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カテゴリ:記憶言語学
インターネットの登場と普及により、報道とは事実を伝えるものという神話が崩れ去った。
今までは、メディアの垂れ流し状態であったのが、ネット上に書き込まれた記事に対して、実名や匿名で意見の書き込みができるようになったため、報道されない裏側の話が伝わるようになったのが大きいだろう。 そして今やネット民は日本のマスコミが、自分たちの思想に対して不都合な事実を「報道しない自由」を行使してきたことを知っている。10年くらいまでは考えられなかったことだ。 そして、もうひとつ、報道とは権力と対抗するものだという嘘も暴かれ始めている。 最近、映画俳優のメリル・ストリープ氏が、トランプ氏がニューヨークタイムズ紙の障害を持った記者の物まねをしたことを暗に批判するスピーチをしたが、私は彼女の言い分に100%賛成できない。 報道機関が、自分の思想や信念をもって権力と戦うという部分が、私には危険だと思うからだ。このような報道姿勢は意図的な世論操作という副作用を生み出す。日本の朝日新聞の慰安婦捏造記事を見れば一目瞭然だ。 しかし、ネットでの情報も、どこかのメディアが報道したことがベースになっていることが多い。つまり報道機関がなくなったらネット上の基本認識の成立も難 しくなるというのはある。そして、過去のことを知ろうとすると、やはり当時の報道やルポに頼らざるを得なくなる。端的に言って、報道が我々の「共通の記 憶」を形成するのに大きな役割を果たしているのは明らかである。 そして、歴史を紐解く場合、報道された情報が非常に重要になってくる。当時の人間が生きていない状況において、報道されたメディアの字面を追うことでしか、当時の状況を計り知るしかない:つまり、歴史にとって報道は欠かせない存在であるということである。 言ってみれば、報道というものは、人間の記憶合戦に過ぎないということになる。自分が重要だと思ったことを、自分が思った通りに書く。それが伝聞という性格がある限り、本当の事実であることはありえない。つまり、大なり小なり「嘘」が入っているということなのである。 報道と記憶をセットにして考えることによって、新しい報道倫理のようなものが生まれるかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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