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カテゴリ:手話
佐野千遥教授の「人類史に於ける日本人,ユダヤ人の位置を言語科学から解明する!!!!!!スミルノフ学派DR佐野千遥」を読んだ。というか、ざっと目を通したと言ったほうがいいだろう。 私の感じとしては、様々な言語の特徴を調べ、それを話している人達の人種や地理政治学的知識を総合し(ムー大陸も出てくるのでオカルト情報も含めて)、佐野教授のインスピレーションで語るとこうなると言うことだろうか。 フランスにも、クロード・アジェージュという言語学者がいるのだが、彼は元々チュニジアとフランス人との間の生まれで、何ヶ国語かは分からないが、アラブ語を筆頭に幾つかのヨーロッパ言語を操り、世界中の言語の類型論にも詳しい。 ソシュールもインド=ヨーロッパ言語に関する論文を書いているから、世界の言語の類型論を研究するのはヨーロッパの伝統と行ってもいいのだが、ここに1つ大きな見落としがある。言わずもがな「手話」の存在である。 私が準備している言語理論には、まず最初に2つのタイプの言語しか存在しない。日本語やフランス語など、音声を使う「聴覚言語」と、手や身体のジェスチャーを使った手話、つまり「視覚言語」である。「視覚言語」というと、普通、文字も含むようであるが、私の言語理論では自分たちの身体以外の人工媒体(紙など)を通さずに使うことのできる「生理的な人間言語」を対象とする(「自然言語」は既に別の意味で使われているので却下)。 私が「聴覚言語」という用語を使うのは、日本語もフランス語も、我々は音声を聴くことによって、音素として認識しているからである。音声は発声することによって成立するが、音韻体系の構成員としての音素の認識はあくまで聴覚によるものである。 それで、早速ネットで「聴覚言語」というのを調べてみたのだが、全く検索に引っかからない。それで「視覚言語」を調べてみたら、ウィキペディアの記述に「音声言語は聴覚言語であるが、音声表出とリンクされる動作、表情の視覚情報と統合されて認識される」とあった。「聴覚言語」にリンクが貼ってあったので早速クリックすると、何と「ウィキペディアには現在この名前の項目はありません。」との文言の遭遇し、あっけなく撃沈。気を取り直してフランス語の「langue auditive」で検索するも結果は同じ。どうやら「聴覚言語」というのは、私の造語となってしまう可能性が高いということがわかった。 「音声言語」という場合、一般的には、英語では「Spoken language(話し言葉)」となり、これは「Written language(書き言葉)」と対をなす用語である。日本語で「音声言語」というと「聴覚」を使っている言葉という認識はあるが、この対としては「視覚言語の手話」は当たらない。「聴覚vs視覚」という対立は、一般的には「話し言葉vs書き言葉」という図式になってしまうことは、前々から認識してはいたが、あれから全く変わっていないという認識を新たにした。 結局、私が何をいいたいかというと、言語学を語ろうとしている学者たちが(多分、ほぼ)全て、「視覚言語」である「手話」を、「音声言語(本来は「聴覚言語」)」と対にして見るという視点が全くないということである。フランスにはパリ第8大学のCuxac(キュクサック)教授のおかげで、手話を独自の言語(聴覚言語と同じステータスを持つ言語)として見る流れがあるが、世界の中では絶対的に少数派である。 人間の言語の価値体系の座標を支えているのは「視覚と聴覚」であるという基本認識がなく、自分たちがよく知っている「聴覚言語」を唯一の言語として位置づけることで、言語の起源のストーリーは、視覚言語である手話を排除した形で進むことになる。この誤りから佐野教授も逃れられなかった。これに反論する人達は「ジェスチャー言語」を提唱しているが、これは「聴覚言語」を「音声言語」と呼んでいるのと同じ間違いを既に犯しているのと同じであり、手話が「視覚言語」であるという視点に立っている理論に私はまだ出会ったことはない。 (今、キュクサック教授の最近の動向を調べてみたが、どうも「視覚」ではなく「ジェスチャーの図像性」の迷路に陥ってしまったようである。) 私は人類の黎明期、視覚も聴覚も持っていた人間たちは、まず最初に視覚を使って言語を作ったとしか考えられない。これはソシュールのいう「シニフィアン(私の理論では「シニャン(Signant)」とし「意味」を排除)」が、聴覚を使った場合、一世代で実用に足るものができないということからである。視覚であれば、単に指を指しても自分の伝えたいものを示すこともできるし、当然「パントマイム」的に、ジェスチャーをして、対象物を「想起」させることが可能である。 これに対して聴覚言語の場合、コミュニケーションが成り立つ言語の域に達するためには、まずお互いに「同じ音素」を認識することが必要になるが、同じ音素を認識するかどうかの前に「コミュニケーションの用を足す」必要があるのであり、自分が考えている意味と音声が、お互いに同じであることを確認するのは指南の技である。 音声を聞いて、音素の確認をしている間に、ジェスチャーという視覚情報でコミュニケーションしたほうが早いに決まっている。 「視覚言語」の場合、人間が共通に持っている「身体的かつ運動性の特徴」の作る「静的かつ動的軌跡」という誰が見てもわかりやすい「視覚的座標体系」が始めから備わっているのである。ビデオカメラで手話をする人の体(上半身で十分)を撮影する場面を想像して欲しい。身体に大きな障害がある場合を覗いて、頭が一番上にあり、顔と身体が正面を向き、腕と手が動くことによって「静止画と動画という視覚的軌跡」がジェスチャーになるのである。(ビデオでは基本的に2次元であるが、身体の前後の向きがあることで3次元的な認識が可能になる。) 感情表現から、物や現象を表すのにも顔の表情を含めた「ジェスチャー」は非常に有効である。つまり、細かいことまでを表現しようとする場合、何の言語も知らず、ただ言語を発明する能力だけ持っていた黎明期の人間達は「視覚言語」を発明する方に流れたと考えるのは全く自然なことなのである。 (人類の黎明期、手話が主流であった時代、「聾者」は現在の「盲者」と似たような境遇似合っただろうと推測される。それが、その後の「聴覚言語」の発明と普及により、聾者と盲者の社会的地位が逆転したことは想像に難くない。) 視覚的なジェスチャーが「意味」を持つようになると、壁画などの視覚的記録にも「意味」が見出されるようになり、聴覚言語より先に象形文字などの「文字」が発明された可能性も高い。(ここで「意味」というのは、「認知」レベルでの話であり、言語とは切り離して考えないといけないのだが、これに関してはまた別に投稿したいと思う。) 文字は、「聴覚言語」をサポートする形で存在するが、その起源には聴覚言語が存在しなかった場合があるとしたら非常に面白いだろう。 佐野教授の自由奔放な「仮説」を読んで、私が感じていることをまとめてみた。ただ、私の考える「視覚言語(手話)先行説」なども仮説であり、実際は確認のしようがないが、言語が価値体系であるという認識が一般的になれば、論理的な発想であることが理解できると思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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