言語学を超えて(ソシュール記号学の新解釈)

2016/03/17(木)23:23

言語と集団的アイデンティティー。。。

アイデンティティー(41)

日本で普通「集団的アイデンティティー」というと「郷土愛」とか「愛国心」という言葉を発想する人が多いだろう。これは、日本語を話して、それが日本という国に結びつくという非常に簡単な構造になっているのが理由だろうが、世界でこういうのは逆に珍しい。フランス語を話しているからフランス人というのは当てはまらないし、英語に関してはもっと極端である。朝鮮語は、南北にわかれているし、中国にも朝鮮民族がいる。 「アイデンティティー」を持つということは、他人と比較して、自分を優先して考えるということである。自分が生きたい、自分がいい思いをしたいという基準で行動が律される。しかし、そうなって全ての他人が敵になるわけではない。ここに「集団的アイデンティティー」が生まれるからである。 まず自分のアイデンティティー、つまり「個人的アイデンティティー」を確立した時、「集団的アイデンティティー」の及ぶ範囲は、まず家族であり、同じ界隈に住む住人である。そして、自分の使う言葉が通じる地理的人的範囲が、その人間の集団的アイデンティティーの及ぶところとなる。しかし、単に同じ言葉を使うことだけでは、同じアイデンティティーを持てなくなる。「政治的アイデンティティー」が発生するからである。 記憶言語学では、言語というのは「個人的/集団的アイデンティティー」を確立するものだとするが、日本語が日本を作るというような単純なものではない。特に「集団的アイデンティティー」に関しては、言語が重要な媒体であるが、その言語で表現される、文化や歴史、そして社会制度や法律などに至るまでの全てが「集団の記憶」が関わってくるのであり、それを受け入れ実行するのが「集団的アイデンティティー」なのである。 今の言語学は「文法言語学」である。将来、「アイデンティティーの言語学」が確立した時、一体言語学者は何を研究するようになるのだろうか。文法学を切り離し、全く別物としてやっていく必要があるのか。 その時、言語の特異性をどう説明するかというのも問題になる。いわゆる国民性を科学することができるかということである。例えば、日本語のもつ可能性をどのように説明したらいいのか、今後の課題になるだろう。

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