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カテゴリ:二人称の言語学
David Chalmers 氏の講演に関することの続き。。。
彼は、科学は客観的だが、意識は主観的であり、元々科学は客観的なものであるから、意識を科学することはできないという人もいると言っている。 彼自身は、こういう見方に反して、なんとか意識を科学しようとしているのだが、主観/客観という二元論に囚われている限り、多分無理だろう。 彼に絶対的に足りないものは、言語のメカニズムの理解だ。今現在、言語の本質を理解している言語学者は世界にいないので無理もないことであるが、彼の講演を見ても、言語学に関する言及は皆無だ。他の、インタビューや議論の動画を見たりすると言語に関する発言もあるが、言語=コミュニケーションの道具である、という典型的な見方をそのまま踏襲している。 このブログでは「二人称の科学」を提唱しているが、これは主観的/客観的という二元論の裏に、二人称という存在が隠されているということを意味する。 つまり、三人称に行き着く前には、(一人称/二人称)という、互いに視点を交換できるという関係があり、これを拡大すると[(一人称/二人称)/三人称]という関係になるのだが、二元論に収めることが好きな人間は、この関係式から二人称を消去して、(一人称/三人称)という単純化した図式を作ってしまう。 二人称というのは「互いに視点を交換できるという関係」である。話し手と話し相手の関係では、自分と相手という関係が常に逆転する可能性を持っている。そして、自分が相手のように考えることができる。いわゆる「人の立場に立って考える」というやつだ。 これを言葉で表現しようとするとどうなるのかだが、今考えているのは、Inter-subjectivity(インター主観的)だ。ただうまい日本語訳が見つからない。 二人称は一人称と比べて、自分ではないものであり、一種「非主観的」と言えなくもないが、これも何か違う気がする。 今日はとにかく思いついたので投稿してみた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.07.19 23:38:38
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