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言語学を超えて(ソシュール記号学の新解釈)

言語学を超えて(ソシュール記号学の新解釈)

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《自己紹介》
佐藤直幹(さとうなおみき)と申します。令和二年で満54歳になります。丙午です。現在、フランスのパリ近郊在住で、翻訳を中心に仕事をしています。
nsato75@yahoo.fr

記憶による自己同一性進化論という、テーマに取り組んでいます。言語の本質を追い求めているうちに、人間とは何か、認知とは何か、生命とは何か、太陽系とは何か、時空間とは何か、物質とは何かという問いが生まれ、これらの根底に流れているが「記憶」という概念だと気がつきました。

ただ。ここでいう「記憶」の概念は、端的に言うと私の造語で、我々の知っている「記憶」をカバーしてますが、全く新しい概念で「すべての存在を生み出し、支え、進化させる」ものです。

記憶による自己同一性進化論は、今の科学の枠組みとは全く違うものになりますが、今の人類の知識を、新しい枠組みで捉え直すというプロセスと考えれば、矛盾は無いと思います。一言で言うと「科学のパラダイムシフト」を起こしたい訳です。

今は、ソシュールの記号学を「記憶による自己同一性進化論」という枠の中で再構築することを課題としています。ソシュールの「一般言語学講義」を再読しながら、記号学を新たなレベルに引き上げることを目標としています。


日本の大学では経済学を専攻しました。卒業後、金属素材メーカーに就職しましたが4年後の1995年に退職、直後にフランスに渡航し、言語学の勉強を始め今に至ります。一応フランスで修士と同等の免状(DEA)を取得していますが、博士論文は途中で断念しました。

高校三年のときにアメリカのイリノイ州に1年間のホームステイ留学、大学3年に上がる前に韓国に一年間、語学留学していました。最近は大分忘れましたが、フランス手話もフランスで勉強し、私の言語理論の重要な支えになっています。

始めはフランス語で発信しようと思いましたが、フランス語の語彙の概念を借用しながら、日本語で書く事にしました。あまりネガティブなコメントにはおつきあい出来ないと思いますが、興味があれば読者の方々と色々とディスカッション出来ればと思います。

「日本人の為のフランス語自習室」というブログもあります。最近は更新していませんが、フランス語に興味の有る方は是非どうぞ。
http://francais75.exblog.jp/

趣味は折紙ですが,最近は半分プロとしてやっています。
折紙のバラが専門です。ここに作品を発表しています。ミクシーでは、もっと多くの作品を公開しています。ハンドルネームは「Mikki」
http://pliagedepapier.com/gallery/index.php?cat=11645

2015年8月に、「バラの折り紙 ROSE」という本が出版されました。
http://www.amazon.co.jp/バラの折り紙-1枚の紙から作る-佐藤直幹/dp/452905466

2018年1月27日に「美しいバラの折り紙」という本が出版されます。
https://www.amazon.co.jp/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E3%83%90%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%8A%98%E3%82%8A%E7%B4%99-%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%9B%B4%E5%B9%B9/dp/4529057674/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1516427564&sr=1-1&keywords=%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%9B%B4%E5%B9%B9

2019年9月24日にアメリカのTuttle社から「美しいバラの折り紙」の英語版「Naomiki Sato's Origami Roses, create lifelike roses and other blossoms」が出版されます。
https://www.tuttlepublishing.com/other/naomiki-satos-origami-roses


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2016.10.04
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カテゴリ:離散融合更新循環
このブログを始めて、一番伝わっていないと思っているのは、自分が感じている「記号の気持ち」である。

言語を構成している記号を使っているのは、人間という、物質かつ生命かつ認知単位であるのだが、記号というのは記憶言語という離散系の座標を構成しながら、同時に進化しながら、座標自体も進化させていく存在である。

私は「感覚的」に、この記号の動きを理解しているのだが、これを他人に説明するのは相当むずかしいことであることを感じるようになった。

なぜなら、そんなことを知らなくても、言葉を使えるようになってしまうからだ。記憶言語学を学んだら、何かが大きく変わるという特典がないのが弱点であるとさえ思うようになってきた。

しかし言語を理解することは、宇宙を理解することに通じる。これが感覚で分かれば、それを物質、生命、認知のレベルに適用して、それぞれの場でどのように「記憶記号」がうごめいているのかがわかるようになるだろう。

これが私の夢である。





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Last updated  2016.10.04 05:07:51
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記憶と記録   ともちゃん さん
佐藤さん
 
『2016.10.04
このブログを始めて、一番伝わっていないと思っているのは、自分が感じている「記号の気持ち」である』

まさに、ここでしょうね!
普通、「記号の気持」などと言うと、
誰もが「文学の世界」と感じます。
私も、それ以外に考えようがありません。

普通は、「記憶/記号」ではなく、「記録/記号」なのです。
つまり「記号」とは、「記憶」ではなく「記録」なのです。
この常識を,どのように覆(くつがえ)すのか?
そこに、佐藤さんの全てがかかっています。
(2016.10.04 10:40:45)

記憶と記録   ともちゃん さん
佐藤さん
 
『2016.10.04
このブログを始めて、一番伝わっていないと思っているのは、自分が感じている「記号の気持ち」である』

まさに、ここでしょうね!
普通、「記号の気持」などと言うと、
誰もが「文学の世界」と感じます。
私も、それ以外に考えようがありません。

普通は、「記憶/記号」ではなく、「記録/記号」なのです。
つまり「記号」とは、「記憶」ではなく「記録」なのです。
この常識を,どのように覆(くつがえ)すのか?
そこに、佐藤さんの全てがかかっています。 (2016.10.04 10:41:28)

先へ進むな   ともちゃん さん
佐藤さん

『2016.10.04
私は「感覚的」に、この記号の動きを理解しているのだが、
これを他人に説明するのは相当むずかしいことであることを
感じるようになった。

しかし言語を理解することは、宇宙を理解することに通じる。これが感覚で分かれば、
それを物質、生命、認知のレベルに適用して、
それぞれの場でどのように「記憶記号」が
うごめいているのかが,わかるようになるだろう』

何度も同じ事を言いますが、私の見解としては、
佐藤さんが「感覚的」に理解したモノを
他人様に知って戴く事が、まず第一番だと思います。

「物質、生命、認知のレベルに適用する」ことは、
今の時点ではやめた方が良いと思います。

なぜならば、「物質、生命、認知のレベル」の事は、
佐藤さん自体が、まだ理解されていないと思います。
だから、あちらこちらに矛盾点が出て来ます。

なぜならばこれは、自分自身をモルモットにして
自分だけで理解したものではないからなのです。
アカデミズムの科学をあちらこちらに取り入れ、
ツギハギだらけの理論のように見えます。
だから、あちらこちらに、ほころびが見えるのです。

しかし、
「私は『感覚的』に、この記号の動きを理解している」
と言うのは、佐藤さん独自の体験です。

これを他人様の説明出来ないのなら、
先へ進んだら、ますます混乱してくると思います。
(2016.10.04 15:47:49)

Re:記憶と記録(10/04)   佐藤直幹 さん
ともちゃんさん
 
>『2016.10.04
>このブログを始めて、一番伝わっていないと思っているのは、自分が感じている「記号の気持ち」である』

>まさに、ここでしょうね!
>普通、「記号の気持」などと言うと、
>誰もが「文学の世界」と感じます。
>私も、それ以外に考えようがありません。

>普通は、「記憶/記号」ではなく、「記録/記号」なのです。
>つまり「記号」とは、「記憶」ではなく「記録」なのです。
>この常識を,どのように覆(くつがえ)すのか?
>そこに、佐藤さんの全てがかかっています。


ご指摘ありがとうございます。普通は「記録/記号」であって「記憶/記号」ではない。その通りですね。記録は人間の視点で、記憶は記憶の視点です。

のべつ幕なしに淡々と一方方向にしか流れない物理的刺激を、知覚という「記憶器官」に変換後、それを時間の軸に沿って分節化(二極化/離散化)して、最終的に、シニフィアンとシニフィエという座標化するということが言語という現象なのですが、「記号の気持ち」というのは、この二極化/離散化したことにより、相似相違体となり、互いのコミュニケーションが始まったと言えます。コミュニケーションということは、お互いを意識しているということです。くっつき、離れ、そして融合して新しいものになる。

私は、この結論に達するまでに何年もかかりました。これをもう少しわかりやすい形で説明する必要がありそうですね。 (2016.10.04 16:11:43)

Re:先へ進むな(10/04)   佐藤直幹 さん
ともちゃんさん

>何度も同じ事を言いますが、私の見解としては、
>佐藤さんが「感覚的」に理解したモノを
>他人様に知って戴く事が、まず第一番だと思います。

>「物質、生命、認知のレベルに適用する」ことは、
>今の時点ではやめた方が良いと思います。

その先があることを信じてやっているわけですが、まずは地固めが必要ということでうね。

>なぜならば、「物質、生命、認知のレベル」の事は、
>佐藤さん自体が、まだ理解されていないと思います。
>だから、あちらこちらに矛盾点が出て来ます。

>なぜならばこれは、自分自身をモルモットにして
>自分だけで理解したものではないからなのです。
>アカデミズムの科学をあちらこちらに取り入れ、
>ツギハギだらけの理論のように見えます。
>だから、あちらこちらに、ほころびが見えるのです。

>しかし、
>「私は『感覚的』に、この記号の動きを理解している」
>と言うのは、佐藤さん独自の体験です。

>これを他人様の説明出来ないのなら、
>先へ進んだら、ますます混乱してくると思います。

私の理解していなかった時期の記憶をたどって、ビフォーアフターを提示してみたいと思います。
(2016.10.04 16:28:34)

ラングとランガ―ジュ(1)   ともちゃん さん
佐藤さん

言語学が、「音声の学問」で有ると言う事を
理解されてない人が多いみたいです。
私も数年前に、『文字の世界史』(ルイ=ジャン・カルヴェ)を読んだ時に戸惑(とまど)いました。

『文字は言語に系属(けいぞく)しており、
言語に特有な欠陥(けっかん)、
つまり言語の消えやすさを、文字が補っており・・・・・』

この文章を読んだ時、欧米の学者の間では、
文字は言語には入らないと言う事を知りました。
あるいは文字は、音声言語に付属するモノと考えられていると言うべきでしょうか?

私は、「音声言語」と「文字言語」を
便宜上(べんぎじょう)、分けて使っています。
しかし、西洋のアカデミズムでは、「言語」とは、
「音声言語」の事であり、「文字言語」は、
「音声言語」の付属品なのでしょうね。

日本人である私は、「言語学」とは、
「文字」の研究だとばかり思っていました。
これは一つに、
日本人が「漢字」を使うからではないかと思います。

漢字は象形文字です。形が意味を現しています。
だから漢字は、読めなくても
意味が解ってしまうと言う要素を持っています。
つまり漢字では、「読む」以前に意味が確定しているのです。

「非常出口」「トイレの男女マーク」「交通標識」。
我々は、正確な読み方を知りません。
しかし、確実に意味は理解できます。

この様な感じで、漢字優先社会では、
まず「文字」と言う基本があって、その後におしゃべり、
つまりパロールが付いて来ると言う印象なのだと思います。

「文字で書かれた文章」と言う、「規範(きはん)」がまず存在する。
その「規範(きはん)」に沿(そ)って、各個人が思い思いに、
「話し言葉」つまり音声言語を操(あやつ)っている。
日本人の「言語感覚」は、こんな感じではないかと思います。
つまり「日本語の文章」は、ソシュールが言う所の
ラングの様な役割をしている様な印象を受けるのです。

日常会話がいい加減なモノであるという事は、
「(ら)抜き言葉」の例からも解ります。
「食べれる」「見れる」は(ら)抜き言葉です。
正しくは、「食べられる」「見られる」と言わなくてはなりません。

この場合「(ら)抜き言葉」を使うのは日常会話です。
しかし新聞や書籍などの「書かれた文章」は、
アカデミズム指定の公式文章で書かれています。

こう言う所からも私は、書かれた文章は
正式な文章であると言う印象を持っていました。
そして、我々の使うおしゃべり文章(パロール)は、
間違いの多い、いい加減な文章である。
こう言うイメージが、私の頭の中に,
出来上がっていたのではないかと思います。

ソシュールの言うパロールは、
以上の説明で間違いありませんね。
(続く)
(2016.10.06 15:38:34)

ラングとランガ―ジュ(2)   ともちゃん さん
(続き)

それでは、「ラング」とは何か?
「文字言語」も「音声言語」も、含めたパロール。
そのパロールを操る個人は、
頭の中に「ラング」を持っていなければ成りません。

私は大阪弁の「ラング」を持っています。
だから、綺麗な大阪弁が話せます。
しかし、沖縄弁の「ラング」は、もっていません。
だから沖縄語は理解できません。

東北弁やアイヌ語の「ラング」も、持っていません。
だから、彼らが「標準語の知識」を無視して、
東北弁やアイヌ語の「ラング」で話したら、
私は、全く理解できないと思います。

明治時代の人間の「ラング」と、これから何年か先、
私の孫の時代に使われる「ラング」では、
その内容は、だいぶ違います。
年代がたつにしたがい、「ラング」も変化してしまい、
ついには言葉が通じなくなってしまいます。

学校で習う古文は、平安時代の文章です。
文章(文字言語)は変化しないのです。
しかし音声言語は、私の子供の頃から比べても、
かなり変化して来ました。
「(ら)抜き言葉」が市民権を得たと言うのも、その証拠です。

変化し易い「音声言語」。
変化しにくい「文字言語」。
この様な所にも、「音声言語」はパロール的。
文字言語はラング的。
この様な、錯覚を起こしやすい要因があるのだと思います。

ラングは時代によって変化します。
しかし「ランガ―ジュ」は、変化しません。
ランガ―ジュを日本語に翻訳しますと、「言語能力」と成ります。

ラングやパロールを生み出すのがランガ―ジュです。
人間は、先天的にランガ―ジュ(言語能力)を持って生れて来ます。
チョムスキーは、ランガージュの事を、生成文法、
あるいは普遍文法と言っているのではありませんか?

私は、まだチョムスキーを読んでいません。
だからよく解りませんが、チョムスキーは、
ソシュールの「ランガ―ジュ」を
引き継いで研究して行ったのではないかと思います。

それでは佐藤さんは、ソシュールの何を引き継いだのか?
これも、「ランガ―ジュ(言語能力)」だと思います。
ソシュールの言うランガ―ジュとは、
佐藤さんの言う「離散融合更新循環」である。
こう言う事なのではありませんか?

私の解釈と、佐藤さんの解釈に違いがあれば、
ご指摘戴(いただ)ければ幸甚(こうじん)です。

アカデミズム、つまり今までの人類の成果を
踏み台として語って頂かなければ私は、何も理解出来ません。
宜しくお願い致します。
(2016.10.06 15:45:04)

Re:ラングとランガ―ジュ(2)(10/04)   fractalemode さん
ともちゃんさん

私も余りはよく理解していないですが、ともちゃんさんの解釈と同じほぼ理解です。

チョムスキーは見えないもの、ソシュールは見えるものに挑戦したということではないでしょうか。
(2016.10.06 19:39:27)

二重分節   ともちゃん さん
佐藤さん

「二重分節」に付いて日本人に説明したいと考えています。
教育関係者が多いのですが、皆さん70前後のお年寄りです。
あまり、難しい話は理解出来ません。
そこで、私は以下のように説明します。

言葉は、二段階の文節から出来ている。
第一段階として、これ以上分解したら、
「意味」が無くなるまで、文章を分解する。

「私は家でサラダを食べた」は、
「私/は/家/で/サラダ/を/食べ/た」
と言う様に、「形態素」に分解出来ます。

たとえば「サラダ」と言う単語は、
これ以上分解すると「意味」を失います。
「サ」も「ラ」も「ダ」も、単なる音であり、
「意味」は全く持っていません。
これを「第1次分節」と言います。

そして、
私・・・・・・・「わ」と「た」と「し」
サラダ・・・・・「サ」と「ラ」と「ダ」
家・・・・・・・「い」と「え」
この様に分ける事を、「第二次分節」と言います。
これで、どうでしょうか?

「わ」と「た」と「し」は、「wa」「ta」「si」と言う様に「w」「a」「t」「a」「s」「i」と分ける事が出来ると言う考え方もあるようです。

しかし、日本語は「モ―ラ」で出来ています。
「わ」が最初の単位であって
「w」と「a」に分けてしまうと、もう「音素」では無くなります。
なぜならば「音素」とは、日本語の場合、
日本人が認識できる「声」だからです。

外人は「w」と「a」を分けて聞く事が出来ます。
なぜならば、彼等は「子音」を聞く耳を持っているからです。
しかし日本人は、「子音」を聞く耳を持っていません。
したがって「w」は、もう「声」では無いのです。

日本語の「音素」は
「50音+ん+濁音+清音+幼音」である。
この様に説明したいと思うのですが、いかがでしょうか?
何か、問題点があれば、コメントを戴ければ幸甚です。
(2016.10.06 23:35:10)

Re:二重分節(10/04)   佐藤直幹 さん
ともちゃんさん

>「わ」と「た」と「し」は、「wa」「ta」「si」と言う様に「w」「a」「t」「a」「s」「i」と分ける事が出来ると言う考え方もあるようです。

>しかし、日本語は「モ―ラ」で出来ています。
>「わ」が最初の単位であって
>「w」と「a」に分けてしまうと、もう「音素」では無くなります。
>なぜならば「音素」とは、日本語の場合、
>日本人が認識できる「声」だからです。

これは日本人には適切な説明だと思います。日本人にはこれ以上小さい単位は見えてきません。ただ、五十音表のおかげで、子音と母音の組み合わせであることは頭で理解できます。

だから、日本語を英語で表記すると、本来なら違う音素になるだろう音が、1つの行に入ってしまいます。日本人には、すべて同じ子音に聞こえています。

sa / shi / su / se / so 「し」は、英語では「シュ」の音に近いです。

ta / chi / tsu / te / to  「ち」と「つ」は、英語では複合子音と呼ばれるもので、「t+シュ」や「t+ス」という扱いになります。


>外人は「w」と「a」を分けて聞く事が出来ます。
>なぜならば、彼等は「子音」を聞く耳を持っているからです。
>しかし日本人は、「子音」を聞く耳を持っていません。
>したがって「w」は、もう「声」では無いのです。

「声」とする発想は日本人にはわかりやすいと思います。つまり、英語の発音は日本人には全く聞こえないのです。今の英語教育は、このところが全く無視されていて、日本人も、子音や母音がわかるという前提から入っています。これでは何年やっても英語は身につかないでしょう。

後は、現地に行き、現地で言葉のシャワーを浴びて、その中から聴こえるように訓練することです。私も始めはそうでしたから。


>日本語の「音素」は
>「50音+ん+濁音+清音+幼音」である。
>この様に説明したいと思うのですが、いかがでしょうか?
>何か、問題点があれば、コメントを戴ければ幸甚です。

日本語には、伸ばす音「ー」と詰まる音「っ」があります。伸ばす音に関しては、モーラの単位は1つです。詰まる音ですが、「言った」と「居た」では、やはりモーラの数が違います。

拗音ですが、「きゃ」は文字では2つですが、モーラ的には1つだと思います。昔、ちょうちょうを「てふてふ」と書いたように、日本人には拗音は前のモーラに吸収されます。


ただ、西洋音韻論ガチガチの人は、モーラが「音素」だとは認めないでしょうね。 (2016.10.07 01:47:29)

こばやし・さちっこ   ともちゃん さん
佐藤さん

明確な回答をありがとうございました。
以前、私がハングルを習っていた時の、
韓国人の先生の言葉が印象に残っています。

黒板に、生徒の名前を書いていました。
正確な名前は忘れましたが、
たとえば「小林幸子」の様な名前だったと思います。

これは、私には、
「こばやし・さちこ」とは読めないと仰っていました。
「こばやし・さちっこ」に聞こえる。
こう、おっしゃっているのです。

私は、外国人の耳の方が、
正確な音を捉(とら)えているのでないかと思いました。
つまり、外国人は「物理学的な音」を正確に捉えているのです。

なぜならば、彼等は「日本語のラング」を知らないからです。
しかし、「日本語のラング」を知っている私は、
曖昧(あいまい)な「音」を、自動的に「日本語のラング」で理解してしまうのだと思います。

これの逆が、チェ・ジュの発音でした。
「ミアナムニダー」と「ビアナムニダー」の発音の違いです。
彼女は、同じシーンで、二つの発音を使い分けていました。

これは、使い分けているのか?
あるいは、彼女の感情の高ぶりが、
「音」を二つに分けてしまうのか?
そこまでは、私には解りませんでした。

私は最初、彼女自身も、「ミ」と「ビ」の違いには
気づいていないのでないかと考えたのです。
しかし、佐藤さんのご指摘では、「ミ」と「ビ」は、
韓国人の許容範囲(きょよう・はんい)だと言う事でした。
つまり韓国人にも、チェ・ジュの「ミ」と「ビ」の発音の違いは、
解っているのです。

坂本九は、「上を向ういて、あーるこほほほ」
と歌っていました。
「歩こう」と言う発音を「歩こほ」と発音するのです。

和田アキコも、
「お」を「ほ」と発音する歌い方をする事があります。
しかし日本人にとっては、「お」と「ほ」は、
日本語では、別の「音」だと言う事が理解出来ます。

チェ・ジュの「ミ」と「ビ」の違いも、
坂本九や和田アキコの
「お」と「ほ」の違いの様なものかも知れません。

この場合、韓国人の映画ファンは、
「ミ」と「ビ」を使い分ける、
彼女のクセを知っている事に成ります。

この話しで私は、外国人の方が、
正しく「音」が聞こえると言う事を言いたかったのです。
なぜならば、外国人は、「その国のラング」を知らないからです。

だから、「その国のラング」に誤魔化(ごまか)される事がなく,
「正確な音」、つまり「物理的な音」を聞く事が出来るのだと思います。

「さ」「し」「す」「せ」「そ」は日本人には、
「sa」「si」「su」「se」「so」と聞こえます。
しかし、外国人が聞けば、「sa」「shi」「su」「se」「so」に聞こえます。

つまり日本人が聞く「si」よりも、外国人が聞く「shi」の方が、
物理学的には正しい「音」だと私は考えています。

「音声学」とは、客観的・物理学的に「声」を研究する学問です。
「音韻論」とは、その音を、その国の人間が、どのような
「その国の主観」で捉(とら)えているかと言う問題です。
「その国の主観」とは、「その国のラング」の事です。

私の頭の中にある「日本人のラング」で聞けば、小林幸子は、「こばやし・さちこ」に聞こえます。
しかし、「日本人のラング」を知らない、韓国人の耳には、
物理的な音がそのままに聞こえます。
それが「こばやし・さちっこ」という「音」です。

これが、「音声学」と「音韻論」の違いです。
そして「ラング」の説明方法です。

私は、言語学を知らない人に、
この様に解説しようと考えています。
問題点をご指摘戴ければ幸甚です。
宜しく、お願い致します。 (2016.10.07 14:38:52)

Re:こばやし・さちっこ(10/04)   佐藤直幹 さん
ともちゃんさん


>明確な回答をありがとうございました。
>以前、私がハングルを習っていた時の、
>韓国人の先生の言葉が印象に残っています。

>黒板に、生徒の名前を書いていました。
>正確な名前は忘れましたが、
>たとえば「小林幸子」の様な名前だったと思います。

>これは、私には、
>「こばやし・さちこ」とは読めないと仰っていました。
>「こばやし・さちっこ」に聞こえる。
>こう、おっしゃっているのです。

その通りです。朝鮮人は母音に挟まれた子音は「こばやし・さぢご」と濁ります。

だから、「私は韓国に行きます」が「私は監獄に行きます」になってしまう人がでてきます。この濁音化を避けるために注意すると子音を二つ重ねたような子音を持ってくるか、息を強く吐き出しす子音を使います。


>私は、外国人の耳の方が、
>正確な音を捉(とら)えているのでないかと思いました。
>つまり、外国人は「物理学的な音」を正確に捉えているのです。

これは違います。外国人は、自分が知っている言語の音韻体系を元に聞いているだけのです。音素には物理的な音を伴いますが、物理的な音素はありません。


>なぜならば、彼等は「日本語のラング」を知らないからです。
>しかし、「日本語のラング」を知っている私は、
>曖昧(あいまい)な「音」を、自動的に「日本語のラング」で理解してしまうのだと思います。

>これの逆が、チェ・ジュの発音でした。
>「ミアナムニダー」と「ビアナムニダー」の発音の違いです。
>彼女は、同じシーンで、二つの発音を使い分けていました。

確かに、彼女の「ビアネヨ」という発音はよく耳にしました。朝鮮語の場合、ま行とば行が、非常に近いのかも知れません。もしかしたら彼女だけの癖かも知れません。


>坂本九は、「上を向ういて、あーるこほほほ」
>と歌っていました。
>「歩こう」と言う発音を「歩こほ」と発音するのです。

私の祖父母は、私の名前を「なほみき」と書いていました。歴史的仮名遣いかなと思っていました。


>この話しで私は、外国人の方が、
>正しく「音」が聞こえると言う事を言いたかったのです。
>なぜならば、外国人は、「その国のラング」を知らないからです。

正しい発音はありません。全ての人間が自分の知っている言語を元に聞き取っています。


>だから、「その国のラング」に誤魔化(ごまか)される事がなく,
>「正確な音」、つまり「物理的な音」を聞く事が出来るのだと思います。

くり返します。正確な音も物理的な音もありません。これが音韻論の基本です。



>私は、言語学を知らない人に、
>この様に解説しようと考えています。
>問題点をご指摘戴ければ幸甚です。
>宜しく、お願い致します。
-----
(2016.10.08 03:58:12)

音韻論の主観性   ともちゃん さん
佐藤さん

『くり返します。
正確な音も物理的な音もありません。
これが音韻論の基本です。
(2016.10.08 03:58:12)』

明確な回答を、ありがとうございました。
私は、「音声学」と「音韻論」の違いが良く解りませんでした。
音韻論では「正確な音・物理的な音」は、存在しないと言う事ですね。

人間の口から出た「音」は、
それぞれの「民族」が持っている「ラング」、
つまり,その民族の「主観」によって、
その民族の「意識」の中で、
その民族独自の「音韻」として、解釈される訳ですね。

だから、「小林幸子」と言う物理的な音は、日本人の私には、「日本人のラング」で聞こえます。
韓国人であるハングルの先生には、
「韓国のラング」で聞こえます。
ただ、これだけの事ですね。

素人に説明する場合、ここで難しい問題が持ち上がります。
「物理的な音が存在しない」
これを素人に理解させる事が、物凄く難しいのです。

なぜならば、普通の人間は、「音」と言ったら、
まず、「物理的な音」をイメージしてしまうのです。

佐藤さんが言われる、「正確な音も物理的な音もありません」。
これを、素人にどう理解させるのか?
ここが、大問題だと思います。

専門的に、基礎から言語学を学ぶ人は、
実地で音韻論の研修をされています。
つまり、アフリカの奥地やブラジルの奥地へ行って、
現地人から直接に聞き取りをされています。

音声学に限って言えば、何らかの機械を使って、
騒音の研究をされている人もいます。
私の息子は、大学院でそんな研究をしていました。
つまり、騒音と同じ波長の音を出す事により、
騒音を消すと言うよな研究があるそうです。
これは、明らかに「物理的な音」の研究です。

この様に、「音」の現場を知っている人は、
「音声学」と「音韻論」を混同する事はありません。
しかし現場を知らない素人に、
これを理解させることは大変です。

私は、「音韻論と音声学の違い」を、
まず最初に、教えなければならないと考えています。

音韻論では、「客観的な音・物理的な音」は存在しない。
「客観的な音・物理的な音」は、音声学の研究分野である。
この事が、まず最初に解っていなければ、
先に進めないと思います。

佐藤さんが仰っている、
言語は、紙に書かれたモノで研究してはダメだ。
この考えも方も、音韻論は主観的な世界であると言う論理と
関係している様に思います。
(2016.10.08 14:14:04)

Re:音韻論の主観性(10/04)   佐藤直幹 さん
ともちゃんさん


>明確な回答を、ありがとうございました。
>私は、「音声学」と「音韻論」の違いが良く解りませんでした。
>音韻論では「正確な音・物理的な音」は、存在しないと言う事ですね。

音韻体系は離散系です。

これをどうやって説明するかですね。

でも具体的な例があって、それを皆が知っているという点では期待が持てます。

しかし、他の言語を引き合いに出しても説明がわからないという点は問題がありますが。



>専門的に、基礎から言語学を学ぶ人は、
>実地で音韻論の研修をされています。
>つまり、アフリカの奥地やブラジルの奥地へ行って、
>現地人から直接に聞き取りをされています。

>音声学に限って言えば、何らかの機械を使って、
>騒音の研究をされている人もいます。
>私の息子は、大学院でそんな研究をしていました。
>つまり、騒音と同じ波長の音を出す事により、
>騒音を消すと言うよな研究があるそうです。
>これは、明らかに「物理的な音」の研究です。

前に、こういう研究する人に聞いたら、国際音声記号を使うんだと言われたことがあります。彼にはそれから会っていません。今では、一端の言語学者になったようですが。



>私は、「音韻論と音声学の違い」を、
>まず最初に、教えなければならないと考えています。

>音韻論では、「客観的な音・物理的な音」は存在しない。
>「客観的な音・物理的な音」は、音声学の研究分野である。
>この事が、まず最初に解っていなければ、
>先に進めないと思います。

>佐藤さんが仰っている、
>言語は、紙に書かれたモノで研究してはダメだ。
>この考えも方も、音韻論は主観的な世界であると言う論理と
>関係している様に思います。

そうですね。主観的ではあるが、そこは離散系という本人にはコントロールできないもので決められている部分もあります。

紙というのと、国際音声記号ですね。


(2016.10.08 16:53:51)

宇宙論から言語学の世界へ   ともちゃん さん
佐藤さん
fractalemode さん

『紙というのと、国際音声記号ですね。
(2016.10.08 16:53:51)』

佐藤さんの主張は、「国際音声記号」つまり、
我々のよく知っている「発音記号」で、
言語学を研究する事が、間違っていると言う事ですね。
佐藤さんは、これだけを
「言語学の嘘」とおっしゃつている訳です。

『そうですね。主観的ではあるが、
そこは離散系という本人にはコントロールできないもので
決められている部分があります。
(2016.10.08 16:53:51)』

音韻論の世界は、主観的な世界である。
その主観世界の中で「離散融合更新循環」が働いている。
佐藤さんは、こうおっしゃっています。
これが、佐藤さんの原点です。
佐藤さんは、言語学に対して、
それ以外の事は、何もおっしゃっていません。

これから、議論するとしたら、ここしかありません。
これ以外は、佐藤さんの嫌いな哲学なのです。
幾らやっても答えが出ません。

ソシュールが「言語学」と言う、いい加減な学問を、
科学にまで整備しました。
佐藤さんの発想は、その流れの中にあると思います。

ソシュールが語らなかった事をカバーする為に、
その後いろんな学者が出て来ました。
マルチネ、デリダ、ラカン、チョムスキー。
佐藤さんは、この流れの中で、
自己の思想を発展させるべきだと思います。

進化論・宇宙論まで行きますと、
オカルト話みたいな印象を受けます。
つまり論証のしようがないのです。
佐藤さんは、言語学の発展の為に寄与されるべきだと、
私は思います。
(2016.10.08 20:07:38)

Re:宇宙論から言語学の世界へ(10/04)   佐藤直幹 さん
ともちゃんさん
fractalemode さん


>ソシュールが「言語学」と言う、いい加減な学問を、
>科学にまで整備しました。
>佐藤さんの発想は、その流れの中にあると思います。

本人が書いたのではないにしろ、インスピレーションを受けたのはソシュールの「一般言語学講義」です。

ただ、本人がどうしてそうしようとしたのかは伝わってきません。そして、形だけがひとり歩きしている気がします。例えば、記号とかシニフィアン/シニフィエを知っていることが言語学を知っていることと同義になっています。


>ソシュールが語らなかった事をカバーする為に、
>その後いろんな学者が出て来ました。
>マルチネ、デリダ、ラカン、チョムスキー。
>佐藤さんは、この流れの中で、
>自己の思想を発展させるべきだと思います。

それはするつもりはありません。彼らの議論をかじってはみましたが、全く自分の心に響かないのです。


>進化論・宇宙論まで行きますと、
>オカルト話みたいな印象を受けます。
>つまり論証のしようがないのです。
>佐藤さんは、言語学の発展の為に寄与されるべきだと、
>私は思います。

ここ数ヶ月の議論で、かなり自分の思っていることが整理されてきました。

そして、お二人が離散系ということを全く理解していないこともわかりました。

これを理解してもらうことが出発点になるかも知れません。かなり困難な道になりそうですが、読者ん中からでもわかる人が出てくれば幸いですね。


(2016.10.09 06:43:02)

Re:宇宙論から言語学の世界へ(10/04)   佐藤直幹 さん
ともちゃんさん
fractalemode さん


>進化論・宇宙論まで行きますと、
>オカルト話みたいな印象を受けます。
>つまり論証のしようがないのです。
>佐藤さんは、言語学の発展の為に寄与されるべきだと、
>私は思います。

ただ、問題は、何処かで記憶の進化という概念を導入するかです。私の出発点はやはり記憶であり記憶の進化です。そうすると、どうしても宇宙論と進化論を避けては通れないという現実があります。

人間の記憶をまず十分に吟味してから、リトルバンにまで遡るという手もありますが、今まで何度も挑戦してみて失敗しました。それでも、今なら少しはマシな説明ができるかも知れません。


(2016.10.09 07:19:30)


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