というのは言語を使う上で非常に重要だと思います。文字に慣れてしまった人達が、聴覚的記号が視覚に置き換わっても何の違和感も感じなくなってしまう。一種の麻痺だと思います。

そうか。聴覚がアナログで、視覚がデジタルなのでしたね。
いやそうでもないようですよ。ジャズはデジタルに聞こえますし、夜の車を写真でとると流れているように見えますね。

こうなると、離散と連続の区別が曖昧となってきました。厳密な数学的な定義が必要ですかね。

>フィードバックですね。今名前が思い出せないのですが、フィードバックを使って、手や足がまひしてしまった人達の運動を助ける機器を実用化している方がいます。山海嘉之博士のことは、このブログでも取り上げました。今探したらこのページがヒットしました。

>http://robonable.typepad.jp/column/2_/

ロボットを考えることは人間を考えるということですね。問題は考えることを考えるということはどういうことかです。これが自己言及のパラドックスになるわけですね。数学的には不完全性の定理です。つまり、どんなに完全を期待しても不完全になるしかないというわけです。これは悩ましい問題です。神は一度、ニーチェによって死んだのですが、また、ゲーデルによって殺されてしまいました。神は二度も死んだのです。何故二度も殺されなければならなかったのかです。それは神が連続をベースとしていたからではないでしょうか。神を救うには離散化しかないと思われます。もっとも神を救うなどというのはおこまがしい話ですが。

不完全性の定理とはどんなにいいことを言ってもそれは正しくないということを証明したということですから、結局、意味は無意味によってしか担保できないことになります。無意味とはでたらめということです。ランダムです。そしてランダムとは確率ですから何事も決定できないことになり、さらに確率は連続が前提ですので、連続の世界観となります。

ランダㇺこそ意味の源泉であり、神の仕業というのです。信じられますか。アインシュタインは神はサイコロを振らないといいましたが、最後は寄り切られてしまいました。全く科学者もあてにならないものです。

言語の世界はどうでしょうか。数学的な意味での離散値としてどこまで死守できるのでしょうかね。厳密な意味での連続的な言語を認めてしまうと言語学は破たんするのでしょうね。それに代わって登場するのが穏健な連続性の概念(大げさなジェスチャ)です。これがどれだけ言語の起源を明らかしてくれるのかは私にはわかりません。
(2016.01.19 17:16:09)

Re[2]:ネアンデルタール人の歌(2)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん
>fractalemodeさん
>>ともちゃんさん

>>逸脱は人間らしいですね。知恵があるというか。差異化=差分=離散化。これを限りなく小さくすると微分ですね。しかし、ゼスチャには限界がありますよね。だから連続にはできない。

>>言語の離散性=非連続性はゼスチャを見ても明らかですね。

>この部分が今ひとつわからないのですが、ご説明いただけますか。ジェスチャーは連続性であって、シーニュは離散的であるということでしょうか。それなら納得がいきます。ただ、手話の場合、シーニュが基本的にあるので、ジェスチャーで味付けができます。話のうまい人は、ジェスチャーやマイムを多用します。時にあまりに大げさになると、通訳の人が理解できない場合があります。

>>サイン(ルール)はV《勝利》ですね。

>同感です。(笑)

>>新人にとっての原点は狩りのルールだったと思のですね。
>>一人ならそんな必要がありませんからね。つまり協働する必要があったわけです。それが多数になって公開の言語になった。セリは公開言語ですが、場としては離散化されてるのではないでしょうか。

>私は、コミュニケーションを取る前に、個人自身が「お約束事」つまり「意味/概念」を確立する必要があると思います。これがまずはじめにあり、それに対する「サイン」が二次的に現れると考えます。まずは内省ありきです。

>>そこで考えてみたのですが、狼煙は極めて速い意味伝達のサイン《離散記号》ですね。今風に言えば電波ですね。この電波だけを取り出すとアナログ=連続ですね。しかし、意味は離散化されている。受信側ではそれをデジタル化して画像として表現する。人間はそれを見て連続な画像に編集する。一方、音はアナログに変換して出す。人間は耳でアナログとして取り込む。さらに脳の中では対数変換して量子化される。更にそれを意識として浮かび上がらせるときは解釈という連続化をやっています。

>人間は音や光という物理現象を使ってシーニュを作ります。これはアナログですが、デジタルの頭を持っている人であれば、それを離散化できます。

>>このように途中だけ見て判断するとアナログが先かデジタルが先かさっぱりわからなくなります。根源はデジタルで途中でAD・DA変換があって、最終的にはアナログ(連続)として感覚となるのではないでしょうか。脳《自己》は自己(意識)によって自己をだましているという構造になりますね。

>アナログ的な感覚というのは言語を使う上で非常に重要だと思います。文字に慣れてしまった人達が、聴覚的記号が視覚に置き換わっても何の違和感も感じなくなってしまう。一種の麻痺だと思います。

>>脳科学の研究で分かったことですが、腕を上げる動作には上げるという無の意識が働き、その後で、腕を上げたと意識(認識)するという報告があります。ここから発想したのですが、人間は自分のやったことは正しいと正当化しますよね。自己弁護、いいわけですね。そういう能力は動物にはないでしょうから、これが人間の意識の特徴でもあると思うのです。後付けするのが意識であると考えると、意識がどのように段階を踏んで発生してきたのかがわかるのではないかと思い始めました。

>フィードバックですね。今名前が思い出せないのですが、フィードバックを使って、手や足がまひしてしまった人達の運動を助ける機器を実用化している方がいます。山海嘉之博士のことは、このブログでも取り上げました。今探したらこのページがヒットしました。

>http://robonable.typepad.jp/column/2_/

----- (2016.01.19 20:38:29)

Re:言霊のパワー(01/18)   fractralemode さん
ともちゃんさん

>ライオンの無言のサインですか!

>唸りかたによって、

>群れのリーダーが指示を出しているんでしょうか?


ライオンの言語ゲームをしたことがないのでわかりませんが、ゲームである以上、ルール(約束)があると思います。しかし、狩りをするときはう唸りさえさえ出せないと思います。唸ってはいけないという禁止のルールがあるはずです。唸るということは相手に知らせることですからね。そこでゲームオーバーです。


いずれにしても、無言の視覚言語ゲームがあって、互いの位置を確認して相手の位置も確認してどれを狙うかを決める。位置を決めるということは座標を決めるということですから、頭の中で想像しているということになり、頭の中に座標があるということです。つまりそれぞれのライオンに仮想空間があるということです。互いのそれは同じでなければ狩りは成功しませんから、それが同じだということが担保されているという言ことになります。もちろん完全に一致していなくてもよいのですが、そのずれが大きい時は狩りに失敗を意味します。そのずれは子供の時から遊びなど学習によって修正されてきています。


言語の使用に関する約束があって会話が成り立つのですから、その約束は学習されていると思います。それは遊びの時だと思います。仮想空間ができて初めて狩りに出ていくのだと思われます。サッカーでもフォーメーションが重要ですよね。言語科学では、動物には「言語」と「記号」は使わないというルールだそうなので、これをライオンに持ち込まないとすると、言語ゲームを説明することができなくなります。これは正直言ってかなり厳しい縛りだと思います。確かに、乱用はよくありません。私の試みはあらゆる現象を数学の言葉で表現するということにあります。つまり、数学のルールという縛りに従うということです。その縛りを無視したらゲームが成り立たなくなります。よくドラマでは奇跡的に助かったなどという場面を想定しますが、それがあるからこそ面白いわけですが、それが何回も出てくると、馬鹿にされてしまいますよね。ただ、この場合の約束に縛られるという意味と、「言語」と「記号」は使わないという約束は同じかということです。動物には「言語」と「記号」は使わないという約束は、動物には意識がない、だから動物には言語と記号を使ってはいけないともとれますが、果たしてそうでしょうか。


一方で、宇宙離散化論は物質にも意識があるということを前提にしているようですから、意識=記憶+類推だとすると、物質の意識=記憶+相互作用といえるでしょう。これを敷衍すると、言語ゲーム=記憶+思考、物語=記憶+記号過程、進化=記憶+漸化的過程、数学=記憶+思考、芸術=記憶+直感などなどの相同・双対性が見られますので、言語と記号を使わなくてもなんとか説明はできそうですが、使ってはいけない理由は見当たりません。このようなことを頭に入れて議論を進めていきましょう。意識(言語ゲーム=物語)=記憶+議論ですかね。


群れのリーダーは何らかの指示を出しているでしょう。しかし、唸らずに。それはタイミングではないでしょうか。リーダーがここだと判断した時に、それは全員に視覚で伝わる。見方には見えて、相手には見えないという位置にいなければならないのですからこれは至難の技ですね。粋な計らいというのがあります。粋とは美+意識+悟りだとします。これは粋の研究に命を懸けた九鬼周造の粋の構造を私が解釈したものです。更に粋=偶然=絶妙のタイミング=そっ啄同時です。

http://www.eonet.ne.jp/~jinnouji/page9/houwa/page178.htm

偶然というのはでたらめという意味ではありません。目的的偶然です。だからそっ啄の機です。つまり、卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がコツコツとつつくことを「そっ」といい、ちょうどその時、親鳥が外から殻をコツコツとつつくのを「啄」といいます。雛鳥が内側からつつく「そっ」と親鳥が外側からつつく「啄」とによって殻が破れて中から雛鳥が出てくるのです。両方が一致して雛が生まれる「機を得て両者相応じる得難い好機」です。

これを数学の言語と記号で語ろうとするとどうなるでしょうか。挑戦してみたいですね。
続きます。 (2016.01.20 09:28:16)

Re:言霊のパワー(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん

>カラハリ砂漠に集団ですむ小さな猿は、
>敵ごとに違ったサインを出します。
>泣き声の種類で、
>襲ってくる敵の種類を仲間に知らせるそうです。
>蛇が来たら、樹の上に逃げるサイン。
>鷲が来たら草むらに隠れるサイン。
>それぞれ、泣き声が違うそうです。
>このサインも、言語なのでしょうか?

音声による言語ですね。おっと、人間以外に言語を使ってはいけないのでしたね。やはりこの縛りは厳しいですね。明らかに、サルは語っているのですよね。行動につながる記号を離散化=差異化していますよね。そのサイン=記号も無限にあるわけではない。

>ウイルスにはウイルスの意識があり、蜂には蜂の意識がある。
>それぞれ生物には意識の濃度があるが、
>生物はその濃度に比例した言語を持っている。
>fractalemode さんは、こうおっしゃっているのでしょうね。
>しかし「意識の濃度」と言う意味が難しいですね。
>濃度であるからには、数字で表せるのでしょうが、
>どうしたらこの「濃度」を測れるのか?
>ここが問題だと思います。

すでに感覚は対数変換されるということを示しました。
http://sky.geocities.jp/bunryu1011/5kanlog.html

対数はテイラー展開して、離散化できるのですから、数字で測れるということです。もちろんこの場合、主観ですので、物理量のように装置で測ってこれこれという必要はないわけですね。行動につながっていれば、測っていると判断できるという意味です。

バクテリアは塩分濃度を測って、それがある値より大きいとその場所を離散します。原発事故で放射性物質の濃度が上がって、多くの人が離散家族となりましたよね。この場合は客観的に濃度を測って人間が逃げろと判断したわけですが、それと同じことを主観でやっているのですね。

>ある刺激に対する、
>それぞれの生物の反応を数値化する事は出来ます。
>しかし、それはあくまでも、
>生物を機械として外から見たものです。

それがデカルト以来に始まった近代から現代に浸透している科学です。ですから、システムというのは還元主義になって生命をとらえきれないわけですね。人工知能が真に知能となれるかというと現在のアプローチでは無理があります。私が言っている科学というのはその既知の外の科学=

気違いの科学なのです。生物を外から見ると機械となり、それを内から見ると生命そのものとなります。しかし、内から見るのは科学とは言えません。主観の科学などというのは成り立たないからです。科学は客観でなければなりません。重さがみんな違っていたら話にもなりませんよね。

しかし、その主観の科学が新しく登場したのです。しかし、疑問があるでしょうね。主観は科学ではないのですから。

主観の科学をあたかも客観の科学のように見せているのが量子論だといえます。これはまだ美人局ですね。量子論=量子言語です。量子論は確率論がベースにありますから量子言語を使った物語=確率論の言語ゲームです。確率として波としての存在があります。それは観測者という外の視点が入ります。そして観測されます。その瞬間に波が粒になります。この粒が何を意味するのかの解釈が始ます。まるで鶴の恩返しの物語です。見てはならないという約束があって、それを破る。その瞬間に、娘が鶴になって離散してしまう。娘が鶴になる過程は語ることはありません。同様に波が粒になる過程は問いません。ここに解釈が入ります。解釈が入ると言うことは科学ではありません。粒としての量子は果たして実在するのか、それとも波が実在なのかとか、多世界が存在するとか。もはや科学らしくありません。しかし、これが正当な権威化された科学なのです。科学というのは決定論的でなければならないはずですが、人によって解釈がまちまちとなるのが量子論的科学です。

そこで目を転じて心の現象論に着目すると、解釈論だということがわかります。その典型が夢解釈です。夢に出てきた記号(蛇とか)は実は幼児のころに虐められたことの現れだなどと解釈するわけです。精神分析は科学とは言わないですよね。心なんていくら分析しても検証できないのですからね。まあいってみればこじつけです。その意味で量子論は数学という衣を被った科学であり解釈学です。こじつけです。

私もサルは逃げてことで手が自由になって言語が生まれたとこじつけました。佐藤さんはその逆でしたね。これについてままた別途にコメントします。 (2016.01.20 11:16:45)

Re:言霊のパワー(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん

いずれにしても解釈が入った主観の科学が登場したことには間違いありません。これを受け入れるかどうかは、信じるかどうかですから宗教と変わりがないことになってしまいます。ご利益があればよいだけですね。ただ、量子論はご利益があるでしょうかね。

量子言語についてはこちら
http://www.math.keio.ac.jp/~ishikawa/

主観的科学という意味ではもう一つの流れがあります。それが内部観測論です。内在物理学とも言いますが、フッサールの心の現象論=超越論とも似ています。超越まではいかないようですが、内部とか内在という通り、外から見るのとは違うので一人称の科学といえるでしょう。生態観測するときは、外から観測しても実態はつかめませんよね。だから内部に入っていくのですね。麻薬の潜入捜査のようなものです。これをミクロの粒子に対してもやるのです。しかし、まさかミクロの決死隊になるわけにはいかないのでどうやるかですね。そこで数学が出てくるのです。しかも確率です。麻薬捜査官が潜入してみたものは、現実の麻薬取引であり、確定した犯人たちです。やがて証拠を持ち帰り、外の世界に戻って、逮捕に向かいます。ところが、量子の世界はこれができません。観測といってものぞき窓からしか見れないのですからね。ですから後は頼れるのは自分の脳だけということになります。こうしてライオンと同じ状況になります。頭の中にミクロの世界の状況を映し出す仮想空間を作ります。それが場の量子化つまり離散化です。生け簀に魚を放して魚をつ釣らせるせ商売と似ています。生け簀を格子で区切りって、釣り師にはその確率を情報として教えて場を選択させるのです。決してどこにどんな魚がいるとはいいません。競輪競馬に様なものですね。ギャンブルです。このような科学が成果が出るのか疑問ですね。ギャンブルならお楽しみですからよいのですが。科学となると、膨大な予算を使うのですから美人局に税金を使ったいるようなものです。実際に、現場にいる科学者が量子化学は成果が出ていないと内部告発している人います。ナノテクというのは粒子をピンセットでつかんで制御するようなものですよね。ところがその基本となる情報が確率なのであって、量子がどこにいつかは全く教えてくれないのです。どうやってコントロールするのでしょうね。

内部観測論もしょせんは外に出て報告しなければなりませんから、そこで元の科学に戻るわけです。そして確率に依存する。ここが泣き所ですね。確率からどう脱却するかですね。

量子論は破綻した。現在の量子力学のために すべての科学の発展が止まっている。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~kcy05t/nichemi.html


量子論は間違っていると批判したところでそれに代わる学がなければ犬の遠吠えになってしまいます。そこで、代替可能なもう一つの科学を紹介しましょう。それが真の既知外の科学です。それをS科学といいます。ロシアスミルノフ学派の佐野氏の科学ですね。

問題は測れるはずがない意識をどう測るのかですね。主観と客観をどう融合するかですね。口で言うのは簡単ですが、量子論の現状を見ても分かるようにかなり無理があります。そこをどう超越するのかです。先を急ぎましょう。 (2016.01.20 11:18:17)

美人局   ともちゃん さん
fractalemode さん

fractalemode さんの高度な数学を学ばせて頂こうと思い、さっそく高校時代の本を引っ張り出して来ました。
微分積分の所を見ていたのですが、
ふとfractalemode さんの以下の言葉が,気になりました。

数学を精神世界に持ち込むのは離散化できないので
大変難しいですが言語が離散化ならそれも可能だと思えます。ただし厳密さを求めるなら自然言語ではなく
数学だろうと思います。
その数学にも美人局がいますから注意が必要です。
その典型が連続値の数学であり微分積分と確率です。
その意味で量子言語は,
確率と微分を使っているので美人局です。

微分積分と確立が美人局(つつもたせ)。
たぶん、これは何かの比喩(ひゆ)だと思います。
この比喩でfractalemode さんは、
何を表現されようとしているのでしょうか。
そこを教えて頂ければ、
fractalemode さんのご主張が理解しやすくなります。
宜しく、お願いいたします。 (2016.01.20 11:19:32)

Re:言霊のパワー(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん
>したがって、それは心を測定したことにはならない。
>佐藤さんは、そのように言って
>認知科学とたもとを分かったと言っておられました。

確かに認知科学は外部観測論ですね。正しい選択だと思われます。

>意識は言霊としてガウス平面で表現できる。
>すごい事が書いて有ります。
>ガウス平面とは複素平面の事ですが、これは、高校教育では、年代によって習ったり習わなかったりしてますね。
>たぶん佐藤さんの年代では、習ってないはずです。
>これは,言霊は虚数として計算出来ると言う発想ですね。

GP(ガウス平面)の虚軸は虚の中がからになっている所。ほらあな。うつろです。どうしてこんなネーミング《記号化=離散化》をしたのでしょうね。虚数の英語はimaginary numberとなっています。つまり、想像上の数です。もっとも、想像=妄想とすると当たらずとも遠からずですね。

GPを精神現象に適用するとき、実軸を実在する軸とすると、虚軸は実在しない軸とすることができそうです。虚数は想像の数なのですから頭の中の世界を虚軸とするのは自然な流れですね。常識では現実のリンゴと絵に描いたリンゴは足すことはできませんよね。複素数Z=a+ibのリンゴをa,ibを絵に描いたリンゴとすると、Zはその足したリンゴになります。それを何と呼んだらよいでしょうか。複素数はこんなことを許してくれる数なのですね。これを言霊リンゴと読んでみます。GPに単位円〇を重ねます。すると、実軸が+1と-1と原点が0となりますね。

-1------0------+1

です。

縦軸は

i

|

|

|

0

|

|

|

-i


となります。
円ですから回転します。複素数の縛りは、√-1=i,i^2=-1です。

z=a+ibの共役をとると

zz*=(a+ib)(a-ib)=a^2-i^2b^2

となり、a=0,b=1のときにそのすごさを発揮します。

z=-i^2=-√-1√-1=-(-1)=+1です。

どうですか。虚数の自乗が+1になりますした。これは虚虚実々は真実であると宣言していると思いませんか。嘘に嘘を重ねると真実になる。

また、a=0,b=1とすると

zz*=(a+ib)(a-ib)=i*(-i)=+1

i*(-i)=+1

です。


i*(-i)=+1

i^2=-1

この二つを覚えておくだけでも、すごい物語が展開できます。

z=言霊リンゴとすると、その中身は、z=言+霊=a+ib=1+i
a=1,b=0のとき、z=1ですから、霊のない言が出てきます。現代人は多くの言葉を発しますが、霊のない言葉です。それが物質化された言葉だからです。+1は物質世界の象徴の位置なのですね。では霊はどこにってしまったのでしょうか。それは-1です。

絵に描いたリンゴ(霊=精神)-1----0---+1(言=物質)実在のリンゴ

とすると、z=a+ibで結合されていたもの言霊として物(りんご)が、二つに分離されたということです。虚数の霊としてリンゴが、絵に描いたリンゴとして-1に現れたといってよいでしょう。この心と身体が分離したのが近代であるともいえるでしょう。

そういう姿をこの簡単なGPを使うことで、全てを表現してくれるのです。

i*(-i)=+1

のiの自己、-iを他者とすると自己*他者=+1となって、自己と他者の共振(*)によって+1(自己同一性=アイデンテティ)が生成されたと解釈できます。自己同一性は物質化ですから西洋的自我ともいえるでしょう。そうすると-1の自己(鏡)が重要になってきます。物質化した自我を本当の自己に再生するのには、-1を取り戻すことが必要になります。そのメカ二ズムはどうなっているのでしょうか。GPの円は単位円ですので、この回転が動的作用となって自我を再生することになります。その起点が原点であり、虚数の実軸の交差する場所です。虚数は気のエネルギーが充満してるところですから、このエネルギーを使って回生させるというシナリオが見えてきます。そのためには円を四分割して、それぞれに意味を与えないといけませんね。宇宙の離散化の論理はこの単位円の中にすべて含まれているといってよいでしょう。


ここらで一休みしましょう。
(2016.01.20 12:28:02)

大発見   ともちゃん さん
fractalemode さん

複素数は,相対性理論の説明で良く使われます。
それに量子力学では絶対に必要な数字ですよね。
これを、心の世界を計算するときに使用できるのですか.

ところで美人局(つつもたせ)はどうなりましたか?
心の問題とは,程遠いと考えられている数学です。
こんな学問に、この様な言葉を使用されると言う事は、
大変な発見をされたのではないかと考えております。

すべてを話すのは難しいかも知れません。
サワリの部分だけでも結構ですので、そこの所を、
どうか宜しくお願いいたします。
(2016.01.20 14:14:26)

Re[3]:ネアンデルタール人の歌(2)(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん

ジェスチャーと手話の境目を決めるのは非常に難しいです。特に言語学者の中では、手話が独立した言語だと思っていない人がまだまだいます。

ジェスチャーは、話者が知っている有る特定のコンテクストを伝えます。一種、固有名詞です。これが普通名詞になるとサイン(シーニュ)になります。ですから、ジェスチャーとシーニュの差は決定的なものと私は考えています。ただ、ジェスチャー自体も、空間に有る分節した身体の動きの軌跡として捉える点で、既にある程度の離散化がなされています。だから、手話が自然発生言語で、聴覚言語はそうでないのです。

大げさなジェスチャーが通訳にわかりにくい、というのも単に大げさなのではなくて、時空間を使った手話独特の文法に通訳が追いついていけない場合が有ることがあります。前、子供の手話を通訳が理解できずに、一旦聾者を通して「言語化/手話化」してから会場の視聴者に伝える場面に出くわしたことがあります。

私は、手話が分節言語であることは理解していますが、ネイティブではないので、彼らがどういう時空間文法を使っているか、まだ完全に理解はできていません。これは将来の研究を待ちたいと思います。

ライオンの場合、雄が風上に立って、その匂いから逃げる獲物を風下の雌が狩るというのを小さい頃に読んだことがあります。お互いの約束は、風上か風下か、そしてどちらが狩りをするかでしょう。ただ、最初に食べるのは狩った雌ではなく、高みの見物をしていた雄です。これも約束事の1つでしょうか。


>音や光はエネルギーで離散値です。昔は連続と考えていたのですが今は実験で確認され逆転しました。しかし人間は連続と見たり離散値としてみたりするということですね。

この議論は、最近ネットで知りました。人間の見方によって、観察される状態が変わると言うのは、何度説明を読んでもしっくりはこないので、私にはまだ謎のままです。

私は、わからないことはそのままにとっておきます。理解したつもりになると、そこで嘘が入るからです。知っていることと理解することは違うので、この議論も知ってはいるが、理解はしていない状態です。 (2016.01.20 15:09:58)

Re[3]:ネアンデルタール人の歌(2)(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん

>そうか。聴覚がアナログで、視覚がデジタルなのでしたね。
>いやそうでもないようですよ。ジャズはデジタルに聞こえますし、夜の車を写真でとると流れているように見えますね。

これはあくまで言語の成立という点においてです。音楽はデジタルでしょう。でなければ音階は生まれませんから。

>こうなると、離散と連続の区別が曖昧となってきました。厳密な数学的な定義が必要ですかね。

私の考える離散化の反対語は「連続」にならないかなと思っています。私にとって離散化は宇宙の記憶の進化のメカニズムで、連続対離散という図式が想像できないのです。確かに、離散化していない前の状態は連続だと思うのですが、単なる連続ではないと思うからです。堂々巡りなのですが、もっと考えた何かわかったら投稿させていただきます。

ランダムが神の仕業とは私も思いません。前におっしゃったカタストロフィー理論は納得できます。我々には常に選択の余地が残されているのです。その選択肢を作るのが離散化原理だと私は思います。

私が記憶言語学で考える離散化と数学の離散化が、どこまで重なるか、どこでずれるのか、これから少しずつ解き明かして行けたらと思います。少なくとも離散化という同じ用語が有るのですから、議論はいくらでもできますから。

(2016.01.20 15:20:55)

Re:言霊のパワー(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん

>fractalemode さんは、お経を読まれますか?
>私は、毎日、仏前で般若心経を上げております。
>般若心経に限らず、お経はすべて中国語で書かれています。
>普通の日本人に、中国語は理解できません。
>しかし、日本人は、お経を日本語に翻訳しないのです。
>訳のわからない、中国語のままで読んで来ました。

>なぜだと思いますか?
>まさにこれが言霊なのです。
>お経を、日本語に翻訳したら、言霊が働かないのです。

>般若心経は短いお経です。

>簡単に意味が解ります。


般若心経は知っていますが、お経を上げたことはありません。色即是空・空即是色はその核心ですね。お経を、日本語に翻訳したら、言霊が働かなくなるというのはいいところついているようですね。

通約不能という無理数があります。これを通訳不可能。翻訳不可能と言い換えると意味が理解できます。あるいは可視化不能でもいよいですね。無理数を無理に翻訳すると有理数となりますが、その結果、痛いしっぺ返しを食らう時があります。無理に翻訳したのですから大事なことが抜けることもあるでしょう。

何故、お経を翻訳すると霊が逃げるのかです。それは翻訳する人のメガネが西洋メガネだからです。そのメガネとは同一律によって駆動するからです。

A=Aであるというのが同一律であり、自己同一性になります。A=自己としてみてください。私は私であるとなりますね。私は私であって、私以外ではありえないのです。私は私であると同時に私は私ではないと言ったらどうなりますか。そんなことをいうと、冗談だろうと思われるか気がくるっていると思われるでしょう。

AであることとAでないこととは同時には成り立ちません。しかし、それを受け入れるのが仏教です。色即是空・空即是色はそのことをいっているのです。それを同一律しか認めない西洋の論理では翻訳のしようがありません。

これを発展させたのが禅であり、その神髄は即非にあります。即非とは是即非であり、はいでありいいえです。そんなことは曖昧ですよね。唯識の龍樹がそれを論理にしたのです。

続きます。 (2016.01.20 16:31:15)

Re:大発見(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん
先の物語が終わっていないのにアクセスできないのでここに接続します。
>しかし、意味の解る日本語の般若心経を上げてもダメなのです。まったく御利益がありません。

当然ですね。非がぬけてしまうからです。

>玄奘三蔵、つまり『孫悟空』の三蔵法師ですね。
>彼が、サンスクリットから翻訳した、
>中国語の般若心経にパワーが込められています。
>私の感じでは、「言霊」とは、このパワーの事です。
>このパワーが虚数で計算出来るのですね!

気のパワーを虚にして使うということですね。

>私の身内に霊能者がいます。
>いろんなものが見えるそうです。
>霊が寄って来る苦しみは,大変だと言っております。

霊能者の存在は私は確認していませんが、サヴァン症候群と関係するのではないでしょうか。サヴァン症候の人は超能力とは言いませんが天才的な能力を発揮します。何故そういうことができるのかというと、左脳が壊れてしまったからです。逆にいうと右脳が過剰だということです。

右脳が過剰な人が霊能者なのではないでしょうか。遊牧民は占いが得意ですがそれは右脳系だからではないでしょうか。右脳の働きを暴走しないように左脳が発達してバランスをとっているのが現代人だということではないでしょうか。もちろんゆらぎがありますから、西洋が左脳優位、東洋が右脳優位、その中でも極端に現れれるのが霊能者と呼ばれるのではないでしょうか。霊能者とサヴァン症候群を結びつけるのはこじつけかも知れませんが、霊能者とは文字通り霊を感じる能力を持った人なのですから、+1(物質的自我)に偏ったのが左脳型の現代人なら、-1(霊的無自我)に偏った右脳型の現代人がいてもおかしくはないわけです。虚とは想像であり、妄想です。その妄想が左脳の論理を離れると仮想の世界だけになりますよね。

妄想は苦しみです。しかし、本人はそれを妄想とは思いません。私も自分の妄想(仮説)を妄想とは思いません。仏教はその逆に現実の方がすべては妄想であるといってのけたわけです。ですから霊能者の方が仏教的なわけですね。しかし、その当人が苦しんでいる。それは引き裂かれているということですね。現実と仮想の狭間で生きているということですね。

現実も仮想も妄想ならどっちも苦なのですね。ですから仏教は答えを用意してくれています。その答えが色即是空・空即是色です。現実は妄想だから空であるし、空は妄想だから非現実であるし、どっちに転んでも苦しみだけであるといいます。だから、それを逃れるには、真理を悟るしかないということになるわけです。ではその悟りとは何かですがこれがまた難しい。その前のやることがあるということです。それがメガネを変えることです。
続きます。 (2016.01.20 16:53:39)

Re:大発見(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん

どうも投稿がうまくいきません。二重になっていたすみません。

>しかし私は、霊能者ではありません。
>本人が見えると言ったって、私には見えないのです。
>何とか助けてやりたいのですが、私には見えないのです。
>我々、一般人にも見える様にしてくれ!
>そんな願いで、心の数学を始めました。

私も唯識を数学すればその全容が解明できると思いました。いくら禅の問答を理解しようとしても理解できませんからね。まだ、頭が左脳優位なのですね。しかし、数学は計算だから左脳ですよね。それがどうして右脳を理解できるのでしょうか。そのことを理解するためにはコンピュータの世界で起きていることを理解すると先に進めるかもしれません。

コンピュータは計算だから左脳だというのが常識です。しかし、サヴァン型コンピュータが出現したらどうなるでしょうか。それが関数型言語ではないでしょうか。幼稚園の運動会で玉入れ競争がりありますね。あれの数え方は左脳型ですよね。一つずつ先生が球を取り出して数えます。これはこれでいいのですが、数が多くなると時間がかかってやっていられません。そこで出てくるのが球を箱に入れておいて生徒を並べます。最後の生徒が持っている札には数が書かれています。つまり、瞬時に玉の数が判別できてしまいます。サヴァン症候群はこういうことを脳内でやっているのではないでしょうか。

これを宇宙コンピュータと考えます。多項式で表現された無限の数列は計算に時間がかかります。しかし、現象は待ってくれません。ではどうしますか。葉っぱは日陰を作らないように位置を決めてそこに自分の位置を決めます。なぜこんなことができるのでしょうか。葉っぱは霊能者ではないでしょうか。

葉っぱの位置決めは純粋に数学的に決められます。それは黄金角です。黄金角は黄金比と親せきです。どうして過去(葉っぱ)の位置と重ならないように次の葉っぱは位置が決められるのでしょうか。これは計算です。しかし、計算時間がかかってしまったのでは出番がなくなります。葉っぱも必死なのですね。霊能者は葉っぱの気持ちがわかるのかもしれませんよ。

この議論はここまでとします。 (2016.01.20 16:59:53)

Re:美人局(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん

>fractalemode さんの高度な数学を学ばせて頂こうと思い、さっそく高校時代の本を引っ張り出して来ました。

>微分積分の所を見ていたのですが、

>ふとfractalemode さんの以下の言葉が,気になりました。

すみませんが私は数学の素人です。

>数学を精神世界に持ち込むのは離散化できないので

>大変難しいですが言語が離散化ならそれも可能だと思えます。ただし厳密さを求めるなら自然言語ではなく

>数学だろうと思います。

>その数学にも美人局がいますから注意が必要です。

>その典型が連続値の数学であり微分積分と確率です。

>その意味で量子言語は,

>確率と微分を使っているので美人局です。



>微分積分と確立が美人局(つつもたせ)。

>たぶん、これは何かの比喩(ひゆ)だと思います。

>この比喩でfractalemode さんは、

>何を表現されようとしているのでしょうか。

>そこを教えて頂ければ、

>fractalemode さんのご主張が理解しやすくなります。


何もこれは私の大発見というよいうのではなく、微分はペテンであるという次(村上氏)の受け売りです。http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/iinuke.html

もっともここでは微分をペテンだというのは量子論を知らないからであり、ペテンという方がペテンだと言っていますが、そこでさらにそれを否定して、やはり微分はペテンだというのが佐野博士です。


微分思考とは小さな時間幅をΔtと置いてその間に動いた距離をΔxとして、そのΔtを次第にゼロに近づける。このゼロではないが、しかし無限にゼロに「近づける」というのが微分操作、つまり、頭の中で想像する。これが瞬間速度v=Δx/Δtという概念です。100kmの距離を1時間かけて車で飛ばしてきたよ。というとそれは時速100kmですが、これは瞬間ではなく平均速度です。実際は速度違反もしたり、休んだりしますが、それは無視されます。これをもって正確に見たいのであれば、車に瞬間速度記録計をつけてプロットすればその経過がわかりますね。ガソリンの消費もプロットすればその関係が一目です。ところがどういうわけか、運動の式となるとエネルギーと速度が切り離されてしまい、速度はv=v0+atとなるのですね。運動の法則はF=maです。このFとvが合体しないのですね。これが現代物理の大きな問題でもあるのですがこれはまた別途にします。

続く (2016.01.21 13:01:11)

Re:美人局(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん

無限にゼロに「近づける」という微分という頭の操作が魔術的な効果をもたらすことは事実です。例えば、y=x^2という放物線の勾配(傾き)がどうなっているかを知りたいとします。x=1,y=2,x=2,x=4、x=5,y=25と急激に大きくなりますので勾配の計算は難しくなりますね。これを簡単に計算する方法があります。


先ず差分をとってみます。Δy=f(x+Δx)-f(x)なので


Δy={(x+Δx)^2-x^2}=x^2+2xΔx+Δx^2-x^2=2xΔx+Δx^2


となりますね。


ここまでは単なる計算です。操作ではありません。ここで無限にゼロに「近づける」という微分という頭の操作をします。それがΔx^2=0とすることです。なぜこんなことをするのでしょうか。それは限りなく0に近いから、その自乗はもっと0に近いからです。つまり無視できるということです。なんかトリックみたいですね。


いずれにしてもΔy=2xΔxとなって、この勾配をとると


lim(Δx→0)Δy/Δx=2xΔx/Δx=2x


となります。微分するとは勾配を計算することなんですね。しかも頭のなかでlim(Δx→0)とする。結局、0では割れないから、Δxをどうやって消すかを考えたのですね。これを知っていれば、y=x^3は3x^2となります。指数を前に持ってきて、指数を1引くと微分の計算になるのですね。いちいち差分をとって傾きを計算する必要はないのですね。これを考えた人はすごいこじつけのうまい人だったのでしょうね。


では何故このこじつけがペテンになるのでしょうか。それは無限に0にする操作lim(Δx→0)にあります。Δxのところはtでもよいのです。実際速度v=Δx/Δtですね。限りなく時間幅を0にできるのでしょうか。それはできません。何故でしょうか。量子論の先駆けとなった発見があるからです。それはエネルギーが離散値しか取れないということが分かったからです。エネルギーの値はE=hvです。このvは速度ではなく振動数です。たとえば光の振動数は可視光線で10^14のオーダーです。もっと小さい値をとるのは宇宙線です。決して通約不能な無理数ではありません。プランクの定数はh=6.6*10^-34です。とてつもなく小さいですが0ではなく、無理数でもありません。


さてこれからが肝心です。
(2016.01.21 13:05:03)

Re:美人局(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん


不確定性原理:ΔEΔt=h/4πというのがあります。これが量子論の核です。右辺はπがありますから有理化=離散化しておきます。つまり一定値です。πは超越数という無理数です。何故見る数で表現された値を有理化するのかというと、それは宇宙の根源が整数だからです。それが多項式となって無限級数となるのでしっぽ切りをするのです。これは人為的という意味でなく宇宙の本性です。人間が説明するときもそれにならって尻尾を切ります。


さて右辺が有理数=離散値だとすると左辺はどうでしょうか。ΔEはすでに離散値であることが分っていますので、Δt=h/4πΔEとなり、0でない離散値となります。つまり、時間を限りなく0にするという操作は頭ではできても、現実にはやってはいけないということがこれによってクリアになったということです。ところが、それを無視して、Δt=0とすると、0=h/4πになってしまい確定できないことになります。ですから、この式を不確定性原理と呼んだわけです。しかし、これを否定する最近の実験結果があります。現代物理はこの実験を無視しているようです。しかし、佐野博士はこれは連続値=実数の世界観がまず先にあるために起きたことであり、確定性原理と呼び方を変えるべきだと主張しているのです。しかし、呼び方を変えるというの単なる名義変更とは違います。世界観がガラッと変わるということです。確率の波があってそこから不確定性の原理によって確率的に粒子が現れるという物語まで捨てなければならなくなるのです。


連続値=実数=無理数という前提をもって不確定性原理が存在でき、微分積分・確率統計という知の体系が作られている以上、親が目がこけたら子亀もこけるのが当然です。連続値がペテンなら、限りなく0にするという微分操作もまた連座するしかありません。連続するという前提に立った数学=微分を現実に応用すると、不都合な現実(解釈ーこじつけ)が起きてしまいます。その例の一つが何故地球が落下しないのかという説明です。



ここでは色々いっていますが、何故月は地球に落下しないのかの説明があります。

http://ameblo.jp/allahakbar231/entry-11684056990.html

惑星が何故落下いないのかの説明は他にもあります。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5370742.html


しかし、一貫していないので、佐野氏の説明が一番、納得できるということです。

http://ameblo.jp/allahakbar231/entry-11506419200.html


月が落下しないのも地球が太陽に落下しないのも、電子が核に落下しないのも同じ理屈で一貫して説明で切るのがS科学です。

続きます。 (2016.01.21 13:08:32)

Re:美人局(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん

私なりの理解で地球が落下しない理由を説明してみます。話を分かりやすくするために地球は太陽の周りを円で回っています。正確には楕円です。落下しない理由をまず微分思考で説明します。微分は微に分けるですから、小さい時間小さいい距離では直線と見做します。するとどうなるかです。運動の式はv=v0+atです。加速しないならv=v0で等速度で動きます。運動の第一の法則(慣性の法則)で動いているものは永遠に動きます。これで地球は太陽に落ちないと説明できます。


確かに月の周りには空気がないので抵抗はないから、なんとなく近いできますが、しかし、地球には空気があるので速度が落ちるはずです。落ちないのは加速されるからです。この加速の原理は

小惑星探査機はやぶさのスイングバイと同じです。

http://www.02320.net/swing-by_gravity-assist/


近日点で太陽に近づくと重力によっスイングバイされ加速され速度が付きます。次第に速度が遅くなり、遠日点では一番遅くなります。今度は逆に太陽に引き戻され、再び近日点に近づいて行きます。。これを繰り返しているのですが、つまり、速度は絶えず変化しているのです。


ここで考えなければならないのがエネルギーです。動くものはエネルギーを消費します。空気抵抗のありますから無限に動き続けることはできません。バケツの水を入れて振り回してください。いつまでもやっていられません。ところが、地球は回り続けているのです。微分思考で円運動を直線と見做して、抵抗がなければ影響に動き続けるというのは、月では言えますが地球では言えません。

月には空気はないですが、運動するとエネルギーを消費するという点には変わりがありません。ここで考えなければならないのは、地球は回っているだけではありません。太陽は銀河系の中心をものすごい速度でまわっているのです。地球から見たら直線運動をしているといってよいでしょう。それについていっているのです。月も随伴しているですからスイングバイのエネルギーでは足りません。その運動エネルギーも必要なのです。それをどこから供給されているかです。


ケプラーの法則というのがあります。面積速度一定というやつです。1/2rvsinθ=一定です。rは半径、vは速度,θは角度です。この場合太陽は固定と考えます。小さな時間ではrv1=rv2ですので、v1=v2これに地球の質量を掛けるとmv=一定となり、更に½(mv^2)=Eとなり、何とエネルギー保存則になります。何と、動いているのにエネルギーが保存されているのです。ですから、落ちないしいつまでも太陽の後を追いかけていけるのです。


この説明でおかしいのはエネルギーの補給がないということです。これは私たちの日常的感覚とは違うものです。、エネルギーの補給がないのにエネルギーが保存されているという論理です。このことに誰も異議を唱えた人はいません。異議を唱えたのは佐野博士です。佐野氏が考えたのは太陽と地球はエネルギー交換をしているはずだという考えです。この交換の考えが普遍的だとするものです。普遍的だからマルクスの価値交換ともつながるし、対話、TPPの交渉、恋愛も交換であるといえるのです。しかもそれをたった一つの式;離散交換の原理Fv=1で表現できるのです。
(2016.01.21 13:14:40)

大狂人(1)   ともちゃん さん
fractalemode さん

8月14日のfractalemode さんのコメントに対して、
誤解されている所があると感じ,一言、注釈をさせて頂きます。

14日には21ヶのコメントが有りました。
下から2番目ですから、
20番目のfractalemode さんのコメントです。
7行目に以下の文章があります。

二つの点(音素)の間に別の音を挿入できるなら連続ですが、できないなら非連続ですよね。それが離散値ではないでしょうか。「あ」と「い」の間に何かを入れられるのでしょうか。

この様に書いておられます。
実は、「あ」と「い」の間には、無限の音が入るのです。

以前、私に友人がいました。
彼は、子供の頃、脳性小児麻痺を患い、
言葉が、うまく話せませんでした。

「あ」と発音しようと思っても、
「い」が混じった「アウィ―」と言うような発音になります。
「う」と発音しようと思っても、「あ」が混じって、
「アブ―」と成ります。
彼の話を聞くのは、なかなか大変でした。

私には、1歳の孫がいます。
言葉を覚える前の子供の発音を考えて頂ければ、
友人の発音が,よく理解出来ると思います。

我々の口は、無限の音が出せます。
バイクの音や汽車の音、
太鼓の音・ラッパの音なども口だけで出せる人がいます。

孫や小児麻痺の人達は、不器用なので,
50音に近い正確な音が出せません。
これと逆なのが、
アナウンサーや舞台俳優やタレントさんです。
50音の正確な「音」を出すために、
毎日、発声練習をやっています。

小児麻痺の友人とアナウンサーの中間。
これが、我々一般人の発音です。
水の中で屁をこいたみたいな、しゃべり方をする人もいます。
アナウンサーやタレントさんの様に、
50音の上に綺麗に乗った発声が出来る人もいます。

こう言う意味で、我々は、
「あ」と「い」の中間の音を毎日聞いているのです。
「い」と「う」の間の音も、毎日聞いているのです。
「50音」に乗らない声を、毎日聞いているのです。

他人がしゃべった音波は、鼓膜を刺激します。
その刺激は電気信号で、耳から「脳」へ送られます。
脳が受け取ったそれらの信号は、
綺麗な形で「50音」の上にのりません。

しかし脳は、受け取った音が
「50音」のどのあたりに存在するかを調べます。
それは、会話で話される内容の前後関係。
相手さんの言いそうな単語。
こうして我々は、頭脳を駆使しながら、
耳から送られてきた電気信号を「離散化」して行くのです。

fractalemode さんは、
「あ」と「い」の間に何かが入るかと言っておられます。
答えは、無限の音が入るのです。
それを、脳の中で「離散化」している。
これが、佐藤さんの主張です。

離散化とは、「脳内」で起こるものであるがゆえに,
それは主観的な物である。
頭の中だけに存在する「発音記号」を
「文字化」するのはインチキである。
これが『言語学の嘘』と言う意味なのです。

離散化されたモノは、脳内(主観内)に有ります。
佐藤さんは、機械で測れる「音波」を
計測してくれと言っているのでは有りません。
主観の内部にある離散化を数学的に表現してくれと、
fractalemode さんに言っておられるのです。
(佐藤さん、間違いがあったら、訂正をお願いいたします)
(続く) (2016.01.21 13:31:11)

大狂人(2)   ともちゃん さん
fractalemode さん
(続き)
サバン症候群と霊能力
記憶は、「保持」と「想起」から出来ています。
人間は、生まれてから現在まで、目の前に現れた対象は
すべて「保持」しています。

人間の目の中には、生まれた時から
防犯カメラが延々と回っているのです。
したがって、人間は生まれてから今まで、
見た物をすべて「保持」しております。

しかし、その中で必要な物しか、人間は「想起」しません。
いらないものまで「想起」したら、
人間の意識ま滅茶苦茶になってしまいます。

失礼な言い方ですが、サバンの人達は、
人間としての、機能を失っておられます。
つまり脳のどこかがやられてしまい
「保持された記憶」に鍵を掛る事が出来ないのです。

時に応じて想起すると言う機能が壊れているのです。
この事は、サバン症候群をご研究の皆さんはもう、
充分ご存じだと思います。

霊能者ピーター・フルコスは、高い建物から落ちました。
頭を打って昏睡状態になりました。
三日三晩、生死の間を、をさまよった後、
気が付いた時,霊能者になっていました。

ピーターは、脳の一部が破壊されたのです。
霊能者が出来あがる理屈は、サバン症候群と同じです。

霊能力は本来、人類全員が持っていました。
しかし、私の身内の様な霊媒体質は,
文明が進むにつれて少なくなってきました。

身内は、自分をある種の片輪だと思っています。
大本教の教祖や、天理教の教祖は、
自分から進んで修行をしてた訳ではありません。

本当は,こう言う状況を逃げ出したかったのです。
しかし、神様は逃がしてくれません。
彼女たちは、生死の間をさまよいました。
そして、気が付いたら教祖に祭り上げられていました。

天才と狂人は紙一重と言いますが、
佐藤さんのブログを読んでいたらそんな気がします。
あ、また一人、狂人が来た。
そんな思いでfractalemode さんの
コメントを読ませて頂いています。
どうか宜しくお願いいたします。
(2016.01.21 13:38:32)

微分積分   ともちゃん さん
fractalemode さん

数学を教えて頂いき、ありがとうございました.
昔、勉強したことを、少しずつ思い出しました.
(2016.01.21 14:40:31)

Re:大発見(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん

>複素数は,相対性理論の説明で良く使われます。
>それに量子力学では絶対に必要な数字ですよね。
>これを、心の世界を計算するときに使用できるのですか.

>ところで美人局(つつもたせ)はどうなりましたか?

これについてはすでに述べましが分かりにくかったかもしれませんね。

>心の問題とは,程遠いと考えられている数学です。
>こんな学問に、この様な言葉を使用されると言う事は、
>大変な発見をされたのではないかと考えております。


大発見というほどのことではありません。PS理論ではすでにそのことを実践しています。苦戦しているようですが。

http://ameblo.jp/neomanichaeism/theme-10050415729.html

>すべてを話すのは難しいかも知れません。
>サワリの部分だけでも結構ですので、そこの所を、
>どうか宜しくお願いいたします。

何も隠すことなどありません。眼は鼻の上にあるです。道元
http://www.asahi-net.or.jp/~VS6H-OOND/k.html

GP(ガウス平面)を心の解明に使えるのは心と外界を単位円によって区別=離散化しているからです。物理的な距離概念がここではないのですね。例えば任意の位置xは体験の場所です。それが反転して1/xとなると単位円の中に入ってきます。つまり意識領域です。1/x=Δxと置くとxが大きいならΔxは原点の近くとなります。これは何を意味するのでしょうか。

青い鳥の物語です。理想を求めて旅立ったら結局、幸せは足元にあったという話です。灯台下暗しです。眼は鼻の上にあるです。古今東西の格言とか名言とかいうのは真理を語るといいますが、それがすべてではないとしても、そのことを数学で表現するとこうなるというのがこのGPなのです。

もちろんこれですべてが表現できるわけでないし、表現できたとして実践ができなければ空理空論となります。そこでこれを進展するか補強する数学が必要になってくるのです。

デカルト以来二元論の融合が求められてきましたが、それが弁証法だったのですが成功したとは言えません。ポモも挫折しました。その次が見えないのですね。結局、神秘主義を取り込まなくてはいけないのです。何故なら、それはかつて追い出してしまった自己だったからです。しかし、無防備に取り込むとのっとられてしまいます。そうならないためには数学というルールのきつい縛りが必要なのです。

言語学でも数学的な連続の定義がきついので緩い連続を使うというアイデアがありますが、まだ成功していないようです。私が思うのは、厳しいルールの下で展開してきた物理を心理現象に展開するという方法です。そうすれば曖昧さが減少でき、過去の記憶が生きてきます。

その場合、どの数学を使うのかという選別が必要になります。今の状況では、量子論や相対論を無批判に受け入れてそれを心の領域に持ち込んでいるのが目立ちますが、その分水嶺となるのが離散か連続かです。

さてどっちに軍配が上がるでしょうね。 (2016.01.21 15:51:27)

Re:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん
>実は、「あ」と「い」の間には、無限の音が入るのです。
なるほど。では、言語は連続ですね。言語が離散化であるというのは人為的だということですね。
>「あ」と発音しようと思っても、
>「アブ―」と成ります。
>彼の話を聞くのは、なかなか大変でした。

それでもあといは離散しているのでは。聞き取れないというのは人間の脳の性能が悪いということなのではないでしょうか。


>私には、1歳の孫がいます。

それは脳が学習して聞き取り関数(アプリ)をもったからで、
ももともが離散値であるということには変わらないのではないでしょうか。

>50音の正確な「音」を出すために、
>毎日、発声練習をやっています。

そうですね。人間は宇宙の離散値の原理に近づきたいのです。でも無限という言葉を安易に使うのはよくありません。有理数を無限というようなものです。

>「あ」と「い」の中間の音を毎日聞いているのです。
>「い」と「う」の間の音も、毎日聞いているのです。
>「50音」に乗らない声を、毎日聞いているのです。

それは無理数を有理数化するということを言っています。いや無限に見える有理数を離散化といっているように聞こえます。

もし「あ」と「い」の間には無限の音があるなら連続だとなり離散化の原理と真逆のように思えるのですが。

確かに「あ」と「い」の間に沢山の音が入り込んだとしてもそれは無限なのではなく有限なのではないですか。そこが物理が陥った連続の罠だったのです。

人間の感覚では沢山あるとすぐ無限だといってしまいますが、それと同じ迷路にはまったのが現代科学です。それを正そうというわけです。

>fractalemode さんは、
>「あ」と「い」の間に何かが入るかと言っておられます。
>答えは、無限の音が入るのです。
>それを、脳の中で「離散化」している。
>これが、佐藤さんの主張です。

これは理解しています。もっと厳密にいえばこうなります。記憶と想起がありますね。記憶するときは離散、想起は連続、だから連続な音と聞こえる。脳と一言でいうのはまずいのではないでしょうか。


>離散化とは、「脳内」で起こるものであるがゆえに,
>それは主観的な物である。

これは記憶の時ですね。

>頭の中だけに存在する「発音記号」を
>「文字化」するのはインチキである。
>これが『言語学の嘘』と言う意味なのです。

これは想起のときですね。

>離散化されたモノは、脳内(主観内)に有ります。
>佐藤さんは、機械で測れる「音波」を
>計測してくれと言っているのでは有りません。
>主観の内部にある離散化を数学的に表現してくれと、
>fractalemode さんに言っておられるのです。

主観とは記憶であり対数変換です。ですから離散値です。
それを想起したとき指数関数を使うので連続となります。
本当は離散値なんだということを悟らせるためには脳が二重変換しているしているということを知らないといけないわけです。

指数関数=連続化=想起するのが左脳です。対数関数=離散化=記憶するのが右脳です。

脳の中を探検するミクロの決死隊を派遣しましょうか。 (2016.01.21 17:14:41)

Re:大狂人(2)(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん

>サバン症候群と霊能力
>しかし、その中で必要な物しか、人間は「想起」しません。
>いらないものまで「想起」したら、
>人間の意識ま滅茶苦茶になってしまいます。

>失礼な言い方ですが、サバンの人達は、
>人間としての、機能を失っておられます。
>つまり脳のどこかがやられてしまい
>「保持された記憶」に鍵を掛る事が出来ないのです。

左脳がやられていると思います。右脳はアクセル、左脳はブレーキです。子供は右脳、大人は左脳です。子供が大人になることを物心が付くといいます。これは物が優位になってきた証拠です。物とは左脳です。


>時に応じて想起すると言う機能が壊れているのです。
>この事は、サバン症候群をご研究の皆さんはもう、
>充分ご存じだと思います。

そうです。想起とは左脳です。左脳が故障したのがサヴァンだといいます。断定はしていないようですが。現場は堅実第一ですからね。


>霊能者ピーター・フルコスは、高い建物から落ちました。
>頭を打って昏睡状態になりました。
>三日三晩、生死の間を、をさまよった後、
>気が付いた時,霊能者になっていました。

>ピーターは、脳の一部が破壊されたのです。
>霊能者が出来あがる理屈は、サバン症候群と同じです。

ますます、霊能者=右脳者ではないですか。


>霊能力は本来、人類全員が持っていました。
>しかし、私の身内の様な霊媒体質は,
>文明が進むにつれて少なくなってきました。

その逆を考えてください。中国とかモンゴルから日本にきた人は犯罪を犯しやすいですね。何故でしょうか。単に文化が違うからというのは答えになりません。私は、右脳=遊牧だと考えています。その人たちが日本に来るとストレス・癇癪を起こすのです。ルールが違うのです。サッカーをやっている人が野球をやるようなものです。

霊能者がモンゴルに行ったら天国(神)なるのではないでしょうか。これはかなり高い自信です。ですから確率とは言いません。日本人でも同じことが言えます。右脳型の人は生きにくいはずです。


>身内は、自分をある種の片輪だと思っています。
>大本教の教祖や、天理教の教祖は、
>自分から進んで修行をしてた訳ではありません。

そう思うなら右脳型と左脳型の違いを知るべきです。巷の能力開発の話でなく脳の中の真実です。未開人は俺は神だという人は多くいたそうです。これは述語論理なのですね。それが今や先端のコンピュータの論理なのですよ。霊能者は今、コンピュターです。ただ、残念ながら主語論理の勢いは止められていません。


>本当は,こう言う状況を逃げ出したかったのです。
>しかし、神様は逃がしてくれません。
>彼女たちは、生死の間をさまよいました。
>そして、気が付いたら教祖に祭り上げられていました。

でも共感する人たちがいたからこそですよね。ユダヤ人は離散民族です。離散は悲劇的なイメージがありますが、本当はそこに希望を見出す必要があるのです。グレグイーガンのSFデアスポラ(離散)はそれを示しています。福島の離散家族に何を言えばよいでしょうかね。まだ、答えがありません。

>天才と狂人は紙一重と言いますが、
>佐藤さんのブログを読んでいたらそんな気がします。
>あ、また一人、狂人が来た。
>そんな思いでfractalemode さんの
>コメントを読ませて頂いています。
>どうか宜しくお願いいたします。

既知外=気違いです。(^:^) (2016.01.21 17:59:53)

Re:大狂人(1)(01/18)   CLG2009 さん
ともちゃんさん
fractalemode さん

fractalemode さんのご専門はやはり、宇宙物理学だと思います。そして私は言語学。

私が唱える宇宙離散化論では、この間に生命科学が入ります。3つとも同じ「離散化」という原理を共有していると考えますが、どこまで数学(数値化)が可能かどうかはわかりません。少なくとも宇宙物理学をそのまま応用することはできないと思います。次元がより複雑になっているからです。生命の離散化は、物質の離散化がベースにあります。ですから、より複雑になります。言語に関して言ったら、既に物質と生命の離散化が有るわけですからなおさらです。

fractalemode さんの論は、読んでいてちんぷんかんぷんなのがほとんどですが(特に数式が出てくると)、全体の雰囲気を記憶するようにしています。そしてそのイメージを心の中にとどめておいて、こういう発想もできるのだというモデルにしています。そして、後から読み返してみるとまたおもしろい発見があると思います。私は理解できたことしか信じません。しかし、理解できないことをそのまま排除はしないで、わからないというラベルを貼ってとっておいて、後から引き出して見ます。自分の修練が足りないから理解ができないと思うからです。でも、わからないことをわかったと言い換えてしまうことだけはしません。それは嘘だからです。


>離散化されたモノは、脳内(主観内)に有ります。
>佐藤さんは、機械で測れる「音波」を
>計測してくれと言っているのでは有りません。
>主観の内部にある離散化を数学的に表現してくれと、
>fractalemode さんに言っておられるのです。
>(佐藤さん、間違いがあったら、訂正をお願いいたします)

「主観の内部にある離散化を数学的に表現してくれ」、これはそのとおりです。前述したとおり、物理と生命の離散化を経た主観の内部の離散化、この答えが出たら私の研究は多分1つの大きな区切りを迎えます。




(2016.01.21 20:36:38)

Re: 「聴覚言語」の発明と普及は、盲者にとっての朗報、聾者にとっては悲報だった。。。 (01/18)   fractalemode さん
佐藤氏の仮説を再確認しました。それは言葉の原点は視覚だということです。そして記号とは手話であるということです。

これは今までの発想を超えています。常識的なら音声がまずあってそれが言語なったと考えやすいからです。ところがこの仮説をよく考えてみたら私の体験にあったのです。今までもやっていたことですが、思わずそうかと手をたたきました。

その臨床を報告いたします。

私は心や霊や魂や気といった定義できない代物を数学という言語を使って表現できないかと無謀にも挑戦しています。そのとっかかりは量子論です。しかし量子論の核心は確率論です。がっかりしました。

唯識を数学するためにいろいろ考えているとき明晰夢ということを知りました。365日無休の心です。昼間の間に課題を設定して思索を練り疲れて睡眠します。そして朝方にそのことを考えます。ねむこまなこですが、数学の記号を使ってあれこれ思考しているのです。

最初はすぐに終わってしまします。しかし、昼間にノートに式を書いていると次の日に劇的に思考の時間が伸びます。これを繰り返しているうちに最近は無意識に指を使って思考しているのです。布団の中でです。

自然言語だとどうしても自家撞着になって先に進まないのですが、数学の記号を使うとそれなりに進むのです。簡単に飛躍はできないですが。

とにかく寝ながら指を動かしているのです。これって手話ではないでしょうか。仏教に写経という方法がありますが、私は馬鹿にしていました。あーでもないこうでもないと考えても答えが出ないのですが、そのときは手を動かすことはありませんでした。ところが数学的な思考をし始めてから布団の中で指を動かして思考しているのです。そして重要なところにかかると、閃きが走り、がばっとおきて、パソコンに向かうのです。大概は検索です。記憶の想起ですね。

そんなことを経験したのですが、そのことの意味が理解できませんでした。しかし、このブログの手話という言葉が契機となってそのことの重要性を確認で来たような気がします。メモ(写経)をとることの重要性が分かったような気がします。ただし、目的がないとダメなような気がします。

私の体験談でした。ただし私は数学の素人です。プロならもっとすごい思索ができるだろうにと思っています。 (2016.01.21 21:23:07)

佐藤さんの主張   ともちゃん さん
fractalemode さん
佐藤さん

fractalemode さん、私は「無限」と「無数」を
いい加減な定義で使っておりました。
本当に、申し訳ありませんでした。

このブログは、今年の4月で満7年になります。
私は、初めから全部読ませて頂いています。
少なくとも、2回は読んでいると思います。

佐藤さんは、何を主張されているのか?
私なりに、纏(まと)めます。
断定的に書きますので、
間違った部分の訂正をお願いいたします。

佐藤さんは、言語の始まりに付いて考えておられます。
人間とチンパンジーは600万年前に分かれました。
その後も我々「新人」は、
いろんな「旧人」から分離して,進化して来ました。
北京原人とか、ジャワ原人とか、ネアンデルタール人など、
今は滅んだ「旧人」が沢山います。

そもそも、言語は、いつから始まったのか?
これが、佐藤さんの問題提起です。

言語は視覚言語(ジェスチャー・手話)から始まったのか?
あるいは言語は、
音声言語(おしゃべり・口話)から始まったのか?
ここが出発点です。

先日、テレビ番組『ジェスチャー』の視聴経験から、
私が,言語の始まりを語りました。
「ので」と言う言語の始まりです。
私は、このようにして
「言語の約束が始まった」と主張しました。

「『ので』は、日本語対応手話である」
佐藤さんは即座に反論しました。
つまり、佐藤さんのイメージされる手話とは、
「音声言語」に対応してはダメなのです。

なぜならば、「新人」が初めて、手話を始めた時、
「音声言語」は、存在しなかったからです。
これが、佐藤さんの第一の仮説です。

新人の言語は、「音声言語」から始まった。
これが、佐藤さんの第二の仮説です。
言語の始まりが「音声言語」なら、
その始まりにおいては、当然「手話」は存在しません。
当然、「文字」も存在しません。

第一の仮説は、「手話」だけで考えなければならない。
「音声言語」と言う発想が入ってはいけない。
第二の仮説では、「音声言語」だけで考えなければならない。「文字」と言う発想が入ってはいけない。
佐藤さんは、こう言う主張をされています。

ここで止めておけば、博士論文は通っていたと思います。
なぜならば博士論文は、高校入試や大学入試の様な、
「落とすための試験」ではありません。
教官が、その価値を認めたら通してもらえます。

言語学関係のブログは「無数」にあります。
読者は、まず肩書から見て行きます。
読者が全部読むのは、物理的に不可能です。
だから読者は、「肩書」と言う色眼鏡を掛けるのです。

自分の論説をより多くの人に見て頂くためには、
「肩書」は、絶対に有利に働きます。
佐藤さんは、その後、宇宙論へ進むべきだったのです。

佐藤さんは、二重人格を体験されています。
英語・フランス語・朝鮮語・日本語。
使用する言語により、別の人格が入って来ます。

佐藤さんは、使用する言語が民族を作ると言っておられます。
中国語や朝鮮語は、間違った言語である。
だから間違った言語である、
中国語や朝鮮語を使う民族は卑劣になる。
これは佐藤さんの、正直な体験談だと思います。

これが、佐藤さんの民族論に発展しました。
佐藤さんは、言語学からはじまり、宇宙論へ行き、
今現在は、民族学を展開されています。

しかし、これは現時点では、
「オカルト」の世界に所属しております。
世間の学問は、まだここまで付いて来れないのです。
しかし私が言うように、「言語の始まり」で止めておけば、
片足はアカデミズムに置く事が出来ました。

オカルトの海へ泳ぎ出すと言う事。
それは今現在、「オカルト」と言われている学説を、
いかにして「アカデミズムの学説」に
変えて行くかと言う事なのです。

その為には、オカルトとアカデミズムの境界線が、
どこに有るのか。
今現在では、その波打ち際はどこなのか?
それを、キッチリと認識しておかなければなりません。

その事を、お知らせする為に、
佐藤理論を「ともちゃん流」に表現させて頂きました。
佐藤さん、間違った部分の訂正をお願いいたします。
(2016.01.22 07:07:00)

Re:佐藤さんの主張(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん

すばらしい纏めありごとうございます。私はなかなかすべてのテキストを読むことができません。


>fractalemode さん、私は「無限」と「無数」を
>いい加減な定義で使っておりました。

いやいや、それは当方にも言えます。いくらインターネット時代といえども簡単に言葉の用法を正しく理解して発信するなどということは不可能です。まして学術論文を出そうとしているのではないですからね。

>少なくとも、2回は読んでいると思います。

頼りにしていていす。

>そもそも、言語は、いつから始まったのか?
>「言語の約束が始まった」と主張しました。

視覚言語=手話言語:手話=記号
でよいですか。
つまり言語はあったのですね。言語=意味のルールですね。
言語ゲームとの関係はどうなっているのでしょうかね。又フーコの言う世界監獄説(権力言語ゲーム=監視システム)と関係も知りたいですね。現代は至る所に監視カメラが設置されていますよね。これって視覚言語ゲームなのではないでしょうか。
フーコが言ったのは、それをそこで生きている人達はそれが権力の言語ゲームだとはだれも気が付かない。後の世代の人達がそれだとで気が付くといいました。

言語ゲーム:言語を使った行為(他者の存在が前提)

記号→→→意味
  ルール

もちろん自己が他者になるとこもあります。内省、瞑想、内語など。


>なぜならば、「新人」が初めて、手話を始めた時、
>「音声言語」は、存在しなかったからです。
>これが、佐藤さんの第一の仮説です。

これがすごい発見ですね。誰でも音声からと考えますよね。今ではパソコンに向かう時間が多いですが、ほとんど無言です。ただただ、内語を使って物語っているのですね。座禅ですよ。

ただ、文字という記号がありますから、新人に時代とは状況は違うのですね。

>新人の言語は、「音声言語」から始まった。
>これが、佐藤さんの第二の仮説です。
>言語の始まりが「音声言語」なら、
>その始まりにおいては、当然「手話」は存在しません。
>当然、「文字」も存在しません。

ここがわかりにくいですね。手話は言語なのですよね。それとも言語ではないのですか。

第一の仮説:言語の始まり=視覚=手話=記号はある
第二の仮説:言語の始まり=聴覚=音声=音という記号はあるが文字はない

どっちが真の言語の始まりなのでしょうか。


>第一の仮説は、「手話」だけで考えなければならない。
>「音声言語」と言う発想が入ってはいけない。
>第二の仮説では、「音声言語」だけで考えなければならない。「文字」と言う発想が入ってはいけない。
>佐藤さんは、こう言う主張をされています。

つまり、第一の仮説が真の仮説だということですね。

>佐藤さんは、使用する言語が民族を作ると言っておられます。

マクルーハンは言います。メディアは人間の延長であると。言語はメディアである。思考する、意味を伝える媒体ということですね。当然、思考する様式、意味を伝える様式が変わります。意味の集積が文化ですから民族を変えますね。

私はそれをひっくり返して、言語は民族の投影であると思っています。つまり、人間の先天的気質があり、その気質が言語という構造を決めていると思っているのですが如何がでしょうか。その根拠は三つ子の魂です。従って、民族の言葉と会わない人が出てくるのですね。長い間の混血が進みましたからね。それが精神の病理だとおもうのです。

ここでいったん切ります。 (2016.01.22 09:33:52)

Re:佐藤さんの主張(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん

続きです。

>中国語や朝鮮語は、間違った言語である。
>だから間違った言語である、

間違った言語があるというのは門白いですね。間違った数学があるというと同じですから。これはプロ中のプロでないと言えないですね。

>中国語や朝鮮語を使う民族は卑劣になる。
>これは佐藤さんの、正直な体験談だと思います。

>これが、佐藤さんの民族論に発展しました。
>佐藤さんは、言語学からはじまり、宇宙論へ行き、
>今現在は、民族学を展開されています。

朝鮮語と百済語とは違うのでしょうか。もし、おなじだったら困ってしまいますね。日本人も卑屈になってしまいます。(^~^)

日本語が百済語だと言ったらどうする!古代日本史の謎を解く.スミルノフ学派・佐野千遥教授
http://ameblo.jp/allahakbar231/entry-11098035162.html

韓国と日本は昔から地で繋がってっていましたから地続きなのであまり韓国(今の北朝鮮ではなく、李氏朝鮮)のことを悪く言うと天に唾になるような気がします。もちろん本当に地でつながっているという意味ではありません。朝鮮の歴史を見ていると、絶えず権力が交代して負けて方が日本にやってきていたのですね。

日本語と韓国語は同系語
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-d7dd.html

似ている単語の数が多ければ同系語とするのでなく、言語史、発想、語法、文末語・・などの色々な視点から比較すると、日韓語が深層的に親子ほど似ていることがわかるといっています。

私が知っているだけでも、高麗・熊野神社・新座(新羅)百済(大阪にある)などなど多くあります。

>オカルトの海へ泳ぎ出すと言う事。
>その為には、オカルトとアカデミズムの境界線が、
>どこに有るのか。
>今現在では、その波打ち際はどこなのか?
>それを、キッチリと認識しておかなければなりません。

>その事を、お知らせする為に、
>佐藤理論を「ともちゃん流」に表現させて頂きました。

アインシュタインの相対論を発表した時はだれも見向きもしなかったようですよね。そのアインシュタインは虚数を嫌いましたね。だから虚数(想像の数)と揶揄して名前を付けたようです。そのアインシュタインは神はサイコロを振らないといったにもかかわらず、最後は認めてしまったようですね。今は悔やんでいるでしょうね。

量子論は仮説の墓場と言われるほどです。それほど多いのは検証ができないからですね。検証可能こそ科学の最後の砦だったのですが、今は反証可能性になったようですね。

量子論はまるでオカルト化しています。オカルトを見えない世界の言語ゲームだとすると、量子論と親和性があるのは当然ですよね。

佐藤さんはマルクスの価値論を導入しているようですが、佐野氏も価値を数学しています。何と宇宙方程式に価値が入ってくるのです。これはオカルトを超えています。ただ、私はマルクスの弁証法はいただけないと思っています。

言語を科学するということですが、科学とは数学ですよね。言語に数学を最初に取り入れたのはレヴィ=ストロースですよね。その後の発展はないようですが、やはり難しいのでしょうかね。 (2016.01.22 09:38:47)

他人様の論旨   ともちゃん さん
fractalemode さん

佐藤さんの第一の仮説
佐藤さんの第二の仮説
これは、佐藤さんが、直接言われた訳ではありません。
佐藤さんが、7年間書かれたブログを、
私が、勝手にまとめただけなのです。
佐藤さん、これでよろしいですか?
この様に、佐藤さんに問いかけているわけなのです。

と言うのは、今までのブログのやり取りで、
佐藤さんと私の間で約束がありました。
佐藤さんの言われることは、思い付きではありませんか。
ひらめきを、文章として
投げ出した物にすぎないではありませんか。
一度私が、纏めてもよろしいですか。
こう言う、私の問いかけに対して、
佐藤さんから、よろしいと言う返答がありました。

そこへfractalemode さんが、入ってこられました。
論者が増えますと、誰が何を言っているのかが、
解らなくなります。
そこで私は、とりあえず佐藤さんの主張を
自分なりに纏めておこうと考えました。

したがって、これは、本来の佐藤さんの主張からは、
ずいぶん外れている可能性があります。
しかし、論旨と言うものは、
自分の理解している範囲でしか、纏める事ができません。

「勝手な事を書きあがって」と、
お叱りを受ける可能性もあります。
しかし、他人様の論旨を纏(まと)める為には、
まとめ役の主観がどうしても入ってしまいます。

fractalemode さんのご主張も、纏めたいと考えています。
さもなければ、「論点」が、何処へ行くか解りません。
佐藤さんのお考えを知るのに何年もかかりました。

fractalemode さんのお考えも、
簡単には理解できないと思います。
そのうち、「ともちゃん流」の見方が、
表現できたら有りがたいと思います。
その時は、宜しくお願いいたします。
(2016.01.22 11:02:52)

Re[1]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん

>fractalemode さんのご専門はやはり、宇宙物理学だと思います。そして私は言語学。

物理の視点から数学を随行させて宇宙の真理をつかむということでしょうか。それならそうですね。佐藤さんは、言語の視点から科学を同伴させて宇宙の真理をつかむでしょうか。

その共通項は離散値(離散原理)であるということのようですね。私はまだ、数学の離散値と離散原理とが一致しているかどうか確信がありませんが、60%は一致しているだろうと思い込んで進めています。何か、ずれていたらご指摘をお願いします。


>私が唱える宇宙離散化論では、この間に生命科学が入ります。3つとも同じ「離散化」という原理を共有していると考えますが、どこまで数学(数値化)が可能かどうかはわかりません。少なくとも宇宙物理学をそのまま応用することはできないと思います。次元がより複雑になっているからです。生命の離散化は、物質の離散化がベースにあります。ですから、より複雑になります。言語に関して言ったら、既に物質と生命の離散化が有るわけですからなおさらです。

違いを図式化してみます。

離散化の原理:宇宙離散化論ー生命科学ー言語学***複雑
離散値の宇宙論:物理ー数学⇒生命ー言語ー社会***単純

最近は複雑系の科学がありますので、複雑さとはなにかを定義しておかないと曖昧になりますね。


>fractalemode さんの論は、読んでいてちんぷんかんぷんなのがほとんどですが(特に数式が出てくると)、全体の雰囲気を記憶するようにしています。そしてそのイメージを心の中にとどめておいて、こういう発想もできるのだというモデルにしています。そして、後から読み返してみるとまたおもしろい発見があると思います。私は理解できたことしか信じません。しかし、理解できないことをそのまま排除はしないで、わからないというラベルを貼ってとっておいて、後から引き出して見ます。自分の修練が足りないから理解ができないと思うからです。でも、わからないことをわかったと言い換えてしまうことだけはしません。それは嘘だからです。

私も量子論の数学は全く分かりません。分かるのは簡単なところだけです。インターネットおかげでつまみ食いができるようになったぶん理解は進みます。思い込みがありますが、それは続けていけば修正されると思います。

>>離散化されたモノは、脳内(主観内)に有ります。
>>佐藤さんは、機械で測れる「音波」を
>>計測してくれと言っているのでは有りません。
>>主観の内部にある離散化を数学的に表現してくれと、
>>fractalemode さんに言っておられるのです。
>>(佐藤さん、間違いがあったら、訂正をお願いいたします)

>「主観の内部にある離散化を数学的に表現してくれ」、これはそのとおりです。前述したとおり、物理と生命の離散化を経た主観の内部の離散化、この答えが出たら私の研究は多分1つの大きな区切りを迎えます。

主観を離散化するとはどういことかを考えてみましょう。離散化するというのは連続しているものを分離することですね。極論すれば解剖や分解は離散化じゃないでしょうか。パソコンを部品に分解するなど。物体なら簡単ですが、生命を肉体と精神に分離して標本にしては並べられませんよね。ではどうするかですね。分離しないで分離する。これしかありません。頭の中で分離する。そして全体を保持したまま分離する。これを佐藤さんの表現で言い換えると、物理と生命の離散化を経た主観の内部の離散化ということになるのでしょうね。

これは内観法といわれる禅そのものではないでしょうか。禅語録とは禅の言語です。そして禅は即非の論理です。禅は中間派の唯識(龍樹)を受け継いでいます。私は唯識=禅を数学しようと思っているのです。ということは同じ方向を目指しているのではないでしょうか。とはいっても、私は物理の匂いが強いですけどね。

今私ができることは、道元の禅を数学することです。これは主観の数学となるかどうかを検証をお願いします。しばらくかかると思いますが。 (2016.01.22 13:59:37)

Re:他人様の論旨(01/18)   fractalemode さん
ともちゃんさん

>佐藤さんの第一の仮説
>佐藤さんの第二の仮説
>これは、佐藤さんが、直接言われた訳ではありません。
>佐藤さんが、7年間書かれたブログを、
中略

>「勝手な事を書きあがって」と、
>お叱りを受ける可能性もあります。
>しかし、他人様の論旨を纏(まと)める為には、
>まとめ役の主観がどうしても入ってしまいます。

それは言語科学のプロの佐藤さんですから百も承知でしょう。
ここは主観の場ですよね。


>fractalemode さんのご主張も、纏めたいと考えています。
>さもなければ、「論点」が、何処へ行くか解りません。
>佐藤さんのお考えを知るのに何年もかかりました。

それは私にも言えます。道元を追いかけてもまだ理解できていまん。そして他人がまとめたものを理解しようとしても互いに矛盾したことを言っているのですね。何を信じてよいやら。こうなったら、決めつけるしかありません。自分の感性を信じて。


>fractalemode さんのお考えも、
>簡単には理解できないと思います。
>そのうち、「ともちゃん流」の見方が、
>表現できたら有りがたいと思います。
>その時は、宜しくお願いいたします。

こちらこそよろしく。私の場合は佐藤さんのように理路整然としていないと思います。まして、3年前にいっていることと今では真逆のことを言ってると思います。言語ゲームのウイトゲンシュタインもそうでしたよね。何かを探求するとそうなるのではないでしょうか。これを弁証法と言うのは私には違和感があるのですね。 (2016.01.22 14:45:15)

Re[1]:大狂人(2)(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん
ともちゃんさん

これを書き始めてからお二人共大分投稿なさっているのですが、まずこれを書いてからお返事します。

人間には、言語によって形成されるアイデンティティーというプログラムが必要です。これが正常に機能することで人間らしくなりますが、この言語の特徴で、国民性が現れます。日本人が日本人たる所以は日本語を話すからです。

サバン症候群の話は前から知っていましたが、改めてユーチューブで探してみました。彼らのような記憶力は多分誰にも有るかも知れないが、普通の人間は、それを忘れることで意識の均衡を保っているのだと思います。記憶と忘却。この二つは非常に重要な対の概念だと思います。

>>「保持された記憶」に鍵を掛る事が出来ないのです。

これを読んで、筒井康隆の七瀬を思い出しました。テレパスの彼女は、他人の意識が流入することを抑えるために鍵をかけるのです。何故かこのイメージが私の頭に焼き付いています。


>左脳がやられていると思います。右脳はアクセル、左脳はブレーキです。子供は右脳、大人は左脳です。子供が大人になることを物心が付くといいます。これは物が優位になってきた証拠です。物とは左脳です。

私は小学四年生の時に、てんかんに似た発作で一ヶ月病院に入院したことがあります。朝方、息苦しくなって目が覚めるのです。でも大体すぐに収まったので気にしていなかったのですが、ある朝、苦しくなって隣に寝ていた母を起こしました。それで気を失い、気がついてみたら救急車が到着して大騒ぎになっていました。運ばれる時は、もう正気に戻っていたのですが、何が何やら分からずにそのまま入院しました。入院中も一度同じ発作を起こしたのですが、そのままトイレに行こうとしてトイレで気を失いました。でもそれが最後でそれ以後は起きていません。ありとあらゆる精密検査をしてわかったのが(父母が話してくれるところによると)頭と身体の成長のずれではないかという結論でした。てんかんを心配していた両親は、まあホッとしたと思います。人のてんかんの発作を見たことがあります。普通、自分の意識は直ぐに飛んでしまいますが、私は最初は意識があったので、今から思うとてんかんとは違っていたのかなと思います。

私はサバン症候群ではないと思いますが、多分人とは違った脳の働きを持っているであろうことは承知しています。私は、言語を上手に使えます。英語は高校の時にアメリカに留学して本格的に学びましたが、今では日本語訛りはありません。強いて言えばフランス語訛りが有るくらいです。自慢のように思われると困るのですが、これが私の現実です。自分のこの能力を少しでも人にわかってもらおうと、フランス語の自習室のブログもはじめました。最近はほとんど更新していませんが。

霊能者がサバンかどうかは私にはわかりません。私は霊現象に非常に興味が有るのですが、人の過去の記憶を読み取るメカニズムがまだ具体的にイメージできないからです。真空エーテルというのは、面白そうですが、まだよくわかりません。でも、人の気持ちは(恨みも含めて)この現実世界に残る可能性は否定しません。残留思念です。

自分の考えを推し進めていくと、このまま自分は狂ってしまうのかと思う時がありますが、そういう時はいい具合に眠気が押し寄せてきて、一段落します。

私の言語理論が通れば、私は天才扱いをされるでしょう。でもそれはまだまだ先のことだと思いますし、その前に私の命が尽きるかも知れません。でも、何かを残したいという衝動にかられてこのブログをはじめました。今は、一歩ずつ進む飲みです。

(2016.01.22 17:04:15)

Re[2]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん

自分に返信するのはおかしいですがパイコネです。

鎌倉時代における唯識数学の展開
北畠 典夫

これがヒットしました。しかし、先に進めません。

「心は巧みな画工のようなもの」
http://akira.b-tama.com/007.html

こちらは現代物理的です。イメージ的に理解が進みます。心の作用は行為的直観(西田幾太郎)の連鎖によって、作品を制作するようなものといっています。如何でしょう。
http://akira.b-tama.com/007.html
(2016.01.22 20:29:42)

Re[1]:大狂人(1)(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん
ともちゃんさん

>>実は、「あ」と「い」の間には、無限の音が入るのです。
>なるほど。では、言語は連続ですね。言語が離散化であるというのは人為的だということですね。

>それでもあといは離散しているのでは。聞き取れないというのは人間の脳の性能が悪いということなのではないでしょうか。

脳の性能の問題ではありません。赤ん坊は聴覚に障害がなければ、どんな言語の音でも聞き取れることが可能です。しかし一旦ある言語を聞き取れるようになってしまうと、他の音が聞こえなくなってしまうのです。トマティスというメソッドがあります。これを応用して外国語の習得にも使ったりしますが、トマティス博士によると、言語にはそれぞれ独特のパスバンドがあり、ロシア語は広いのでいろんな言葉を学ぶのに有利だが、フランス語や日本語は狭いので、外国語が苦手なのだ言うことになります。私もこれに賛成します。

あといの間には、人間の耳にも無限の音が可能です。しかし一旦離散化してしまった聴覚はそれを許さないということです。


>これは理解しています。もっと厳密にいえばこうなります。記憶と想起がありますね。記憶するときは離散、想起は連続、だから連続な音と聞こえる。脳と一言でいうのはまずいのではないでしょうか。

私も記憶と想起に関しては注目しています。記憶が離散で想起が連続というのを説明していただけますか。想起のメカニズムは私もまだまだ検証不足なので興味津津です。


>脳の中を探検するミクロの決死隊を派遣しましょうか。

このアイデアは手塚治虫が最初だったような記憶がありますが、今度確認しておきます。
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(2016.01.22 21:33:35)

Re[1]: 「聴覚言語」の発明と普及は、盲者にとっての朗報、聾者にとっては悲報だった。。。 (01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん
>佐藤氏の仮説を再確認しました。それは言葉の原点は視覚だということです。そして記号とは手話であるということです。

人類が最初に手に入れた記号は手話でした。これは議論の余地がないと思います。

>これは今までの発想を超えています。常識的なら音声がまずあってそれが言語なったと考えやすいからです。ところがこの仮説をよく考えてみたら私の体験にあったのです。今までもやっていたことですが、思わずそうかと手をたたきました。

手話というのは、視覚言語であり運動言語です。視覚運動言語と言わないと完全ではないので今後は長くてもこの表現を使おうと思います。おっしゃる通り、数式を入力する手も、言語活動の1つです。耳が聞こえなくても、読心と口話(発声)ができる聾者がいます。自分の声が聞こえなくても、発声している時は、彼らの頭の中には記号が生まれます。

手を動かしていることと手話は直接は結びつかないと思いますが、言語全体、発信と受信の両方を鑑みると関連性が見えてくると思います。

明晰夢というのは、私も昔よく経験しました。頭をいろんな情報で頭をいっぱいにしたまま、ゴロッと横になると睡魔が襲ってきます。しかし、意識はあるままで目の前に視覚的情報が展開します。当然目は閉じていますから、これは一種の夢です。そして、それらの情報が全く新しい関連性を示しだします。しかし、起きてしまうと全て忘れてしまうので、それを思い出すためのきっかけを自分で考えるのです。30パーセントでも思い出せたら御の字です。私はこれを使って研究を進めていた時期があります。


(2016.01.22 21:45:49)

Re:佐藤さんの主張(01/18)   CLG2009 さん
ともちゃんさん
fractalemode さん

>佐藤さんは、何を主張されているのか?
>私なりに、纏(まと)めます。
>断定的に書きますので、
>間違った部分の訂正をお願いいたします。

はい、了解しました。

>言語は視覚言語(ジェスチャー・手話)から始まったのか?
>あるいは言語は、
>音声言語(おしゃべり・口話)から始まったのか?
>ここが出発点です。

議論の出発点ですね。

>なぜならば、「新人」が初めて、手話を始めた時、
>「音声言語」は、存在しなかったからです。
>これが、佐藤さんの第一の仮説です。

紆余曲折ありましたが、今はこれが私の仮説です。

>新人の言語は、「音声言語」から始まった。
>これが、佐藤さんの第二の仮説です。
>言語の始まりが「音声言語」なら、
>その始まりにおいては、当然「手話」は存在しません。
>当然、「文字」も存在しません。

今は、音声言語が最初であったという仮説は取り下げます。
ただ、音声言語の発生前に、文字があったか無かったか、この論議が新たに起こってきます。以前は、文字を切り離そうとしていましたが、第一仮説をとったことにより、認識が変わりました。

>第一の仮説は、「手話」だけで考えなければならない。
>「音声言語」と言う発想が入ってはいけない。
>第二の仮説では、「音声言語」だけで考えなければならない。「文字」と言う発想が入ってはいけない。
>佐藤さんは、こう言う主張をされています。

その時は、そのように考えていたと思います。おかげで、整理がつきました。

>ここで止めておけば、博士論文は通っていたと思います。

フランスでは言語の起源に関する議論はタブーなので、どちらにしろ通らなかったと思います。


>自分の論説をより多くの人に見て頂くためには、
>「肩書」は、絶対に有利に働きます。
>佐藤さんは、その後、宇宙論へ進むべきだったのです。

今でこそ、ともちゃんさんのご意見もあり、宇宙離散化論という方向線が見えてきましたが、それでも私の原点は言語です。これは変わりません。


>佐藤さんは、二重人格を体験されています。
>英語・フランス語・朝鮮語・日本語。
>使用する言語により、別の人格が入って来ます。

これは経験しないとわからないと思いますが、外国語を流暢に使う人達なら程度の差こそあれ共有できる感覚だと思います。

>佐藤さんは、使用する言語が民族を作ると言っておられます。
>中国語や朝鮮語は、間違った言語である。
>だから間違った言語である、
>中国語や朝鮮語を使う民族は卑劣になる。
>これは佐藤さんの、正直な体験談だと思います。

宇宙離散化論に照らし合わせると、過去にこだわり続けるこの2つの言語は確かに「間違っている」と表現できます。私は、こんな卑屈は民族がこの世に存在したのかと、最近は呆れるどころか感心さえしてしまいます。ただ、日本にとってはこの2民族の歴史認識攻撃の矛先が自分たちに向かっているのですから、静観しては折れません。

>これが、佐藤さんの民族論に発展しました。
>佐藤さんは、言語学からはじまり、宇宙論へ行き、
>今現在は、民族学を展開されています。

とりあえず身近なところでアクションを起こそうとするとこうなりました。でも、全ては大きく関連しています。

>しかし、これは現時点では、
>「オカルト」の世界に所属しております。
>世間の学問は、まだここまで付いて来れないのです。
>しかし私が言うように、「言語の始まり」で止めておけば、
>片足はアカデミズムに置く事が出来ました。

前述しましたが、フランスでは「言語の始まり」は、れっきとしたオカルトです。担当交換に何度たしなまれたことか。

オカルトの海は広いです。フランスでも最近オカルトに関する感心が高まっています。ケーブルテレビのチャンネルも出来ました。でも、私は彼らとは相いれません。彼らの目的は、より良い人類の未来なのですが、何がより良い未来かどうか、彼らははっきりとした科学的根拠がありません。それに彼らのキーワードは「幸せ」です。私は、幸せであることは重要だと思いますが、じんるい統べてが幸せになったらそこで人類の進歩は終わりだと思っています。でなければ興産主義のように他人による新しいカタチの搾取が始まったりします。



(2016.01.22 22:01:29)

Re[1]:佐藤さんの主張(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん
ともちゃんさん

>視覚言語=手話言語:手話=記号
>でよいですか。
>つまり言語はあったのですね。言語=意味のルールですね。
>言語ゲームとの関係はどうなっているのでしょうかね。又フーコの言う世界監獄説(権力言語ゲーム=監視システム)と関係も知りたいですね。現代は至る所に監視カメラが設置されていますよね。これって視覚言語ゲームなのではないでしょうか。
>フーコが言ったのは、それをそこで生きている人達はそれが権力の言語ゲームだとはだれも気が付かない。後の世代の人達がそれだとで気が付くといいました。

私は先人たち(特に西洋人)の言語に関する「哲学的」考察とは一度すべて距離をおいてみる必要があります。私の考える言語原理は、哲学ではありません。科学です。まだ、上手にまとめられていないので、これからの重大な課題なのですが。


>>第一の仮説は、「手話」だけで考えなければならない。
>>「音声言語」と言う発想が入ってはいけない。
>>第二の仮説では、「音声言語」だけで考えなければならない。「文字」と言う発想が入ってはいけない。
>>佐藤さんは、こう言う主張をされています。

>つまり、第一の仮説が真の仮説だということですね。

はい、わたし的にはそうなります。


>>佐藤さんは、使用する言語が民族を作ると言っておられます。

>マクルーハンは言います。メディアは人間の延長であると。言語はメディアである。思考する、意味を伝える媒体ということですね。当然、思考する様式、意味を伝える様式が変わります。意味の集積が文化ですから民族を変えますね。

マクルーハンのことは知りませんでした。最近日本では、既存メディアの地位を破壊するインターネット革命が起きています。捏造情報が浸透していた日本では、他国に比べてこの革命の意義は大きいです。今まで、どちらについていたかで、今後が変わってきますが。嘘を吹聴してきた、朝日新聞や民団は、今後日本での存在理由をどんどん問われることになるでしょう。しかし、これは因果応報です。

>私はそれをひっくり返して、言語は民族の投影であると思っています。つまり、人間の先天的気質があり、その気質が言語という構造を決めていると思っているのですが如何がでしょうか。その根拠は三つ子の魂です。従って、民族の言葉と会わない人が出てくるのですね。長い間の混血が進みましたからね。それが精神の病理だとおもうのです。

言語は、世代交代を通じて再生産されるものです。気質がドンドンと言語を発展させていくというのは正しいです。嘘にまみれた歴史を上から押し付けられた韓国国民ですが、結局自分で実証することもできず、今正に泥沼にはまっています。彼の日本バッシングのプロパガンダはしばらくは続くでしょうが、もう日本人は朝鮮人という民族に嫌悪感しか抱かないようになっています。この傾向は日を追う毎に増していくでしょう。日本が相手にしてくれないと韓国人が知った時、彼らに何が残されているのか、彼らが自分たちの嘘を正すことができるのか、もう日本人には関係ありません。これを理解するのにはシンシアリーさんのご著書を読むことをお勧めします。




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(2016.01.22 22:13:20)

Re[1]:佐藤さんの主張(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん
ともちゃんさん

>>中国語や朝鮮語を使う民族は卑劣になる。
>>これは佐藤さんの、正直な体験談だと思います。

本当に彼らの卑屈さとは付き合っていられません。現実ですから、仕方ないですが。

>朝鮮語と百済語とは違うのでしょうか。もし、おなじだったら困ってしまいますね。日本人も卑屈になってしまいます。(^~^)

>日本語が百済語だと言ったらどうする!古代日本史の謎を解く.スミルノフ学派・佐野千遥教授
>http://ameblo.jp/allahakbar231/entry-11098035162.html

ざっと目を通してみましたが、あたかもタイムマシーンに乗って全てを見てきたかのように話が展開するので、私は賛成できません。

百済と日本が交流があったことは確かでしょう。しかし、民族の言葉まで全て変えてしまったとは思えません。私は逆に、日本人が百済を領地にしていて、その後北方の民族に追いやられ、残った女達の話す言葉が朝鮮語の基礎になったとも考えてみました。日本語と朝鮮語の文法の類似点は、驚異的です。ただ、似ているが、これだけ価値観が乖離している言語民族も珍しいと思います。フランス、スペイン、イタリア、ポルトガルはラテン語族ですが、今はヨーロッパということで基本的な価値は共有しています。


>韓国と日本は昔から地で繋がってっていましたから地続きなのであまり韓国(今の北朝鮮ではなく、李氏朝鮮)のことを悪く言うと天に唾になるような気がします。

悪口と言うよりは、李氏朝鮮のひどい状況を今の韓国人達は知らないのです。それを彼らが認識するかしないか、それは彼らの問題でしょう。

もちろん本当に地でつながっているという意味ではありません。朝鮮の歴史を見ていると、絶えず権力が交代して負けて方が日本にやってきていたのですね。

なんでも朝鮮から来たという認識は、いわゆる韓国人のウリジナル説の温床になっています。自分たちが元々優れていたから、それを日本に教えてやった。そんな劣っているはずの日本に併合されたから、それを「植民地支配された」と事実をねじ曲げて吹聴して回っているのです。

付け加えるなら、朝鮮は常に日本を侵略してきました。元寇をそそのかしたのも朝鮮ですし、防人というのは朝鮮からの侵略に備えての軍備です。

>日本語と韓国語は同系語
>http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-d7dd.html

>似ている単語の数が多ければ同系語とするのでなく、言語史、発想、語法、文末語・・などの色々な視点から比較すると、日韓語が深層的に親子ほど似ていることがわかるといっています。

百済人からの影響は、あると思いますが、日本の民族性を作ったのはあくまでも土着の日本人です。少し前なら、歴史ロマンの1つくらいにしか考えなかったことですが、今は韓国が日本の貶めるためのプロパガンダに利用しているのを知っていますから、非常に警戒して読み解く必要があるとお思います。


>>オカルトの海へ泳ぎ出すと言う事。
>>その為には、オカルトとアカデミズムの境界線が、
>>どこに有るのか。
>>今現在では、その波打ち際はどこなのか?
>>それを、キッチリと認識しておかなければなりません。

私はアカデミズムから足を洗った人間です。今更戻れるとは思っていません。だからこそ、パラダイムシフトに賭けているわけです。


>量子論はまるでオカルト化しています。オカルトを見えない世界の言語ゲームだとすると、量子論と親和性があるのは当然ですよね。

量子論の議論を見ていると、確かに言語の議論と通じるところがありますね。

>佐藤さんはマルクスの価値論を導入しているようですが、佐野氏も価値を数学しています。何と宇宙方程式に価値が入ってくるのです。これはオカルトを超えています。ただ、私はマルクスの弁証法はいただけないと思っています。

価値が宇宙方程式に入ることは、そんなにすごいことなのでしょうか。価値とは、離散化によってしか生まれないものです。 (2016.01.22 22:42:35)

Re:他人様の論旨(01/18)   CLG2009 さん
ともちゃんさん
fractalemode さん

>佐藤さんの第一の仮説
>佐藤さんの第二の仮説
>これは、佐藤さんが、直接言われた訳ではありません。
>佐藤さんが、7年間書かれたブログを、
>私が、勝手にまとめただけなのです。
>佐藤さん、これでよろしいですか?
>この様に、佐藤さんに問いかけているわけなのです。

おかげで大分整理がつきました。感謝しています。

>「勝手な事を書きあがって」と、
>お叱りを受ける可能性もあります。
>しかし、他人様の論旨を纏(まと)める為には、
>まとめ役の主観がどうしても入ってしまいます。

自分だけで書いているとどこまで伝わるのかが不安です。その点でも私にとっては大切な纏め担っています。

>fractalemode さんのご主張も、纏めたいと考えています。
>さもなければ、「論点」が、何処へ行くか解りません。
>佐藤さんのお考えを知るのに何年もかかりました。

ともちゃん流の纏め、面白そうですね。楽しみにしています。
(2016.01.22 22:46:21)

Re[2]:大狂人(1)(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん
CLG2009さん

>その共通項は離散値(離散原理)であるということのようですね。私はまだ、数学の離散値と離散原理とが一致しているかどうか確信がありませんが、60%は一致しているだろうと思い込んで進めています。何か、ずれていたらご指摘をお願いします。

共通な部分があることがまず重要だと思います。何かあればこちらから質問させていただきます。


>違いを図式化してみます。

>離散化の原理:宇宙離散化論ー生命科学ー言語学***複雑
>離散値の宇宙論:物理ー数学⇒生命ー言語ー社会***単純

>最近は複雑系の科学がありますので、複雑さとはなにかを定義しておかないと曖昧になりますね。

このブログでも前に書いたのですが、「離散系」という「系」は可能でしょうか。


>これは内観法といわれる禅そのものではないでしょうか。禅語録とは禅の言語です。そして禅は即非の論理です。禅は中間派の唯識(龍樹)を受け継いでいます。私は唯識=禅を数学しようと思っているのです。ということは同じ方向を目指しているのではないでしょうか。とはいっても、私は物理の匂いが強いですけどね。

>今私ができることは、道元の禅を数学することです。これは主観の数学となるかどうかを検証をお願いします。しばらくかかると思いますが。

ユーチューブで宮崎哲弥さんの番組を見て、自分の考えていることと仏教徒の関連性を考えたことがあります。苫米地英人氏もいろんな論を展開しているようですが、私はどうもあの人が胡散臭くて信用できません。あくまで勝手な私見ですが。

https://www.youtube.com/watch?v=eDuFi_KeETU

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>それは私にも言えます。道元を追いかけてもまだ理解できていまん。そして他人がまとめたものを理解しようとしても互いに矛盾したことを言っているのですね。何を信じてよいやら。こうなったら、決めつけるしかありません。自分の感性を信じて。

全く同感です。

私も、前に考えたこととは今は全く考えが変わっていることがあります。ブログは、その思いつきの垂れ流し状態なのですが、ブログという性格上、これでいいと思っています。本当は、何日のカタチで纏められるのが理想なのですが、もう少し先になりそうです。でも、仮説の問題が一段落したら、何か書きたくなるかも知れません。

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ブログ「仏教思想と自己相似集合」、これは西田幾多郎の哲学とも通じるものです。

これから読んでみたいと思います。




(2016.01.22 23:00:37)

Re[2]:佐藤さんの主張(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん

>私は先人たち(特に西洋人)の言語に関する「哲学的」考察とは一度すべて距離をおいてみる必要があります。私の考える言語原理は、哲学ではありません。科学です。まだ、上手にまとめられていないので、これからの重大な課題なのですが。

神は二度も殺されましたが、哲学は三度も殺されたのですね。神の刺客はニーチェとゲーデル、哲学はゲーデルとウィトゲンシュタインと長谷川さんです。

>マクルーハンのことは知りませんでした。最近日本では、既存メディアの地位を破壊するインターネット革命が起きています。捏造情報が浸透していた日本では、他国に比べてこの革命の意義は大きいです。今まで、どちらについていたかで、今後が変わってきますが。嘘を吹聴してきた、朝日新聞や民団は、今後日本での存在理由をどんどん問われることになるでしょう。しかし、これは因果応報です。

その通りですね。

>言語は、世代交代を通じて再生産されるものです。気質がドンドンと言語を発展させていくというのは正しいです。嘘にまみれた歴史を上から押し付けられた韓国国民ですが、結局自分で実証することもできず、今正に泥沼にはまっています。彼の日本バッシングのプロパガンダはしばらくは続くでしょうが、もう日本人は朝鮮人という民族に嫌悪感しか抱かないようになっています。この傾向は日を追う毎に増していくでしょう。日本が相手にしてくれないと韓国人が知った時、彼らに何が残されているのか、彼らが自分たちの嘘を正すことができるのか、もう日本人には関係ありません。これを理解するのにはシンシアリーさんのご著書を読むことをお勧めします。

韓国人が歪んでしまった原因が言語にあるというのはが面白いです。それは漢字文化だからですか、それともハングルだからですか。ハングルは音をベースにした聴覚言語、漢字は象形だから視覚言語のような気がするのですが。

間違った言語という根拠がよくぁかりません。間違った数学(微分=連続)というのが間違った結果を導くという意味での確認のしようがありますが、言語の場合はどうなのでしょうか。

韓国は中国の属国支配から逃れようとしてきた歴史がありますね。当然、TPP問題のように迎合派と抵抗派に分かれて争うことになります。その回数たるや日本の比ではないですね。当然権謀陰謀策略の悪の世界になるでしょう。このようにおかれた状況と言語の関係がすっきりとは理解できていません。 (2016.01.23 11:49:55)

Re[2]:佐藤さんの主張(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん

>本当に彼らの卑屈さとは付き合っていられません。現実ですから、仕方ないですが。


>>日本語が百済語だと言ったらどうする!
>ざっと目を通してみましたが、あたかもタイムマシーンに乗って全てを見てきたかのように話が展開するので、私は賛成できません。


講釈師ですね。話としては面白いということでしょうね。真実かどうかはわかりませんが。

>百済と日本が交流があったことは確かでしょう。しかし、民族の言葉まで全て変えてしまったとは思えません。私は逆に、日本人が百済を領地にしていて、その後北方の民族に追いやられ、残った女達の話す言葉が朝鮮語の基礎になったとも考えてみました。日本語と朝鮮語の文法の類似点は、驚異的です。ただ、似ているが、これだけ価値観が乖離している言語民族も珍しいと思います。フランス、スペイン、イタリア、ポルトガルはラテン語族ですが、今はヨーロッパということで基本的な価値は共有しています。


ヨーロッパは飛びぬけて強大な国はありませんでしたよね。
ローマぐらいですかね。離散民族としてのユダヤ人は異色ですね。アメリカへ離散した人達はピューリタン革命という名前通り清い人たちだったのでしょうか。それが今のアメリカを作ったのですよね。

それでも互いに憎しみ合ってはいませんね。これが言語の近さなのでしょうかね。

>悪口と言うよりは、李氏朝鮮のひどい状況を今の韓国人達は知らないのです。それを彼らが認識するかしないか、それは彼らの問題でしょう。


私の考えは中国との関係で卑屈になったと思うのですね。ハングルも漢字文化からの抜け出しだったと思うのですね。確か李氏は中国友好派でしたね。


>なんでも朝鮮から来たという認識は、いわゆる韓国人のウリジナル説の温床になっています。自分たちが元々優れていたから、それを日本に教えてやった。そんな劣っているはずの日本に併合されたから、それを「植民地支配された」と事実をねじ曲げて吹聴して回っているのです。


なるほど。それてって被害者意識ではないでしょうか。韓国って恨みの文化とも言いますね。恨みって弱者の論理ですね。そうだとすると根が深いなあ。。。

>付け加えるなら、朝鮮は常に日本を侵略してきました。元寇をそそのかしたのも朝鮮ですし、防人というのは朝鮮からの侵略に備えての軍備です。

中国(元や清など)と倭寇と朝鮮という三角関係ですね。

>百済人からの影響は、あると思いますが、日本の民族性を作ったのはあくまでも土着の日本人です。少し前なら、歴史ロマンの1つくらいにしか考えなかったことですが、今は韓国が日本の貶めるためのプロパガンダに利用しているのを知っていますから、非常に警戒して読み解く必要があるとお思います。

分かりました。相手には過去の記憶(中国との恨み)がありますから権謀参謀に優れています。

>価値が宇宙方程式に入ることは、そんなにすごいことなのでしょうか。価値とは、離散化によってしか生まれないものです

物理と価値とはまるで違う不連続の世界であり、同じ土俵になるということは物理の人たちには考えられません。まして方程式という形で示せるなどとは思いません。価値観というのは人によって違いますしね。つまり主観です。客観の物理数学の世界では主観をはさむというのはまさに異端です。

しかし、佐藤さんはそれを求めているのですからさして驚くにはあたらないのだと思います。私はむしろこれで霊や魂を数学ができるぞと意を強くした次第です。

ただ、宇宙方程式にはまだ完全ではないと思います。価値という定義はマルクスの借り物であり、労働価値+流通価値+有用価値であり、貨幣概念と同等です。有用というのは心の側面を離散化したという点では画期的ですが、まだ、主観を離散化したとは言えないと思うのですね。主観の離散化はまだ緒に就いたばかりというべきかもしれません。 (2016.01.23 13:08:09)

Re[3]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん

>このブログでも前に書いたのですが、「離散系」という「系」というのは可能でしょうか。

私はわからない時は言葉を分解したり合成してみます。複雑系というのは複雑さの因果系ではないでしょうか。複雑とは複数の変数があるということですね。それが相互作用する場(システムが系であると。複雑系の科学はそのような系に関して検証可能・反証可能に表現するということではないでしょうか。

これがあたら遠からずなら、離散系とは離れ散るということであり、離散する因果系となります。フィボナッチ数列は1,1,2,3,5,8,13,,,ですからまさに離れ散っています。そして隣同志の和となっています。ですから13の後に来る数は21と決まってしまいます。つまり因果の系ですね。

自然にはこのような増え方をする現象が多いのですね。それも全く異なる分野にです。ここから自然の原理は離散値をとる系があると言考えます。系を原理と置き換えると離散原理となります。そんなように置き換えて読んでいきます。その上で数学的な厳密な定義を学んで、確認をとります。

こうして漸化式的にやれば佐藤さんの言語における離散系と数学的な意味での離散系とが一致するかどうかがわかると期待しています。今のところ違和感は持っていません。ただ、言語における連続性は数学の連続の定義を適用することは難しいと思います。言語に連続だとすると、実現しないいわゆる無理数のようなもので翻訳不可能な言語になってしまいます。もし連続の言語を発見したいなら連続性の定義を緩めてやる必要があるかもしれませせん。実際にそような研究をされている方がいるようです。

http://www.f.waseda.jp/ymuroi/pub/cont.pdf

ただ、事例研究がドイツ語なので全くお手上げです。

これによれば、言語は離散であるというのは当たり前のことであり、離散化するということは、連続なものを離散にするという意味ですから矛盾してしまします。

>ユーチューブで宮崎哲弥さんの番組を見て、自分の考えていることと仏教徒の関連性を考えたことがあります。苫米地英人氏もいろんな論を展開しているようですが、私はどうもあの人が胡散臭くて信用できません。あくまで勝手な私見ですが。

いや全くその通りです。苫米地英人氏はゲーデルの不完全性の定理をうまく利用しています。意味(命題)とは不完全である。ですから意味に対抗するには無意味で対抗するしかないというわけです。それがΩ(超ランダム)です。その上でこのΩを空であるして仏教と量子論を接着しようとしているのですね。なぜなら量子論はランダムを前提にしているからです。

しかし、量子論がこけたら、苫米地英人氏もこけることになります。

ゲーデルの不完全性は実数を前提として証明したのです。実数が担保できなければこれこそ意味がありません。

>私も、前に考えたこととは今は全く考えが変わっていることがあります。ブログは、その思いつきの垂れ流し状態なのですが、ブログという性格上、これでいいと思っています。本当は、何日のカタチで纏められるのが理想なのですが、もう少し先になりそうです。でも、仮説の問題が一段落したら、何か書きたくなるかも知れません。

是非おねがいします。

ところでところで同じ言語のジャンルで奇人?がいます。それは玄語を作った三浦梅園です。
http://www.coara.or.jp/~baika/
玄語は陰陽論を言語化したのですが、それは離散原理そのもです。ただし梅園は数学化ではなく論理化したのですね。離散の宇宙論ともいうべきでしょうか。図を大事にしており数式は出てきません。反観合一であり、反対から見るという視点転換の方法であり、双対の原理です。これを徹底するのですね。私はこれを数式化するとフラクタルになると思っています。


>ブログ「仏教思想と自己相似集合」、これは西田幾多郎の哲学とも通じるものです。

>これから読んでみたいと思います。

ここでもフラクタルを基本に於いていますね。梅園と西田幾太郎は似ているようです。ヘーゲルの弁証法:正反合とは似て非なるものです。 (2016.01.23 14:36:16)

Re[2]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん

>あといの間には、人間の耳にも無限の音が可能です。しかし一旦離散化してしまった聴覚はそれを許さないということです。

これを(不)確定性原理によって数式化すると、

聞き取り可能領域(振動数)*離散化された記憶=一定

となります。聞き取る領域が広ければ、体験した記憶は限定されるとなります。つまり、バンド幅と記憶とは反比例するということになります。これを現代物理の不確定性原理で解釈すると、聞き取る領域が無限に広ければ記憶は0になり、なにも記憶できないとなります。実際はそんなことは起きていないのですから、聞き取るバンド幅は無限でなく有限であるということです。実際そうでしょうね。

これは何を意味しているのかどいうことです。不確定性原理は幼児の現実と違うということを言っています。それは音が離散値しか取れないということの現れです。子供が無限に聞き取れるといいうのは、ものすごく幅広く聞き取れるという意味であって、数学的無限のことではありません。実際そんなこと不可能ですよね。ですから不確定性原理は確定性原理というべきなのです。この世界の現実は有理数=離散値の世界なのです。

観念としては無限でもいいのですが、それを現実に当てはめてつまうと、右辺が一定である以上、どうしても矛盾が起きてしまうのですね。

ab=1とするとa=∞とするとb=1/∞=0,a=1/0は不逞の輩です。
数学では0で割るのは禁じ手です。

そうなると右辺がどうして一定であるのかというのが気にりますよね。

長い時間かけて、無言で書いたのですが、変な文字を入れたようですべてがパーとなりました。やはり、離散化(短く区切る)して投稿した方が無難でみたいですね。

続けます。 (2016.01.23 21:13:25)

Re[2]:大狂人(1)(01/18)   faractalemode さん
CLG2009さん

二つの変数の積は一定であるというのが不確定性原理です。これは相反することを言っているのでパラドックスです。逆説ですね。そのような例はいくらでもあります。急がば回れ。出る杭は打たれるなどです。ここでは宮沢賢治の働けど働けど楽にならざりを取り上げます。

これを式にすると

働くこと*楽になる=一定

となります。

簡単にするため

努力*成果=一定

とします。努力しても成果は上がらないという解釈になります。常識では、努力すれば報われるですよね。しかし、宮沢賢治はそれは実感できなかったのです。彼の言うことを信じてこれを解釈すると、努力と成果は反比例するということになりまさう。これは現代の倫理観では許されないことです。老子荘子の世界ですね。無為こそ良いというわけです。しかし、これは嘘です。この原理を揶揄しています。それは無限と関係があります。

老荘の極論ははただ言ってているだけですから、ふんそんなものかというだけに終わってしまいます。人生の終わりに近づいてきたときに悟るというわけですが、この式はそれを数式化しているということです。でも本当に言いたかったことは何なのでしょうか。

そのカギは値が離散値をとるか連続値をとるかということです。それによって老荘の真実が見えてきます。

連続値でやると無限の努力をしても成果は上がらず、無限の成果を上げるためには、全く努力は必要ないということになります。これって資本主義の世界のようですね。しかし、無限は存在しないので、最大の努力と最大の成果は同時に求めることはできないということになります。二兎を追うものは一兎をも得られないということわざ通りになります。

これが不確定性原理です。

一方で、離散値で解釈すると、堅実に努力をすれば堅実に成果は上がる。堅実に成果を上げるためには堅実に努力しなければならないとなります。無為自然が老荘ですが、言いたかったのは無限の欲望は捨てろとということではないでしょうか。ほどほどが寛容です。それは二兎を追うものは二兎を売るコツです。これが確定性原理です。

不確定性原理は極端なのですね。しかしそれは現実には起きないことですから幻想をもたらします。資本主義とは欲望を再生産して幻想の垂れ流しをしているということですね。


それを老荘は戒めたのだと思います。つまり不確定性は間違いだといってわけですね。無為とは何もしないということです。それで成果が上がるといったのですが、そんなはずがないというのが、老荘の本当に言いたかったことです。









>私も記憶と想起に関しては注目しています。記憶が離散で想起が連続というのを説明していただけますか。想起のメカニズムは私もまだまだ検証不足なので興味津津です。


>>脳の中を探検するミクロの決死隊を派遣しましょうか。

>このアイデアは手塚治虫が最初だったような記憶がありますが、今度確認しておきます。
>-----

----- (2016.01.23 22:43:49)

Re[3]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん

不確定性の原理とは二兎を追うものは一兎も得られずということの数式化ですが、これは間違いです。連続をベースとするからそうなるのですね。離散値をベースとすると二兎を追うものは二兎を得られるとなります。どっちにしろこの式の右辺が一定というのが気になりますよね。

ab=1

精神の世界でこれが成り立つかどうかは、整合性があるかどうかで決まります。取りあえずは私の解釈で、厳密ではありませんが、純粋に物理現象から導きます。解釈(こじつけ)はその後にします。

今、犬が私の周りをまわっているとします。その円周は

x=2πr

です。変形すると

r=x/2π

これを波とすると、波長λは半径の逆数になります。

r=1/λ=x/2π

となります。

一方で、力をFとしてΔxだけ動かすと

FΔx=ΔE

これは犬が動いている時に消費するエネルギーです。大きな石を1m動かせばそれなりに汗をかきます。そんなイメージです。

イヌは動いているので勢いがあります。その勢いは運動量と呼ぶますが、体重と速度と関係します。

力があり、それをある時間動くので、

FΔt=Δp

とします。これが運動量です。犬のエネルギーと勢いの式を並べると

FΔx=ΔE
FΔt=Δp

これからFを消去します。

すると

Δx/Δt=ΔE/Δp
ΔxΔp=ΔEΔt

となって不確定性原理の片割れが出てきました。

更に変形すると、

Δp=ΔEΔt/Δx=ΔE/v(vは速度)

ですが、ここでエネルギーは周波数で決まるといいう法則を導入します。

ΔE=hf(hはプランク」の定数)

です。更に速度は、周波数*波長なのでv=fλを代入すると

Δp=ΔE/v=hf/fλ=h/λ

1/λ=x/2πなので、

Δp=h/λ=h(x/2π)=h/2π(x)
Δp1/x=h/2π
1/x=Δx
なので
ΔpΔx=h/2π

従って

ΔxΔp=ΔEΔt=h/2π

これが不確定性原理です。正確には4πですが、ここはあまり関係ないので左辺はどのみち定数なので1とします。

ΔEΔt=1

となりました。エネルギーと時間の変化は互いに反比例するということになりました。これは様々なパラドックスを生むのですね。取りあえず、エネルギー=努力として時間を成果とするとその積は一定ということになります。まだこじつけの感はありますが、努力するにはエネルギーが必要であり、タイムイズマネーですからそんなに無茶苦茶ということはないでしょう。

物や心が動くに力が必要であり、努力は文字通り務める力ですので精神的な力です。それでも物理概念を精神にそのまま持ち込むことには違和感があると思います。

しかし、心理学でも物理概念を無断で持ち込んでいることが多いのですよね。精神力とか気力とかです。これまでの曖昧さをなくすようにもう少し物理のサイドから距離を縮めてみたいと思います。

圧力*体積=プレッシヤー*距離*面積=力*距離=FΔ=ΔE

なのですね。

圧力を心理的圧力とすると意外と親近感があると思います。距離は心理的距離と解釈できます。面積は受けとめる腹です。

こうしていけば心理的プレッシャーの高いTPP交渉の場面も力の概念で説明できそうです。

今日の成果は力の概念によって(不)確定性原理を導けたことです。後はこれをどう精神世界に応用できるかということになります。 (2016.01.24 00:08:58)

Re[3]:佐藤さんの主張(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん

>韓国人が歪んでしまった原因が言語にあるというのはが面白いです。それは漢字文化だからですか、それともハングルだからですか。ハングルは音をベースにした聴覚言語、漢字は象形だから視覚言語のような気がするのですが。

言語というと、語彙と文法というイメージがありますが、歴史や文学、そして諺なども含めた言語活動全てをカバーするものだと考えます。

朝鮮は、朝鮮語という言葉がありましたが、支配階級の両班は漢字を使って物書きをしていました。ハングルは存在していましたが、下等な文字とされ、日本が併合後ハングル教育を始めるまでは表舞台に出ることはありませんでした。日本語の仮名表記も最初は同じような扱いを受けていましたから、当時の支那文化の影響力が大きかったと言えるでしょう。

李氏朝鮮時代の朝鮮人が使っていた漢字は、当然「漢文」つまり外国語ですから朝鮮語ではありません。それを日本の音読みのように朝鮮読みをします。日韓併合で日本人が発明した近代語彙が大量に入ってきますので、同じ漢字でも、日本語起源の漢字語であると言えます。これに関しては、現代中国語も同じです。英語にフランス語源の単語がいっぱい入っているのと似ています。近代的な語彙や科学用語はほとんどがフランス語からの借用です。

つまり、韓国は漢字文化圏ではありますが、それは書記言語だけのものです。ハングルは表音文字、漢字は表意文字です。どちらも「資格情報」で有るという点は同じでうが、視覚言語とは言えません。この辺に関しては、ともちゃんさんとの議論でも話題になるのですが、もう少し纏めなければいけないと思っています。言語とは何かという究極の問いです。

>間違った言語という根拠がよくぁかりません。間違った数学(微分=連続)というのが間違った結果を導くという意味での確認のしようがありますが、言語の場合はどうなのでしょうか。

私が「間違っている」と考えるのは、人類というものは未来を見据えてそれに向かって進化していくという定義に立っているからです。過去から伝えられていることには真理が入っていることも多いですが、過去の栄光、過去の秩序にこだわっている中国や韓国は、この人類の進化に逆行します。「間違っている」という表現は強すぎるかも知れませんが、彼らのしていることを見ると、日本を貶めて自分たちが上にたとうという姑息な精神しか見えてきません。

>韓国は中国の属国支配から逃れようとしてきた歴史がありますね。当然、TPP問題のように迎合派と抵抗派に分かれて争うことになります。その回数たるや日本の比ではないですね。当然権謀陰謀策略の悪の世界になるでしょう。このようにおかれた状況と言語の関係がすっきりとは理解できていません。

属国支配から逃れようとしたことは一度もありません。長年属国だった清からの独立は日本が日清戦争にかって勝手にくれたものです。結局、独立国家の体裁をとれずに日本に併合されて「無理やり、望みもしなかった近代化」を与えられたのです。日本的な平等を目指す民主主義は、上限関係(甲乙)でしかものを見ることができない朝鮮人のメンタリティーとは相容れないのです。

朝鮮人には独立心がありません。依存心だけで生きてきたのです。つまり、自分より強いものがいれば、それに無条件で従う。自分より弱いものは徹底的にいじめるです。日本は、朝鮮より華夷秩序の中では低い地位にいなければいけないのに、文化も技術も経済も朝鮮を遥かに凌駕しています。これが朝鮮人たちは許せないのです。



(2016.01.24 04:06:51)

Re[3]:佐藤さんの主張(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん

>ヨーロッパは飛びぬけて強大な国はありませんでしたよね。
>それでも互いに憎しみ合ってはいませんね。これが言語の近さなのでしょうかね。

ヨーロッパ人同士での諍いは色々とありましたが、ヨーロッパという旗のもとにまとまることができました。これは素晴らしいことです。ただ、ユダヤ人は別です。フランスでは人種差別とユダヤ差別は別枠になっています。

>私の考えは中国との関係で卑屈になったと思うのですね。ハングルも漢字文化からの抜け出しだったと思うのですね。確か李氏は中国友好派でしたね。

朝鮮人たちは自分たちが卑屈だとは思っていません。優れたもの、強大なものに「事大」すること、これが彼らの価値観なのです。日本人にはこの発想はありません。日本は海に囲まれていたという有利な地理的条件があり長い間独立を維持してきました。その精神は、この国際社会でも貫かれていますが、万年属国であった朝鮮は「独立国」がどうあるべきか知りません。

朝鮮の宗主国である支那ですが、彼らは「植民地」であった時期が非常に長い。元も清も漢民族が作った国ではありません。自分のことしか考えない支那人たちが国を運営しようとすると、必ず破綻します。「おおやけ」の意識が欠如しているので、国のために何かをするという発想がないからです。今の中国で、国策が何かあるとしても、それはその時々の指導者の威光のためです。人民のためではありません。外国人の支配を受けることで「和平」の状態を手に入れる。そういう意味では支那人も朝鮮同様卑屈な民族です。華僑はその最たるものです。他民族が作った政治や社会に「寄生」して生きているのです。唯一の例外はシンガポールでしょうか。一応、独立国ですから。


>なるほど。それてって被害者意識ではないでしょうか。韓国って恨みの文化とも言いますね。恨みって弱者の論理ですね。そうだとすると根が深いなあ。。。

朝鮮人の「恨(ハン)」は、非常にわかりにくいものです。恨みというか「逆恨み」です。何かされたことを恨むのであればわかりやすいですが、その対象が見事にずれていき、世代を超えて増幅していくのです。これは韓国の「反日」の正体です。つきあいきれないので日本には今後「無視」する選択肢しかありません。


>中国(元や清など)と倭寇と朝鮮という三角関係ですね。

元の威を借りた朝鮮が日本に攻めてきたのが元寇です。

>>今は韓国が日本の貶めるためのプロパガンダに利用しているのを知っていますから、非常に警戒して読み解く必要があるとお思います。
>>
>分かりました。相手には過去の記憶(中国との恨み)がありますから権謀参謀に優れています。

まだ中国人の方が、論理的思考をするので陰謀はわかりやすいですが、韓国人はもうむちゃくちゃです。そして何かあると日本が助けてくれる。この甘えを断ち切らないと韓国人のためになりません。


>物理と価値とはまるで違う不連続の世界であり、同じ土俵になるということは物理の人たちには考えられません。まして方程式という形で示せるなどとは思いません。価値観というのは人によって違いますしね。つまり主観です。客観の物理数学の世界では主観をはさむというのはまさに異端です。

離散化は価値のシステムを生みます。そして同じことに対して、違う認識を持てるようになります。確かにこういう不確実要素は物理とは相容れないですね。私は、原子一つ一つは、人間が一人一人違うように「違う」と考えています。物理では、こんなことを言ったら狂人扱いされますね。

>しかし、佐藤さんはそれを求めているのですからさして驚くにはあたらないのだと思います。私はむしろこれで霊や魂を数学ができるぞと意を強くした次第です。

私も、過去の思念(霊)と向き合えるようになれればと思っています。

>ただ、宇宙方程式にはまだ完全ではないと思います。価値という定義はマルクスの借り物であり、労働価値+流通価値+有用価値であり、貨幣概念と同等です。有用というのは心の側面を離散化したという点では画期的ですが、まだ、主観を離散化したとは言えないと思うのですね。主観の離散化はまだ緒に就いたばかりというべきかもしれません。

離散と価値、これはこれから非常に重要になっていくと思います。マルクスもソシュールも価値に注目した。私は経済学を勉強して言語学に鞍替えしましたが、二つの共通点を感じています。 (2016.01.24 04:36:22)

Re[4]:大狂人(1)(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん

>>このブログでも前に書いたのですが、「離散系」という「系」というのは可能でしょうか。

「離散系」に関する考察ありがとうございます。

私のイメージする「離散系」というのは「離散化系」つまり、進化している宇宙です。

「離散化ループ」により、新しい「離散差位(単位)」が生まれ、その連続が進化につながります。連続から離散というイメージは数学的な捉え方だと思いますが、私は、差のないところに、差が生まれる現象を離散化とします。差は差であって実体ではありません。

太陽系の進化は「リトルバン」から始まります。最初の離散化ループにより物質という記憶が生まれます。一旦生まれた物質は離散化サイクルとして、その記憶を維持します。さらなる離散化ループが連続シテ起きることで、生命が生まれ、そして言語を使う人類に発展するというものです。

ここには、大まかなシナリオはあっても、始めからこうなると決定されているわけではありません。


>こうして漸化式的にやれば佐藤さんの言語における離散系と数学的な意味での離散系とが一致するかどうかがわかると期待しています。今のところ違和感は持っていません。ただ、言語における連続性は数学の連続の定義を適用することは難しいと思います。言語に連続だとすると、実現しないいわゆる無理数のようなもので翻訳不可能な言語になってしまいます。もし連続の言語を発見したいなら連続性の定義を緩めてやる必要があるかもしれませせん。実際にそような研究をされている方がいるようです。

離散化原理というのは、進化のダイナミックスです。数学の場合は、現象をどう捉えるかということになると思うので、その点が違う様な気がします。

>http://www.f.waseda.jp/ymuroi/pub/cont.pdf

>ただ、事例研究がドイツ語なので全くお手上げです。

ちょっと目を通してみましたが、あまり興味のわく内容ではないみたいです。言語活動は元々離散化が根底にあるので、何を見ても連続対離散という図式を持ち出すことは可能です。しかし、何が離散性を生み出しているのかに対する問いが欠如しています。

>いや全くその通りです。苫米地英人氏はゲーデルの不完全性の定理をうまく利用しています。意味(命題)とは不完全である。ですから意味に対抗するには無意味で対抗するしかないというわけです。それがΩ(超ランダム)です。その上でこのΩを空であるして仏教と量子論を接着しようとしているのですね。なぜなら量子論はランダムを前提にしているからです。

>しかし、量子論がこけたら、苫米地英人氏もこけることになります。

やはりそうですか。うすうすそうなるのではないかと思っていました。


>ここでもフラクタルを基本に於いていますね。梅園と西田幾太郎は似ているようです。ヘーゲルの弁証法:正反合とは似て非なるものです。

フラクタルは、自己相似性という記憶の原理を扱った数学だと考えています。離散化系を解くにはフラクタルが重要な役割を果たすのではないかと思っています。しかし今でもフラクタルを認めない数学者がいると聞きました。ということは、各所での抵抗が予想できますね。

----- (2016.01.24 05:18:03)

Re[5]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん

>私のイメージする「離散系」というのは「離散化系」つまり、進化している宇宙です。

なるほど、化の意味が分かりました。離散的に変化する進化ですね。

化というと、A→Bですから、どうしても離散でないものつまり、連続から離散になると考えてしまいやすいです。もともと離散であるものが離散的に進化するというのは、現代科学が自ら示したことです。やっと佐藤さんに追いついてきたのではないでしょうか。ところが現代科学は離散が真理であるにもかかわらず連続というLSDを捨てきれずにいるのだと思います。連続は素晴らしいですからね。その結果、身を崩す。



>「離散化ループ」により、新しい「離散差位(単位)」が生まれ、その連続が進化につながります。連続から離散というイメージは数学的な捉え方だと思いますが、私は、差のないところに、差が生まれる現象を離散化とします。差は差であって実体ではありません。

翻訳してみます。

離散ループを漸化式、離散差異を真空の分極と置き換えてみます。この連続(この場合は因果の連鎖)が進化となる。差のないところというのは真空のことです。仏教の空(カオス)ですね。しかし、禅では真空、空ならずといいます。この後の空は空は文字通り空っぽの空です。差のないところ=真空からすべての差異が生まれてきます。つまり離散化現象です。差=差異=差分とするとそれは実在しないもの。つまり実の体ではない。体とは形を成すといいます。数学的には四則演算ができる数となりますね。確かに差は実体ではありませんね。123、、は実体に対応しますが、2-1はΔxであり、間ですから実体ではないといえます。

ここで思い出しました。易経の三つの変易・不易・簡易ですが、これまで簡易の意味が分からなかったことをです。プロの説明を見ても簡単に示すだとかしかありません。ここで、簡易を離散と解釈してみます。簡は竹+間です。竹林のイメージです。竹は間を保って林立します。間つまり差異は竹そのものではありません。これですっきりしました。

これらのことを数式で表現すると、

Xn+1=aXn(1-Xn)

となるかもしれません。これはカオスの式です。

Xn+1-Xnが差、=はループ、離散差位の単位はXn+1とXn、差がないとは(Xn:1-Xn)は対=真空としてあるということ、そして差のないところに差が生まれるとは、(Xn:1-Xn)の次にXn+1が生まれ、新たな差Xn+1-Xnが生まれる。

aの値によってその進化の様子は千変万化となります。風が吹けば風呂屋が儲かるという話ですね。もちろんこの式だけがすべてではありません。フラクタルの式もあります。漸化式であることには変わりありません。

ここで切ります。 (2016.01.24 10:10:57)

Re[5]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん

>太陽系の進化は「リトルバン」から始まります。最初の離散化ループにより物質という記憶が生まれます。一旦生まれた物質は離散化サイクルとして、その記憶を維持します。さらなる離散化ループが連続シテ起きることで、生命が生まれ、そして言語を使う人類に発展するというものです。


「リトルバン」を除いて同意できます。私は収縮フラクタル分割説です。


太陽は冥王星の大きさからスタートして空間のフラクタル黄金分割によって始まりました。すべて空間分割の記憶が残っています。離散化サイクルをフラクタル黄金分割と読み替えると辻褄はあいます。


リトルバン説ではなぜ惑星が円盤状に行儀よくしかも離散値で並んでいるのかが説明できないと思います。中身のない大きな真空体積があって、その後、子供達が生まれたとする説です。最近9番目の惑星が生まれましたが、これは佐野氏は予言していました。何故予言出るのかというとフラクタル分割だから、式によって計算できるからです。


翻って、地球のフラクタル分割は両方あります。目立つのは拡散フラクタルです。巻貝や生物、その他結晶など多くみられます。核の内部は収縮です。マクロとミクロは収縮で、中間は拡散なのかもしれません。
(2016.01.24 11:10:24)

Re[5]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん
>ここには、大まかなシナリオはあっても、始めからこうなると決定されているわけではありません。


それは決定論的非線形カオスというこれまで科学が見落としてきた現象ですね。これは決定されています。何故なら式があるからです。しかし、その結果がどうなるかが予測できないのですね。初期値に敏感なのです。だから暗号に使われます。


決定されてはいるが予測できない。やってみなければ分からないのです。では誰がそのシナリオを書いたのかという問題がありますね。それが宇宙の原理だということになるのですが。


しかし、はっきりと予測できる現象もあります。それは葉っぱの出るところです。ちゃんとある角度に計算されて出てくるのですね。それはあとから出てくる葉っぱが、前の葉っぱの光合成の邪魔をしないための位置があるのですね。それは黄金角という位置です。これは黄金比から導かれます。つまりは葉っぱが出るのはフラクタル分割によって計算された位置に出るというシナリオがあるということですね。


あたかも宇宙にはコンピュータがあって、それぞれの場所で、それぞれは宇宙の記憶をオンデマンドでアクセスしてきて計算しているとしか思えません。もちろんこの場合の計算とは、離散系です。 (2016.01.24 11:15:54)

Re[5]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん

>ここには、大まかなシナリオはあっても、始めからこうなると決定されているわけではありません。


それは決定論的非線形カオスというこれまで科学が見落としてきた現象ですね。これは決定されています。何故なら式があるからです。しかし、その結果がどうなるかが予測できないのですね。初期値に敏感なのです。だから暗号に使われます。


決定されてはいるが予測できない。やってみなければ分からないのです。では誰がそのシナリオを書いたのかという問題がありますね。それが宇宙の原理だということになるのですが。

しかし、はっきりと予測できる現象もあります。それは葉っぱの出るところです。ちゃんとある角度に計算されて出てくるのですね。それはあとから出てくる葉っぱが、前の葉っぱの光合成の邪魔をしないための位置があるのですね。それは黄金角という位置です。これは黄金比から導かれます。つまりは葉っぱが出るのはフラクタル分割によって計算された位置に出るというシナリオがあるということですね。

あたかも宇宙にはコンピュータがあって、それぞれの場所で、それぞれは宇宙の記憶をオンデマンドでアクセスしてきて計算しているとしか思えません。もちろんこの場合の計算とは、離散系です。


>離散化原理というのは、進化のダイナミックスです。数学の場合は、現象をどう捉えるかということになると思うので、その点が違う様な気がします。


それは一般的な考えですね。数学を表象する道具とするのが普通です。しかし、フラクタルカオスの現象を目のあたりにするとそうは言ってはいられなくなります。普通は物質的因果は物質が原因ですね。非物質から物質が生まれてくることはありません。オカルトなら別ですが。量子論も確率の海から物質が生まれたとします。しかし、どのようにとは答えられません。


ところがカオスフラクタルは純粋の数学的な式です。現象を表象したものでありません。それがどうして物質現象を生むのでしょうか。明らかに非物質⇒物質という流れを認めないわけにはいかないでしょう。そこまで来たら、あとは、その逆、物質⇒精神に向かうのは当然ですよね。そこにも数学的シナリオがあると思っているのです。その手始めに言語がどのようにして発生したのかを探求するのは大変に好材料ですね。

(2016.01.24 11:34:23)

Re[5]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん

そこで元に戻るのですが、人間の場合初めに手話ありきですね。私は不変を求めるのが科学なので離散値の言語の視点で、串刺しできないのかと思うのですね。言語には国の違いもあり、更に方言まで含めると大変な数ですよね。それぞれ違いはあるとしても何か普遍な原理があるのではないでしょうか。それを動物、植物、有機物、無機物に広げていけないかと思うのです。

イヌ語,ネコ語、とり語、植物の語、人間の言語のそれぞれの原理が違うとはとても考えにくいのです。


違いに目をつけることも重要ですが、その本質を浮き彫りにすることも必要ですよね。それに役立つのが位相幾何学です。コップとドーナツは形の姿も違います。一見違うと見えるものが同じだと発見するのが位相幾何学です。何故、コップとドーナツが同じだといえるのでしょうか。それはまづ繋がり方です。材料が伸縮自在な材料で出きていると考えます。切ったりはったりしないで形を変えます。折るのもダメですね。コップのへこんだところは膨らませます。取っ手のところも大きくします。するとドーナツになりますよね。梅園の反観合一です。これを言語に使えないでしょうか。

カタストロフィーの理論によれば、述語動詞の数は限定されているようですね。確か20以内だったと思います。


その点でホフマイヤーの生命記号論は役に立つ思うのですが如何でしょうか。ホフマイヤーには記憶という視点も離散という数学的な視点もないようですが、これまでの二項という関係で見る記号論よりは三項という視点で見るので、記憶や数学を取り入れやすいのではないかと思うのですね。その三項目とは関数だからです。


意味を理解することとは人間が解釈しているのですね。ですから三項があるわけですね。その起源が手話にあるというのは無言の解釈ですね。進化の階段を下に降りてみると、無言の世界ですよね。ここに共通項があると思うのですね。手話とは手で話すということですが、他人と話す前に自分と話していたのではないでしょうか。例えば木の実を数えるとかです。目の前に果物がなっているとします。それからもぎとります。食べれば一つ減りますよね。こうして会話をしていたのではないでしょうか。つまり、算数をしていたわけです。しかもその算数とは、引き算です。数学は引き算から始まったのではないでしょうか。足し算というのは高度なのですね。食べ物を蓄えるというはやりませんからね。一部の動物はやるようですが。もぎ取るというのは操作です。つまり手話です。ここに記号過程があります。


もぎ取る行為(関数)が介在して

多数のリンゴから食べる一個のリンゴを指し示す。

こじつけですかね。 (2016.01.24 12:10:43)

Re[4]:佐藤さんの主張(01/18)   fractalemode さん
CLG2009 さん

>朝鮮人たちは自分たちが卑屈だとは思っていません。
中略
>万年属国であった朝鮮は「独立国」がどうあるべきかしりません。

それは救いようがありませんね。

>朝鮮の宗主国である支那ですが、彼らは「植民地」であった時期が非常に長い。元も清も漢民族が作った国ではありません。
中略
>華僑はその最たるものです。他民族が作った政治や社会に「寄生」して生きているのです。唯一の例外はシンガポールでしょうか。一応、独立国ですから。

そうであるならなぜあんなに人口が多いのでしょうね。進化論によれば救いようがないなら生きられないはずですよね。それにあんなに大きな領土にでんと居座っている。矛盾していますね。

>朝鮮人の「恨(ハン)」は、非常にわかりにくいものです。
中略
>これは韓国の「反日」の正体です。つきあいきれないので日本には今後「無視」する選択肢しかありません。

それもカオスの現象ですかね。

>まだ中国人の方が、論理的思考をするので陰謀はわかりやすいですが、韓国人はもうむちゃくちゃです。そして何かあると日本が助けてくれる。この甘えを断ち切らないと韓国人のためになりません。

なるようにしかならないですね。

>離散化は価値のシステムを生みます。そして同じことに対して、違う認識を持てるようになります。確かにこういう不確実要素は物理とは相容れないですね。私は、原子一つ一つは、人間が一人一人違うように「違う」と考えています。物理では、こんなことを言ったら狂人扱いされますね。

同じなんだけど違うと考えるのですね。違ううのだけれども同じだと考えた方が簡単ですからね。数学は抽象の学ですからそっちの方へ傾きますね。確率論なんてその典型です。偏差値然りですね。マスマーケティングというのは個々の顔を無視しますよね。最近でこそ個客満足、おもてなしなどといいますが、はたして内実はどうでしょうかね。 (2016.01.24 12:58:14)

オカルト   ともちゃん さん
佐藤さん
fractalemode さん

お二人の議論を楽しく読ませて頂いております。
ところで、このブログは、何人ぐらいの方が、
読んでおられるのでしょうか?

こう言う形式ですと、私でさえ、これはいったい、
どちらの発言なのだろうか?
何度も投稿者の名前を読み返す始末です。

さっと目を通される方は、
何がナンだか解らなくなるのではないかと心配しております。
こんな所へ私が入ったら、もうグチャグチャです。
そんな訳で、しばらく、静かに拝読させて頂いております。

新聞記事は、だいたい高校生レベルの知能があれば
理解できるように書かれております。
しかし我々の語る哲学は、中学生レベルに照準を絞っても、
難しいと思います。

「ともちゃん」を小学生と考えて話をしてくれとは、
そう言う意味なのです。
難しい話ほど、子供を諭すように語らなければ、
相手には話が通じません。

コリン・ウイルソンによりますと、
オカルトとは、「未だ開かれざるもの」と言う意味です。
そう言う意味で、コペルニクスもガリレオも、当時は
「未だ開かれざるもの」の中にいたオカルティストでした。

しかし彼らは、自分たちをアカデミズムから、
遠ざけられた者だとは、まったく考えていませんでした。
おなじ意味で、私たちもアカデミズムより
半歩前に足を踏み出しております。
そして後の半歩は、アカデミズムに足を掛けています。

こう言う意味で、アカデミズムから足を滑らせた議論は、
空中分解してしまいます。
そこを監視させて頂く。
そんな気持ちで、拝読させて頂いております。
(2016.01.24 15:47:19)

Re[6]:大狂人(1)(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん

>ところが現代科学は離散が真理であるにもかかわらず連続というLSDを捨てきれずにいるのだと思います。連続は素晴らしいですからね。その結果、身を崩す。

連続というのは確かに便利なものですね。離散を基礎に置くことが、今現在の科学の世界に挑戦状を突きつけることだと理解出来ました。


離散ループに関する基本認識はほぼ一致している気がします。数式は私には全部はわかりませんが、筋書きは同じと感じます。


>「リトルバン」を除いて同意できます。私は収縮フラクタル分割説です

「リトルバン」というのは、「ビッグバン」という一時系列の見方に反発して考えたものです。この宇宙の時間は、複数あると思っています。時間というのは、記憶の進化の軌跡ですから、記憶が進化するところでは、そこだけの時間が流れています。ただどのように「リトルバン」が起きたに関してですが、太陽がホワイトホールとなって今でも差異を生み続けていると考えています。太陽は、有限の物質リソースを燃やしているのではなく、一種の泉のように「離散差位」が湧き出ているという感じです。太陽が中心に有るという点では、フラクタル分割説との共通点はあります。そうすると「バン」という言葉は使わないほうがいいかも知れません。


>決定されてはいるが予測できない。やってみなければ分からないのです。では誰がそのシナリオを書いたのかという問題がありますね。それが宇宙の原理だということになるのですが。

この「誰」を探すと「神」を想像(創造)するしか無くなります。私はこれはしたくありません。


>あたかも宇宙にはコンピュータがあって、それぞれの場所で、それぞれは宇宙の記憶をオンデマンドでアクセスしてきて計算しているとしか思えません。もちろんこの場合の計算とは、離散系です。

葉っぱの例もよく分かります。でも多分「計算」をしているのではなくて、そういう道筋が有るだけだと思います。計算するとすると誰かが考えなくてはいけないですから。サバン症候群の人は曜日を言い当てるのに計算していません。全て覚えているのです。それと同じでしょう。


>ところがカオスフラクタルは純粋の数学的な式です。現象を表象したものでありません。それがどうして物質現象を生むのでしょうか。明らかに非物質⇒物質という流れを認めないわけにはいかないでしょう。そこまで来たら、あとは、その逆、物質⇒精神に向かうのは当然ですよね。そこにも数学的シナリオがあると思っているのです。その手始めに言語がどのようにして発生したのかを探求するのは大変に好材料ですね。

私は、離散化というのは「非物質⇒物質」「物質⇒生物」「生物⇒精神」というジャンプを推進するメカニズムであるというところから出発しています。だから「進化のダイナミクス」となるわけです。これが前提ですから、どうしてと聞かれると困ってしまうのですが、宇宙(あるいは太陽系)の誕生から、物質、生命、人間と記憶がたどった道筋を見ているとこういう結論に達した、そうとしか表現できません。















(2016.01.24 16:37:58)

Re[3]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
faractalemodeさん

>>私も記憶と想起に関しては注目しています。記憶が離散で想起が連続というのを説明していただけますか。想起のメカニズムは私もまだまだ検証不足なので興味津津です。

私もすべてを理解しているわけではないのですが、私なりに何とか分かりやすく説明してみます。とりあえず従来の科学と違う点の雰囲気だけをつかんでください。ボキャブラリーをリストしておきます。

確定性原理、離散値、差分和分、負のエントロピー、負のエネルギー、負の質量、動的作用反作用、NとS単極磁石(モノポール)、フラクタル分割、メビウスの帯、新相対論、メビウス変換、鏡面対称性、対数関数、黄金比、指数関数、多項式、タイムマシン、テレポート、真空エーテル、真空エーテル時間軸、縦波磁気波、物質波、超々光速などなどです。

この物語はたった一つの命題、ニュートンの見捨てられた法則からスタートします。ニュ-トン力学は古典として今や通じないのですがどっこい生きていました。それは古文書の中にありました。それをスミルノフが発見したのです。ここから現代科学の間違った選択が暴かれます。物語としても面白いですよ。

このS科学は、放射能汚染除去、タイムマシン・テレポーテーション・反重力、反エントロピー、生命物理学、医学、永久機関、語学習得「即聞即答訓練」、精神医学・心理学、経済、経営、法律、歴史学、政治学、戦略論など多岐にわたるといっています。特に言語関係は佐藤さんとかかわりが深いと思います。どんな火花がとるのか楽しみです。 (2016.01.24 16:50:23)

Re[6]:大狂人(1)(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん

>そこで元に戻るのですが、人間の場合初めに手話ありきですね。私は不変を求めるのが科学なので離散値の言語の視点で、串刺しできないのかと思うのですね。言語には国の違いもあり、更に方言まで含めると大変な数ですよね。それぞれ違いはあるとしても何か普遍な原理があるのではないでしょうか。それを動物、植物、有機物、無機物に広げていけないかと思うのです。

>イヌ語,ネコ語、とり語、植物の語、人間の言語のそれぞれの原理が違うとはとても考えにくいのです。

人間の言語は、人類のアイデンティティーを進化させるためのものです。他の生命体の使う「言語」は、コミュニケーションのためだけであり、アイデンティティーは発達も伝達もされません。

ホフマイヤーの生命記号論を調べてみました。三項対立のことですが、言語はこれを基本にしています。英語を習った方なら誰でも聞いたことの有る、1/2/3人称は基本です。言い換えると、話者/対話者/第三者になります。

ヨーロッパの言語は、これに非常に忠実で人称が決まるのですが(英語では、I/You/Theyの人称代名詞)、日本語では基本的に三人称の(普通)名詞が多用されます。自分のことを示す単語は多岐にわたります。例えば、わたし、わたくし、ぼく、おれ、おいら、じぶん、小生、吾輩等々です。つまり、自分のことを指すのに、その場の状況等に応じて変えることができるのです。英語でも王様などの位の高い人の場合、対話者であっても失礼のないようにとの配慮から「Your Majesty」と三人称の名詞を使うこともあります。

話が少し反れましたが、我々が「記号/シーニュ」と読んでいるものは、この人称の三項対立から生まれた「三人称の名詞」であると言えます。

ソシュールが記号という概念を導入してから、記号に関する議論が盛んになりましたが、どれも記号を現象として捉えていて、その起源に関しては感心がありません。ソシュールは、記号学がこれからの新しい科学になるだろうと予言していましたが、彼自身、それがどのようなものになるのかは想像できていませんでした。私は今正にそれをしようと思っています。

>違いに目をつけることも重要ですが、その本質を浮き彫りにすることも必要ですよね。それに役立つのが位相幾何学です。

相違点と相似点を使って、この世をカテゴライズするのが人間です。そのための記述を記録(記憶)するための道具が言語なのです。記号は、記憶を想起するための「きっかけ/ヒント」です。

>意味を理解することとは人間が解釈しているのですね。ですから三項があるわけですね。その起源が手話にあるというのは無言の解釈ですね。進化の階段を下に降りてみると、無言の世界ですよね。ここに共通項があると思うのですね。手話とは手で話すということですが、他人と話す前に自分と話していたのではないでしょうか。例えば木の実を数えるとかです。目の前に果物がなっているとします。それからもぎとります。食べれば一つ減りますよね。こうして会話をしていたのではないでしょうか。つまり、算数をしていたわけです。しかもその算数とは、引き算です。数学は引き算から始まったのではないでしょうか。足し算というのは高度なのですね。食べ物を蓄えるというはやりませんからね。一部の動物はやるようですが。もぎ取るというのは操作です。つまり手話です。ここに記号過程があります。

手話も「記憶の固定」のためのものです。手話の便利なところは、例えば「果物をもぎ取る」という動作がそのまま「サイン」として固定できるということです。しかし、一旦「サイン化」すると、それから他の物への応用の聞く「汎用性」を発揮するようになります。しかし、液体を撮ろうとする時は「もぎ取る」動作は使えません。水は木には成っていないからです。そうすると別のサインが必要になってきます。ここでおっしゃる通り「無言」の自己との対話が必要になります。そして新しいサインを生み出す原動力なるわけです。

手話も含めて言語は、あくまで「種としての人類のアイデンティティーの進化」のためのものです。これを、我々一人一人の人間が日常的に使っているのです。このため、根本的な部分と日常的な部分をきちんと分けて考える必要があると思います。今まで、フランス人と言語について議論したことがありますが、私が考える「種としての人類のアイデンティティーの進化」が理解できていないために、いつも議論が平行線でした。これをよりわかりやすく伝えるのが今の私の課題です。

(2016.01.24 17:24:32)

Re[5]:佐藤さんの主張(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん

>>華僑はその最たるものです。他民族が作った政治や社会に「寄生」して生きているのです。唯一の例外はシンガポールでしょうか。一応、独立国ですから。

>そうであるならなぜあんなに人口が多いのでしょうね。進化論によれば救いようがないなら生きられないはずですよね。それにあんなに大きな領土にでんと居座っている。矛盾していますね。

http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%82%AC%E3%83%B3-%E6%9E%97-%E5%BB%BA%E8%89%AF/dp/4890633006

私はまだ読んでいませんが「中国ガン」という台湾の方が書いた本があります。このアマゾンのリンクに説明があるのでそれが参考になると思います。

そういう意味で支那というのは仮面ライダーのショッカー軍団みたいなものかも知れません。


>>これは韓国の「反日」の正体です。つきあいきれないので日本には今後「無視」する選択肢しかありません。

>それもカオスの現象ですかね。

負の連鎖反応ですね。彼らに自浄作用がないので、破滅の道をたどるか、支那に事大して寄生虫として生き残るか。私は冷ややかに傍観するだけです。


>>離散化は価値のシステムを生みます。そして同じことに対して、違う認識を持てるようになります。確かにこういう不確実要素は物理とは相容れないですね。私は、原子一つ一つは、人間が一人一人違うように「違う」と考えています。物理では、こんなことを言ったら狂人扱いされますね。
>同じなんだけど違うと考えるのですね。違ううのだけれども同じだと考えた方が簡単ですからね。数学は抽象の学ですからそっちの方へ傾きますね。確率論なんてその典型です。偏差値然りですね。マスマーケティングというのは個々の顔を無視しますよね。最近でこそ個客満足、おもてなしなどといいますが、はたして内実はどうでしょうかね。 (2016.01.24 12:58:14)

「個々の顔」という表現ですが、日本語には「個」と「個々」という言葉があります。英語で言うとどちらも「Individual」になってしまい、単なる「これ以上分解できない客観的単位」となってしまいます。私は日本語の、一種西洋言語の「複数形」的な要素をもった「個々」という表現が、同じだけど違うということを意味するのに使えると思っています。

離散化によって生まれるものは「個々」です。同じだけれども違う、これは自然界の真理でもあります。「個々」を取り込める科学を私は目指しています。となると、今の物理学には期待できそうもありませんね。
(2016.01.24 17:34:42)

Re:オカルト(01/18)   CLG2009 さん
ともちゃんさん
>ractalemode さん

>お二人の議論を楽しく読ませて頂いております。
>ところで、このブログは、何人ぐらいの方が、
>読んでおられるのでしょうか?

今、大体、一日のPVが200前後です。最近は300を超すこともありますが、我々三人が閲覧しているのが原因と思われます。

>こう言う形式ですと、私でさえ、これはいったい、
>どちらの発言なのだろうか?
>何度も投稿者の名前を読み返す始末です。

ブログとコメントという形式の性ですね。

>「ともちゃん」を小学生と考えて話をしてくれとは、
>そう言う意味なのです。
>難しい話ほど、子供を諭すように語らなければ、
>相手には話が通じません。

投稿する時は、どうしても閃きが先行するので、小学生向けの配慮は難しいと思いますが、質問に対する答えは少しでもわかりやすくを心がけるようにしています。

>コリン・ウイルソンによりますと、
>オカルトとは、「未だ開かれざるもの」と言う意味です。
>そう言う意味で、コペルニクスもガリレオも、当時は
>「未だ開かれざるもの」の中にいたオカルティストでした。

オカルティスト同盟でも作りましょうか。


>こう言う意味で、アカデミズムから足を滑らせた議論は、
>空中分解してしまいます。
>そこを監視させて頂く。
>そんな気持ちで、拝読させて頂いております。

今の議論が、これから先の人類の進歩に結びつく、そう言う信念を私は持っています。よろしくお願いいたします。
(2016.01.24 17:41:13)

Re[4]:大狂人(1)(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん

>確定性原理、離散値、差分和分、負のエントロピー、負のエネルギー、負の質量、動的作用反作用、NとS単極磁石(モノポール)、フラクタル分割、メビウスの帯、新相対論、メビウス変換、鏡面対称性、対数関数、黄金比、指数関数、多項式、タイムマシン、テレポート、真空エーテル、真空エーテル時間軸、縦波磁気波、物質波、超々光速などなどです。

私が感心の有ることがいっぱいあります。

>この物語はたった一つの命題、ニュートンの見捨てられた法則からスタートします。ニュ-トン力学は古典として今や通じないのですがどっこい生きていました。それは古文書の中にありました。それをスミルノフが発見したのです。ここから現代科学の間違った選択が暴かれます。物語としても面白いですよ。

スミルノフに関しては私もリサーチしてみます。何か質問があったらその時はよろしくお願いたします。

>このS科学は、放射能汚染除去、タイムマシン・テレポーテーション・反重力、反エントロピー、生命物理学、医学、永久機関、語学習得「即聞即答訓練」、精神医学・心理学、経済、経営、法律、歴史学、政治学、戦略論など多岐にわたるといっています。特に言語関係は佐藤さんとかかわりが深いと思います。どんな火花がとるのか楽しみです。

私にも記憶言語学という城がありますので、これを守りながら他の人達の考えることの共通点や相違点を明らかにしていけたらと思います。
(2016.01.24 17:45:39)

Re[1]:オカルト(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん
ともちゃんさん

>>お二人の議論を楽しく読ませて頂いております。
>>ところで、このブログは、何人ぐらいの方が、
>>読んでおられるのでしょうか?

>今、大体、一日のPVが200前後です。最近は300を超すこともありますが、我々三人が閲覧しているのが原因と思われます。

>>こう言う形式ですと、私でさえ、これはいったい、
>>どちらの発言なのだろうか?
>>何度も投稿者の名前を読み返す始末です。

私も同じ状況です。一覧性がないのが問題かと思います。


>ブログとコメントという形式の性ですね。

>>「ともちゃん」を小学生と考えて話をしてくれとは、
>>そう言う意味なのです。
>>難しい話ほど、子供を諭すように語らなければ、
>>相手には話が通じません。


私が原因かもしれません。

>投稿する時は、どうしても閃きが先行するので、小学生向けの配慮は難しいと思いますが、質問に対する答えは少しでもわかりやすくを心がけるようにしています。

なかなか難しい注文ではありますが、そう心がけます。

>>コリン・ウイルソンによりますと、
>>オカルトとは、「未だ開かれざるもの」と言う意味です。
>>そう言う意味で、コペルニクスもガリレオも、当時は
>>「未だ開かれざるもの」の中にいたオカルティストでした。

>オカルティスト同盟でも作りましょうか。

ニュートンもオカルトでしたね。


>>こう言う意味で、アカデミズムから足を滑らせた議論は、
>>空中分解してしまいます。
>>そこを監視させて頂く。
>>そんな気持ちで、拝読させて頂いております。

それはアカデミズム権威主義に従うということでしょうか。今、日本は御用科学者の時代ですよね。そのパラダイムを崩す仮説など出したら生きていけないのですよね。予算が付かない。研究できない。路頭に迷うしかありません。

われわれは別ですが。(^-^)

その例は反エントロピーとエネルギー非保存則です。これほど刺激的で反動的なものはありません。昔の韓国なら反逆者です。


御用科学が安全神話を生み、離散家族を生み出したことをどう考えたらよいのでしょうか。危険を承知で言いますが、加速器の予算がどれほどか知っていますか。私も知りませんが、一国の予算では賄いきれないほどです。それを全世界の予算で作ろうというのです。

その内容たるや驚きです。

ジェット飛行機が空中で爆発したとします。その破片をとってきて元の姿を再生することはある程度できます。それは元の姿を知っているからです。しかし、素粒子の元の姿を知らないのです。その破片を持ってきてどうして元の姿を想像できるでしょうか。今や素粒子動物園と揶揄されています。

自然は単純から複雑に進化してきましたよね。それがどうして複雑に戻ってしまうのでしょうか。加速器は破片を見ているに過ぎないのではないでしょうか。

韓国の卑劣さが話題になっていますが、先進国の加速器についての行動はそれにも勝る愚かとしか言いようがありません。


>今の議論が、これから先の人類の進歩に結びつく、そう言う信念を私は持っています。よろしくお願いいたします。

ノンリターンリバー、戻れない川、三途の川、臨界点、ランナウエーなど危機的状況を示すことばはあります。しかし、明日からマイナス成長率にするという政治家が当選すると思いますか。我々が車を捨てることができますか。私はブレーキの利かない列車に乗っていると思います。

そうした認識で議論をしたいと思います。 (2016.01.24 19:15:37)

Re[7]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん

>人間の言語は、人類のアイデンティティーを進化させるためのものです。他の生命体の使う「言語」は、コミュニケーションのためだけであり、アイデンティティーは発達も伝達もされません。

アイデンティティー=自己同一性=自分らしさ=自我=同一律の基づく自己認識でよいでしょうか。

同一律は古典論理の私は私である。つまりA=Aです。これは自己認識のもとになっているのですね。認識には記憶が必要ですね。何故なら認識とは差異の比較ですから。比較するためには記憶が必要です。記憶は宇宙の原理ですので人間固有のものではありません。そうすると、人間だけがアイデンティティーを持つ、更に進化させるというのは疑問になってきます。

その根拠を具体的に示します。自己の認識は免疫にもあります。免疫記憶というのもあります。免疫は人間だけでなく多細胞生物からあるようです。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=41095
免疫機構も進化してきたのですね。つまり、自己認識も進化してきたといえます。胎児は半自己というそうですよ。


また自己同一性は個人らしさですからみな違うのですが、免疫においても、それはあります。HLA(自己証明のようなもの)は個体毎に違うようです。生物ごとに違うなら大変な数になりますね。人間の一卵双生児でもHLAは違います。

以上から免役は自己認識の言語過程であり、自己を同一視する言語過程だといえるのではないでしょうか。決してコニュニケ―ションだけをしているのではありません。これをどう考えたりょいでしょうか。 (2016.01.25 14:14:41)

Re[2]:オカルト(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん


>私も同じ状況です。一覧性がないのが問題かと思います。

他のブログサイトでいいのがテーマごとに議論できるような仕組みのがあればと思いますがどうでしょう。


>ニュートンもオカルトでしたね。

時代の先駆者は常にオカルトなのですね。まだまだ科学が挑戦すべき分野は多いですね。


>それはアカデミズム権威主義に従うということでしょうか。今、日本は御用科学者の時代ですよね。そのパラダイムを崩す仮説など出したら生きていけないのですよね。予算が付かない。研究できない。路頭に迷うしかありません。

>われわれは別ですが。(^-^)

昨日地下鉄で言語学のセミナーに一緒に出ていた友達とばったり再会しました。パリではないが、言語学の先生をしているということ。詳しくは聞きませんでしたが、大学で仕事するのは大変だとこぼしてました。私は、大学以外で食べていける道があったのですが、高校大学大学院とずっと勉学しかしていない人はつぶしがきかないです。

御用科学者の時代というのは筒井康隆の「文学部只野教授」を読んで、こんなものかと感心してしまいました。この本、フランス語にも訳されているようです。そして賞ももらったとか。

どんな研究であれ、大学という場があって、あまり役にも立たないことを研究できる人達がいるという環境は必要ですね。人間は無駄なことでも必要なことがありますから。でも本当に無駄なことに予算がおりるのは手放しで喜べませんが。


>御用科学が安全神話を生み、離散家族を生み出したことをどう考えたらよいのでしょうか。危険を承知で言いますが、加速器の予算がどれほどか知っていますか。私も知りませんが、一国の予算では賄いきれないほどです。それを全世界の予算で作ろうというのです。

私も加速器の建設は無駄だと思っています。これはいつまで立っても終わらないからです。でもまだしばらくはこれは続くでしょうね。


>韓国の卑劣さが話題になっていますが、先進国の加速器についての行動はそれにも勝る愚かとしか言いようがありません。

信じるものは救われるでしょうか。


>ノンリターンリバー、戻れない川、三途の川、臨界点、ランナウエーなど危機的状況を示すことばはあります。しかし、明日からマイナス成長率にするという政治家が当選すると思いますか。我々が車を捨てることができますか。私はブレーキの利かない列車に乗っていると思います。

>そうした認識で議論をしたいと思います。

ブレーキの聞かない列車、降りようと思えばいつでも降りられますが、私は降りないことに決めました。もうしばらくお付き合いお願いいたします。

(2016.01.25 17:02:58)

Re[8]:大狂人(1)(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん
>CLG2009さん

>>人間の言語は、人類のアイデンティティーを進化させるためのものです。他の生命体の使う「言語」は、コミュニケーションのためだけであり、アイデンティティーは発達も伝達もされません。

>アイデンティティー=自己同一性=自分らしさ=自我=同一律の基づく自己認識でよいでしょうか。

この認識でいいと思いますが、人間の場合は進化するメカニズムを備えているということが重要です。まだこの部分をうまく説明できないでいます。


>同一律は古典論理の私は私である。つまりA=Aです。これは自己認識のもとになっているのですね。認識には記憶が必要ですね。何故なら認識とは差異の比較ですから。比較するためには記憶が必要です。記憶は宇宙の原理ですので人間固有のものではありません。そうすると、人間だけがアイデンティティーを持つ、更に進化させるというのは疑問になってきます。

宇宙離散化論では、物質のアイデンティティーから始まり、生命のアイデンティティーを経て、人類のアイデンティティーに至ります。ただ、物質のアイデンティティーというのは、それが「存在」することになります。生命の場合は、同じ形質のものが再生産できるということ、そして人間のアイデンティティーは、その頂点に位置するものです。私は、このような段階で考えています。

>その根拠を具体的に示します。自己の認識は免疫にもあります。免疫記憶というのもあります。免疫は人間だけでなく多細胞生物からあるようです。
>http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&amp;c=400&amp;m=41095
>免疫機構も進化してきたのですね。つまり、自己認識も進化してきたといえます。胎児は半自己というそうですよ。

免疫系は、自己をどう定義するかによって毒にもなるし薬にもなります。つまり、侵入者を破壊すると薬ですが、自己を敵として認識してしまうと毒になります。この点で、免疫は非常に面白いと思っています。生命のアイデンティティーを考察するときには免疫は欠かせないと思います。


>また自己同一性は個人らしさですからみな違うのですが、免疫においても、それはあります。HLA(自己証明のようなもの)は個体毎に違うようです。生物ごとに違うなら大変な数になりますね。人間の一卵双生児でもHLAは違います。

>以上から免役は自己認識の言語過程であり、自己を同一視する言語過程だといえるのではないでしょうか。決してコニュニケ―ションだけをしているのではありません。これをどう考えたりょいでしょうか。

コミュニケーションとインタラクションは微妙に違います。コミュニケーションには、個々の何らかの意志が有ることが前提です。伝える主体と、それを認知する主体が必要であるからです。

しかし、物質や生命のアイデンティティーの場合、コミュニケーションというよりはインタラクション(相互作用)の域にとどまっています。しかし、相互作用有る事自体、アイデンティティーの芽生えだと思っています。ただ、物質や生命にアイデンティティーとという心理学の用語を使うとうまく行かないということがあります。そこで記憶を使おうと思ったのですが、これもなかなかうまくいきません。記憶が離散化により進化するという説明を「単語」を使って行うことの限界を感じています。でも少しずつですが、形になっている気はします。



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(2016.01.25 17:25:44)

Re[7]:大狂人(1)(01/18)   faractalemode さん
CLG2009さん

>ホフマイヤーの生命記号論を調べてみました。三項対立のことですが、言語はこれを基本にしています。英語を習った方なら誰でも聞いたことの有る、1/2/3人称は基本です。言い換えると、話者/対話者/第三者になります。


私が理解した三項とは、媒介:記号⇒意味ですが、確かにこの事例を見ると、http://mediaresearch.blog.jp/archives/1746314.html


医者:発疹⇒はしか


となっており、母親は発疹を見て病気ではないかと不安になって病院に連れてきたのですね。明らかに母親は子供を気遣う存在ですから対話者=二人称です。そして医者は発疹をはしかと断定する媒介者=第三者です。だから三人称です。では一人称は誰でしょう。それも明らかです。痛いよとかいう話し手、つまり子供自身です。


なるほどうまく解析できますね。


面白いのはこれが数学構造そのものなのですね。関数fはy=f(x)と表現しますが、これを


f:x⇒y


とすればよいのですね。関数は自動販売機ですから


自動販売機:お金⇒ジュース


という感じですね。一般化すると


システム:入力⇒出力


毎日使っている検索は述語論理ですが、これは


検索:キーワード⇒ヒットした情報


述語命題:私⇒神(これは野生の思考、気違い)


この論理はフレーゲの発明、それがいまは最先端です。


自己同一性はA=Aで、主語論理ですので、これは


主語命題:私⇒私


となり、自家撞着です。


これは言語の理解に使えそうですね。




>ヨーロッパの言語は、これに非常に忠実で人称が決まるのですが(英語では、I/You/Theyの人称代名詞)、日本語では基本的に三人称の(普通)名詞が多用されます。自分のことを示す単語は多岐にわたります。例えば、わたし、わたくし、ぼく、おれ、おいら、じぶん、小生、吾輩等々です。つまり、自分のことを指すのに、その場の状況等に応じて変えることができるのです。英語でも王様などの位の高い人の場合、対話者であっても失礼のないようにとの配慮から「Your Majesty」と三人称の名詞を使うこともあります。



医者:発疹⇒はしか


の例では


母親は


母親:発疹⇒?


子供は


子供:かゆいという内観⇒?


であり、まだ


医者:発疹⇒はしか


が完成していないのですね。


人称毎の自己認識があるということのようですね。まさ、大人と子供の違いといえばそれまでですがね。物心を知るというのは大人(三人称)になる記号過程なのですね。




>話が少し反れましたが、我々が「記号/シーニュ」と読んでいるものは、この人称の三項対立から生まれた「三人称の名詞」であると言えます。


完成された三項関係ですかね。自己同一性に於いては

完成された自己認識。


認識:自己⇒自己


>ソシュールが記号という概念を導入してから、記号に関する議論が盛んになりましたが、どれも記号を現象として捉えていて、その起源に関しては感心がありません。ソシュールは、記号学がこれからの新しい科学になるだろうと予言していましたが、彼自身、それがどのようなものになるのかは想像できていませんでした。私は今正にそれをしようと思っています。


期待しています。 (2016.01.25 19:08:37)

Re[7]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん
>>違いに目をつけることも重要ですが、その本質を浮き彫りにすることも必要ですよね。それに役立つのが位相幾何学です。



>相違点と相似点を使って、この世をカテゴライズするのが人間です。そのための記述を記録(記憶)するための道具が言語なのです。記号は、記憶を想起するための「きっかけ/ヒント」です。




そういえば、易経の卦は記憶を想起するヒントだという話を聞いたことがあります。



>手話も「記憶の固定」のためのものです。手話の便利なところは、例えば「果物をもぎ取る」という動作がそのまま「サイン」として固定できるということです。しかし、一旦「サイン化」すると、それから他の物への応用の聞く「汎用性」を発揮するようになります。しかし、液体を撮ろうとする時は「もぎ取る」動作は使えません。水は木には成っていないからです。そうすると別のサインが必要になってきます。ここでおっしゃる通り「無言」の自己との対話が必要になります。そして新しいサインを生み出す原動力なるわけです。


水を掬うですね。


手は述語の開発かもしれませんね。主語の同一性より述語の同一性ではないでしょうか。


ここで、観音を思い出しました。何故、音を見ろというのでしょうか。ここに仏教に真理が隠されていると思うのですね。しかし色々と調べましたが、全く手応えがありません。無音の音楽(4分33秒)が大きな話題を呈しましたが、これを無の音を聞けではなく、見ろと解釈するのは無理があるでしょう。しかし意外とそれがあたっているかもしれません。何故ならそれは自己同一性と関係していると思うからです。


古池やカエル飛び込む水の音。芭蕉の俳句ですね。これを観音の教えに従って解釈すると、古池に飛び込むカエルのその瞬間を観よとなります。ここで芭蕉とカエルと音の三項関係を考えてみます。


芭蕉:音⇒カエル


ここでカエルと芭蕉の間は距離があります。それが音によって繋がっています。これは主体(芭蕉)の自己が同一性を確保しているということです。しかし、この俳句はそのようなことを表現したのではありません。自己没入です。芭蕉は自分がカエルと一体となってしまったということを謡いたかったのです。音を聞くのではなく見る。見ることでカエルと一体となる。見ることで距離がななくなる。ですから述語の同一性です。


主語の同一性を述語の同一性に変換せよというのが、観音の教えなのではないでしょうか。


手話こそが無音の言語だということを知って初めて観音の謎が解けた気がします。これもこじつけでしょうか。


>手話も含めて言語は、あくまで「種としての人類のアイデンティティーの進化」のためのものです。これを、我々一人一人の人間が日常的に使っているのです。このため、根本的な部分と日常的な部分をきちんと分けて考える必要があると思います。今まで、フランス人と言語について議論したことがありますが、私が考える「種としての人類のアイデンティティーの進化」が理解できていないために、いつも議論が平行線でした。これをよりわかりやすく伝えるのが今の私の課題です。


このアイデンティティーが主語の同一化なのか、述語の同一化なのかがポイントになるような気がします。西田幾太郎の即非の論理というのは後者だと思います。まあ、禅を論理化したのですから当然ですけどね。 (2016.01.25 19:13:51)

Re[8]:大狂人(1)(01/18)   CLG2009 さん
faractalemodeさん

>私が理解した三項とは、媒介:記号⇒意味ですが、確かにこの事例を見ると、http://mediaresearch.blog.jp/archives/1746314.html

>医者:発疹⇒はしか

>となっており、母親は発疹を見て病気ではないかと不安になって病院に連れてきたのですね。明らかに母親は子供を気遣う存在ですから対話者=二人称です。そして医者は発疹をはしかと断定する媒介者=第三者です。だから三人称です。では一人称は誰でしょう。それも明らかです。痛いよとかいう話し手、つまり子供自身です。

以前に、医者の診察で気がついたことが有るのですが、診察するのに「主語」が必要ないということです。つまり、患者がいて医者がいるのですから、痛みや身体の異常を訴えるのは患者であって、医者はそれを聞くだけです。フランス語や英語では、医者が患者に聞くときには、2人称の代名詞「Vous/You」が必ず必要になりますが、日本語では省略できます。



>人称毎の自己認識があるということのようですね。まさ、大人と子供の違いといえばそれまでですがね。物心を知るというのは大人(三人称)になる記号過程なのですね。

私は、自分のことをずっと「なおちゃん」と三人称で呼んでいました。ところが、ある日突然、これが「子供っぽい」ことに気がついてしまったのです。この時の恥ずかしさと言ったら今でもよく覚えています。それから「僕」を使うことを意識的に始めました。私の子供時代の言語に関する強烈な記憶の一つです。



>完成された三項関係ですかね。自己同一性に於いては

>完成された自己認識。

>認識:自己⇒自己

自己を認識するということは、自分を覚えていて、それを継続的に認識すると異うことに必然的になります。このオペレーションがあるということが記憶やアイデンティティーの基本になります。




(2016.01.26 06:35:32)

Re[8]:大狂人(1)(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん

>手は述語の開発かもしれませんね。主語の同一性より述語の同一性ではないでしょうか。

手話の場合、話す本人がシニフィアンになるために、自分のことを話す時は特に「自分」を指す必要がないのです。しかし、他人のことを話す場合は、客観的にサインを連続することもできますが、本人になりきることもできます。パントマイムをそのまま話に導入できるわけです。この違いは、大きいと思います。述語の方にポイントがあるというのは手話には十分通じるかも知れません。

私がフランス語の通訳をする上での経験です。フランス語には女性形があります。例えば日本人男性は「ジャポネ」で日本人女性は「ジャポネーズ」です。私が日本人の方の通訳をする場合、私は男性ですが、女性の立場をそのまま使って「私はジャポネーズ」と訳します。自分で訳していてい一瞬変だと思うのですが、私は単にその方の声の代わりになっているだけですから、これで全然問題はありません。


>手話こそが無音の言語だということを知って初めて観音の謎が解けた気がします。これもこじつけでしょうか。

聾者の使う手話は確かに無音の言語です。耳がきこないことが前提だからです。ただ、彼らの世界を健聴者が本当に理解するには非常な困難が伴います。今まで音で思考してたものを視覚刺激(光による形や色、そしてその軌跡)を使って思考するのですが、これは想像を遥かに超える差です。私も本当に理解できているかどうかは自信はありませんが、大筋では理解出来ているつもりです。

もし、ご興味があったら手話のナチュラルアプローチという方法で手話に接してみることをお勧めします。日本語対応手話ではない日本手話を知って欲しいです。健聴者の人には、視覚的に思考できることに大きな喜びを見出す人もいます。これは一種感性の問題かも知れません。


>このアイデンティティーが主語の同一化なのか、述語の同一化なのかがポイントになるような気がします。西田幾太郎の即非の論理というのは後者だと思います。まあ、禅を論理化したのですから当然ですけどね。

西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」は、少し前に読みましたが、もうしばらくたってから再度読んでみようと思っています。


(2016.01.26 06:50:33)

Re[9]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん

前略
>それから「僕」を使うことを意識的に始めました。私の子供時代の言語に関する強烈な記憶の一つです。

人称と三項の記号過程を数学することができそうですね。幼児は先の見えない一人称で生まれ、母との二人称関係に入り、大人(三人称)になる。しかし、大人になってもこの関係は続きます。探求者・研究者・俗人など誰でも常に一人称に置かれるのですよね。人生は一寸先が闇ですから。それから二人称で対話して、研究論文や公的な立場で三人称で主張する。他者の引用などはすべて三人称化(他者の取り込み)ですね。そして日常(一人称)に戻る。

三項は三角形を成します。そして主体としての自己が存在します。これを三角錐とします。理想は正四面体ですが、現実は歪んだ四面体ですね。この頂点に主体を位置づけ、直交する垂直線を引き、それを時間=記憶軸とみなします。この四面体を回転させると記憶の螺旋駒となります。アイデンティテーの進化と解釈できます。

この解釈でよければ幾何学から代数の出番です。四元数ですね。三項を虚数ijkとして、主体を+1として、垂直線を進化軸とすると、ijk=-1という縛りだけで、あらゆる記号過程を説明できるのではないでしょうか。

数学的思考の良いところは、自然言語の思考では得られない飛躍した結論が得られるということですね。例えば、

+1(私)*i=iこれにi*j=k,更にk*k=-1(-私)となります。更に-1*i=-i,-i*j=-k,-k*k=+1(私)となります。

後は解釈するのみです。記号過程を無視すると

私⇒-私⇒私

-私を()に入れると私⇒私となって、自己同一律の数学となります。そうすると―私はなんでしょうか。私を私にする進化の重要なカギかもしれません。どんな解釈をするかは進化の研究と照らし合わせてやるべきですね。あまり酷いとそれこそこじつけになりますからね。しかし数学的な正しさは担保されてるわけですからあとは説明力です。

―の私とはラカン鏡像でしょうかね。梅園の反観の私でしょうか。少なくとも記憶を時間軸に保存して、らせん階段を上るように進化する自己同一性のダイナミックスを表現できているのではないかと思いますが如何でしょうか。

いくら瞑想をしても、負の私を媒介にして、自己を取り戻すというような発想は出てこないのではないでしょうか。これが言語を科学することの意味ではないでしょうか。

>自己を認識するということは、自分を覚えていて、それを継続的に認識すると異うことに必然的になります。このオペレーションがあるということが記憶やアイデンティティーの基本になります。


それを四面体の数学モデルで示したつもりですが、果たして使えるでしょうかね。具体的な例でやらないといけませんね。

自分を覚えるというのが負の私なのではないでしょうか。

動物にはそれがなさそうですしね。 (2016.01.26 10:12:22)

Re[9]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん

>述語の方にポイントがあるというのは手話には十分通じるかも知れません。

状況が分かっているときは主語は省略しますよね。ご飯を食べる。これを関数で表現すると、y=f(x)、fは食べる、x=目の前のリンゴ、yは食べられたリンゴですね。この場合も主語はないのですね。しかもxは変数ですので何でもよいわけです。fも様々に変化します。しかし、xの多さに比べればfは少ないです。特に動詞は少ないです。

ナチュラル・アプローチの言語の先天的能力は関数を内蔵していると言ことになりませんか。変数xは記憶でしょうから時間軸にあるということになります。y=f(x)を記号過程の表現に置き換えるとf:x→yですが、結局、すべてのfはxをyに写すという操作なわけですね。写すは移すですから、位相的には同型となります。後は使う人間は状況と文脈で使い分けていけばよいですよね。移植は移+植ですから二つの動詞(関数)が合成されたということになります。

つまり、全て運動=動詞述語は特に手と関係しているように思いますね。日本手話では手以外にも使うのですよね。

手が言語の起源なら猿人も手は使っていましたね。石器は作っていたようですし。しかし、猿人は握斧(ハンドアックス)はつくらなかったようです。握斧を作ったのは原人です。石器と握斧では天地の差があります。猿人と原人との間には、50〜9万年ぐらいの時間差があり、その間で握斧を作れる能力を獲得したことになります。しかし原人ははまだ話言葉を持っていなかったようです。

しかし肉を切り取るという言語過程はしていたわけです。それが猿人にはできなかった。その違いを知りたいですね。

いずれにしても猿人は石で木の実を叩き潰して、原人は握斧で肉を切るよ言う述語を使っていたということは明らかです。石と握斧では言語のレベルが違いますが、言語であることには違いありません。これが手話言語=述語論理の原点ではないでしょうか。

ナチュラル・アプローチがいう人間の言語の先天能力は手話言語=関数(述語)といえるのではいでしょうか。

>私がフランス語の通訳をする上での経験です。フランス語には女性形があります。例えば日本人男性は「ジャポネ」で日本人女性は「ジャポネーズ」です。
中略
>私は単にその方の声の代わりになっているだけですから、これで全然問題はありません。

相手の身になるというのは述語的自己同一かもしれませんね。野生の思考で明らかになったことはまさにそれだったのですね。私は速く走れる。馬は速い。だから私は馬である。と思考するのですね。これを三段論法の常識の世界に持ってくると「きちがい」にされます。私は神だということも可能だからです。しかし、関数はまさにこれです。


>聾者の使う手話は確かに無音の言語です。耳がきこないことが前提だからです。
中略
>これは想像を遥かに超える差です。私も本当に理解できているかどうかは自信はありませんが、大筋では理解出来ているつもりです。

海外ドラマを見ているとき音だけが聞こえますが迫力があります。意味は不明です。でも字幕があると意味が分かります。これを吹き替えで見ると迫力がなくなります。更に音がなくなったらどうなるのでしょうかね。今度消音にしてみてみたいと思います。

本を読むときは完全に消音状態ですよね。その分、行間を読む必要があるので想像力が働きますね。

>もし、ご興味があったら手話のナチュラルアプローチという方法で手話に接してみることをお勧めします。日本語対応手話ではない日本手話を知って欲しいです。健聴者の人には、視覚的に思考できることに大きな喜びを見出す人もいます。これは一種感性の問題かも知れません。

少しわかりました。更に学んでみたいと思います。野生の思考を知った時と同じ感動があるかもしれませんね。日本手話の中になにかがあるかも。

>西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」

思い付きなのですが、動詞の述語だけでは自己同一性の特徴である「らしさ」を表現できないように思います。何故なら動詞は数が少ないからです。属性の述語の方がらしさを表現できるのではないでしょうか。甘い、すっぱいなどですね。 (2016.01.26 15:12:57)

Re[10]:大狂人(1)(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん
ともちゃんさん

今、密かな感動に身を委ねています。

私が考えていたことが数学的に数式に置き換えることができるかもしれないという感動です。しかし「ぬかよろこび」になる可能性もあるので「密かに」なのです。これはfractalemodeさんの記述への批判ではなく、今まで自分が発見してきたこと全てに対して、最初は必ず猜疑心を持って受け入れることにしているからです。そして時間が経ち、いろんな思考の上に今までも新しい考えが「いける」という自信に変わるまで待つことにしています。

三項対立というのは「入れ子構造」です。これは言語学で言うところの「再帰性/リカージョン」です。


>人称と三項の記号過程を数学することができそうですね。幼児は先の見えない一人称で生まれ、母との二人称関係に入り、大人(三人称)になる。しかし、大人になってもこの関係は続きます。探求者・研究者・俗人など誰でも常に一人称に置かれるのですよね。人生は一寸先が闇ですから。それから二人称で対話して、研究論文や公的な立場で三人称で主張する。他者の引用などはすべて三人称化(他者の取り込み)ですね。そして日常(一人称)に戻る。

人間の人生は、123人称の間を言ったり来たりすることです。これは動物にはできないのです。相手のことはわかっても、第三者的な思考には達することがありません。

チンパンジーの手話教育実験では、チンパンジーは自分がどうやって食べ物を入手するかという大命題があり、このためだけに手話を駆使するという結論に達しています。


>私⇒-私⇒私

>-私を()に入れると私⇒私となって、自己同一律の数学となります。そうすると―私はなんでしょうか。私を私にする進化の重要なカギかもしれません。どんな解釈をするかは進化の研究と照らし合わせてやるべきですね。あまり酷いとそれこそこじつけになりますからね。しかし数学的な正しさは担保されてるわけですからあとは説明力です。

結局は「私」というものが何なのか。それがテーマになります。

>―の私とはラカン鏡像でしょうかね。梅園の反観の私でしょうか。少なくとも記憶を時間軸に保存して、らせん階段を上るように進化する自己同一性のダイナミックスを表現できているのではないかと思いますが如何でしょうか。

このイメージでいいと私も思います。

>いくら瞑想をしても、負の私を媒介にして、自己を取り戻すというような発想は出てこないのではないでしょうか。これが言語を科学することの意味ではないでしょうか。

>>自己を認識するということは、自分を覚えていて、それを継続的に認識すると異うことに必然的になります。このオペレーションがあるということが記憶やアイデンティティーの基本になります。

「負の私」というのは確かに数学的には普通の発想ですね。でも、過去の自分は既に「負」なのか知れません。それを今現在「更新」することで「私」の維持が可能になる。こうしたらどうでしょう。


>自分を覚えるというのが負の私なのではないでしょうか。

>動物にはそれがなさそうですしね。

過去と未来ではベクトルの方向性が違います。これを「負」と表現できるかも知れません。
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(2016.01.26 18:27:37)

Re[10]:大狂人(1)(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん
ともちゃんさん

>つまり、全て運動=動詞述語は特に手と関係しているように思いますね。日本手話では手以外にも使うのですよね。

手話で重要なのは、手の形と動きの他に、顔の表情や向きがあります。基本的に下半身はパントマイム的要素を取り入れる時以外は使いません。つまり座っていても会話ができます。手話をビデオで撮影する時は、ほとんどの場合上半身だけであることでもお分かりいただけると思います。

顔の表情は、主に感情であったり、程度を表現するときのパラメータとして使われます。フランス手話を習い始めた時、「寒い」というサインの顔の表情ができなくて、先生にロボットみたいだと笑われたことがありました。日本人の表情ではフランス人には通用しなかった訳です。今は、多分日本人としては非常に表情豊かな人間になったと思います。多分それも手伝って、日本人に日本人だと思われないこともあったくらいですから。


>手が言語の起源なら猿人も手は使っていましたね。石器は作っていたようですし。しかし、猿人は握斧(ハンドアックス)はつくらなかったようです。握斧を作ったのは原人です。
>中略
>いずれにしても猿人は石で木の実を叩き潰して、原人は握斧で肉を切るよ言う述語を使っていたということは明らかです。石と握斧では言語のレベルが違いますが、言語であることには違いありません。これが手話言語=述語論理の原点ではないでしょうか。

京都大学霊長類センターの松沢先生の講義を受けたことがありますが、野生のチンパンジーの中には、大きな石を台にして、その上に硬いナッツを置き、別の手頃な石を持ってナッツを割るという「文化」をもっている群れがいるそうです。ところが、この文化の継承は、意識的になされることがなく、子供時代に大人のチンパンジーが実践しているのを見て「まねる」ことで習得していきます。だから、他の群れからお嫁入りした成人の雌のチンパンジーはこれができません。それに、身体にハンデがあって、その期間に模倣ができなかった個体も同様にマスターできません。しかし、この「入れ子構造」のアクションをチンパンジーも実行することが可能です。ただ、意識的に伝承されない。つまり自分たちがそれを「文化」だとは思っていないからでしょう。たまたま成功した個体がいて、それがまるで「自然環境の様に」群れの中で伝わっていく。非常に面白い観察です。


>相手の身になるというのは述語的自己同一かもしれませんね。野生の思考で明らかになったことはまさにそれだったのですね。私は速く走れる。馬は速い。だから私は馬である。と思考するのですね。これを三段論法の常識の世界に持ってくると「きちがい」にされます。私は神だということも可能だからです。しかし、関数はまさにこれです。

この一種の論理の飛躍が人間の想像力の源ですね。伝説はこうして作られたはずです。


>本を読むときは完全に消音状態ですよね。その分、行間を読む必要があるので想像力が働きますね。

日本人は無音が普通かも知れませんが、フランス人には小声で読む人がいます。日本人は漢字を視覚情報として受け取り、音に変換しなくても大丈夫ですが、フランス語の場合はそれがないので声にすることで意味をとっているのだと思います。


(2016.01.26 19:03:09)

Re[10]:大狂人(1)(01/18)   CLG2009 さん
fractalemodeさん
ともちゃんさん

>少しわかりました。更に学んでみたいと思います。野生の思考を知った時と同じ感動があるかもしれませんね。日本手話の中になにかがあるかも。

私は、ナチュラルアプローチを、これから言語学を目指す全ての人に経験してほしいと思っています。そして少なくとも「◯◯語対応手話」との違いを認識して、手話が「自然発生的言語」であるとの確信を得た状態で、他の言語の研究に入って欲しいです。言語学の改革ですね。


>思い付きなのですが、動詞の述語だけでは自己同一性の特徴である「らしさ」を表現できないように思います。何故なら動詞は数が少ないからです。属性の述語の方がらしさを表現できるのではないでしょうか。甘い、すっぱいなどですね。

手話の場合、述語は、動詞的、あるいは形容詞的、そして更に名詞的でもオーケーです。主体に対応する概念があれば十分だからです。

(日本語でも形容詞がそのまま動詞の様に述語になります。日本で「日本語対応手話」が広く使われているのには、日本語と自然手話の間で基本的な語順が共通しているからだと思います。私の友人で通訳の南るかさんは、「日本語対応手話」しかわからない人と、「日本語手話」を主に使う人両方に分かる手話表現ができる特殊能力を持った方です。ただ、これをするとすごく疲れるとおっしゃっています。)

しかし、聴覚発声言語をベースにした文法(特に品詞論)が頭にあると、動詞、名詞、形容詞という区別が生まれてしまいます。これは恣意的なカテゴリー分けであることを念頭に置いておいてください。手話をすると、こういうことも見えてきます。ただ、特にアメリカでは、どうしても英語(の文法)を中心に全ての言語記述が始まるので、手話を対象としているのに、聴覚発声言語である英語の研究から得られた枠組みを無理やり当てはめている場合があります。日本の手話研究も、アメリカでの「発表成果」を受けることが多いと思うので、この傾向があるかも知れません。フランスでの手話研究は、常に手話を独立した完成した言語として扱うので、こういう発想をすると笑われます。
(2016.01.26 19:05:58)

Re[11]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん
ともちゃんさん

前略
>これはfractalemodeさんの記述への批判ではなく、今まで自分が発見してきたこと全てに対して、最初は必ず猜疑心を持って受け入れることにしているからです。そして時間が経ち、いろんな思考の上に今までも新しい考えが「いける」という自信に変わるまで待つことにしています。

その方が無難ですね。

>三項対立というのは「入れ子構造」です。これは言語学で言うところの「再帰性/リカージョン」です。

三項を四面体として面点変換するとまた正四面体になります。
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-02/233.htm
正四面体の面を点に、点を面に変換します。これを続けると入れ子になります。曼荼羅ですね。

>人間の人生は、123人称の間を言ったり来たりすることです。これは動物にはできないのです。相手のことはわかっても、第三者的な思考には達することがありません。


クジラが我々は虐待されているなどと表現したらトンデモですね。それを代弁したのがアニメのもののけ姫かもしれませんね。

>チンパンジーの手話教育実験では、チンパンジーは自分がどうやって食べ物を入手するかという大命題があり、このためだけに手話を駆使するという結論に達しています。

手を使う、手の届くところに置くなどという動作に着目するのが私をはじめとする凡人ですが、それは手を駆使する手話なんだというところが逆転の発想ですね。手話は連鎖するのですから入れ子になりますね。

離散差異化:そこにある物⇒食べられると認識された物
引き寄せる:食べられると認識された物⇒入手した物
以下続く。

>>私⇒-私⇒私

>結局は「私」というものが何なのか。それがテーマになります。


>>―の私とはラカン鏡像でしょうかね。梅園の反観の私でしょうか。少なくとも記憶を時間軸に保存して、らせん階段を上るように進化する自己同一性のダイナミックスを表現できているのではないかと思いますが如何でしょうか。

>このイメージでいいと私も思います。


>「負の私」というのは確かに数学的には普通の発想ですね。でも、過去の自分は既に「負」なのか知れません。それを今現在「更新」することで「私」の維持が可能になる。こうしたらどうでしょう。

負というとあまり良いイメージはないですね。負の遺産・負の連鎖、負い目など。数学的には単なる記号なのですが、意味づけすると常識とのミスマッチが起きてしまいます。記号と意味の漂白が必要ですね。

キリシタンの弾圧に踏み絵をやりましたが、心理的自家撞着が人間の弱みかもしれませんね。日の丸を背負うと突然人が変わりますね。その結果、負ける。昨年の日韓のWBCです。

>>自分を覚えるというのが負の私なのではないでしょうか。
>>
>>動物にはそれがなさそうですしね。

>過去と未来ではベクトルの方向性が違います。これを「負」と表現できるかも知れません。

正と負は方向の違いと理解することでよいと思います。あまリ常識的な意味づけをしない方がよいと思います。メービウス構造の裏表ですね。面点変換はそのような意味を持っています。

ところがその先があります。メビウス構造は表と裏がひっくり返ってしまいますから、表も裏もなくなるのですね。つまり、方向付けができなくなってしまうのですね。これを自然言語で表現するとオカルトになります。∞をひっくり返すと1/∞=0になります。無限の彼方が今ここ(原点)になるのですからね。

言語の回帰性に於いて、そのようなことがあるでしょうか。自己言及のパラドックスになってしまいますよね。 (2016.01.27 08:14:36)

Re[11]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん
ともちゃんさん

>>つまり、全て運動=動詞述語は特に手と関係しているように思いますね。日本手話では手以外にも使うのですよね。

>手話で重要なのは、手の形と動きの他に、顔の表情や向きがあります。基本的に下半身はパントマイム的要素を取り入れる時以外は使いません。つまり座っていても会話ができます。手話をビデオで撮影する時は、ほとんどの場合上半身だけであることでもお分かりいただけると思います。

>顔の表情は、主に感情であったり、程度を表現するときのパラメータとして使われます。フランス手話を習い始めた時、「寒い」というサインの顔の表情ができなくて、先生にロボットみたいだと笑われたことがありました。日本人の表情ではフランス人には通用しなかった訳です。今は、多分日本人としては非常に表情豊かな人間になったと思います。多分それも手伝って、日本人に日本人だと思われないこともあったくらいですから。

能面はフランス人から見たらロボットに見えるのでしょうかね。日本でも能面みたい冷たいという俗的解釈ありますからね。

その反対もありますね。無表情だからこそ豊かであるというのが日本的文化ですね。能面の本来の意味はこちらですね。阿吽の呼吸とか。門前の小僧は習うより慣れろと言って言葉では理解するなとかが染みついていますね。だから国際舞台では自己主張が下手な日本人ということになりますが。

>京都大学霊長類センターの松沢先生の講義を受けたことがありますが、
中略
たまたま成功した個体がいて、それがまるで「自然環境の様に」群れの中で伝わっていく。非常に面白い観察です。

百匹目のサルという物語もありますね。

イモ洗い行動をするサルの数がある臨界値を越えるとその行動は 群れ全体にとどまらず, 隔絶した場所に棲息するといいます。

こちらの方はかなりオカルト的ですね。何故なら、お嫁入りもしないのに、遠く離れたところにこちらの経験が伝わると言っているのですからね。ある臨界値を越えると相転移するというのはありますね。しかし、時空を超えて転移するというのはどうでしょうか。

>>相手の身になるというのは述語的自己同一かもしれませんね。野生の思考で明らかになったことはまさにそれだったのですね。私は速く走れる。馬は速い。だから私は馬である。と思考するのですね。これを三段論法の常識の世界に持ってくると「きちがい」にされます。私は神だということも可能だからです。しかし、関数はまさにこれです。

>この一種の論理の飛躍が人間の想像力の源ですね。伝説はこうして作られたはずです。

コンピュータ言語は人工的言語ですが、二つの言語のタイプがあります。一つは手続き型、二つ目は関数型です。これを手話と比較すると、手続き型は日本語対応=主語論理=左脳型、関数型が日本手話=述語論理=右脳型ではないかと思うのですね。乱暴な対応かもしれませんが、人間の考える人工言語というのは、人間の内面の反映だとすると、手話、思考、脳の構造には双対性があるのかもしれませんね。


>>本を読むときは完全に消音状態ですよね。その分、行間を読む必要があるので想像力が働きますね。

>日本人は無音が普通かも知れませんが、フランス人には小声で読む人がいます。日本人は漢字を視覚情報として受け取り、音に変換しなくても大丈夫ですが、フランス語の場合はそれがないので声にすることで意味をとっているのだと思います。

ぶつぶつつぶやくのですか。内語とも違うのでしょうね。ツイッターは徹底して無音ですよね。これを読むときも呟くのでしょうかね。(^-^) (2016.01.27 09:01:23)

Re[11]:大狂人(1)(01/18)   fractalemode さん
CLG2009さん
ともちゃんさん

>私は、ナチュラルアプローチを、これから言語学を目指す全ての人に経験してほしいと思っています。そして少なくとも「◯◯語対応手話」との違いを認識して、手話が「自然発生的言語」であるとの確信を得た状態で、他の言語の研究に入って欲しいです。言語学の改革ですね。

やはり、私の理解できる世界の何かと対応させると分かりやすくなりそうな気がします。まだ、仮定にすぎませんが、一応おいておきます。

◯◯語対応手話=手続き型(命令型)言語=主語論理=オブジェクト指向

手話=自然発生的言語=関数型言語=述語論理=直観型

詳しくはもう少し学んでからにします。

>手話の場合、述語は、動詞的、あるいは形容詞的、そして更に名詞的でもオーケーです。主体に対応する概念があれば十分だからです。

車が走るは動詞が述語ですが、リンゴは赤いは赤いが述語ですね。正確には「このリンゴは赤いである」ですね。あいつは警察の犬だ。は名詞的ですかね。警察の犬のようだといっているのですね。○○のようだというのは換喩ですね。換喩を使うときは名詞的と言ってよいでしょうかね。それなら述語の同一視ですね。

>(日本語でも形容詞がそのまま動詞の様に述語になります。

「あの鹿は速く走る」というところを「あの鹿は速い」という。こんな感じでしょうか。

日本で「日本語対応手話」が広く使われているのには、日本語と自然手話の間で基本的な語順が共通しているからだと思います。私の友人で通訳の南るかさんは、「日本語対応手話」しかわからない人と、「日本語手話」を主に使う人両方に分かる手話表現ができる特殊能力を持った方です。ただ、これをするとすごく疲れるとおっしゃっています。)

何故でしょうね。

日本語対応というのは日本語の文法の準じる手話、日本手話は省略に多い、状況によって変幻自の日本語=手話と考えてよいですか。

例えば、「古池や蛙飛び込む水の音」は正確には、私(芭蕉が)古池に来たら、池の上で飛んでいるトンボを見つけそれを捕まえようとしてジャンプした。そうしたら、蛙が水の中に飛び込んだので、水の音が聞こえた。その一部始終を私は見た。

いや、

私(芭蕉が)古池に来たら、水の音が聞こえた。それは想像するに、池の上で飛んでいるトンボを見つけそれを捕まえようとしてジャンプした。そうしたら失敗したのだと思う。その結果、蛙が水の中に飛び込んだので、水の音が聞こえたのだ。

色々な解釈ができると思いますが、これと同じことが起きるから疲れるのでしょうか。

でも、俳句は手話でどう表現するのでしょうね。


>しかし、聴覚発声言語をベースにした文法(特に品詞論)が頭にあると、動詞、名詞、形容詞という区別が生まれてしまいます。これは恣意的なカテゴリー分けであることを念頭に置いておいてください。手話をすると、こういうことも見えてきます。ただ、特にアメリカでは、どうしても英語(の文法)を中心に全ての言語記述が始まるので、手話を対象としているのに、聴覚発声言語である英語の研究から得られた枠組みを無理やり当てはめている場合があります。日本の手話研究も、アメリカでの「発表成果」を受けることが多いと思うので、この傾向があるかも知れません。フランスでの手話研究は、常に手話を独立した完成した言語として扱うので、こういう発想をすると笑われます。

フランス人の方が柔軟ということでしょうか。日も柔軟だけれども、アメリカの影響を受けたので、日本手話と日本語対応に分かれてしまったという理解でよいでしょうか。

それは疲れますね。 (2016.01.27 10:02:22)


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