|
カテゴリ:カテゴリ未分類
日本語は便利なもので、この3つのキーワード全てに「記」という漢字が使われている。
「記」というのは、「記す」という和語に該当する。つまり「痕跡を残す」ということだろう。つまり、時間の流れに朽ちること無く、存在させることである。「しるす」という言葉に相当するものとして、「刻む」を考えたこともある。 「記憶」とは、残された痕跡を憶えていること、そしてそれを思い出せること。 「記録」とは、形を与えて痕跡を残すこと。 そして「記号」とは、記憶を記録として残すための単位となる。(ここでは「離散差位」は、引っ込める) これに相当することを、今まで何度も色んな形で、このブログに記してきたのだが、ここで一番大切なのは、「記号」を人間は使って、記憶を記録しているが、それは、記号に「宇宙記憶」のもつメカニズムが宿っているからである。いわば、人間は「記号」を飼っているようなものである。「宇宙記憶」のもつ「離散融合更新循環」が「記号」の原動力となっている。 ただ、この記号は、それが発展した形の言語と大いに関係がある。基本のメカニズムは、全ての言語の記号に共通しているが、そこから引き出される個人個人の行動は、言語によって大きく異なる。日本人が日本人として行動するのは、日本語を話、日本文化を身につけているからである。 この点に置いて、人間の行動の指針を与える価値観を形成している言語の記号というのは、全く平等ではない。なぜなら、それにより選択される行動により、その個体とその集団の行く末が決まるからである。そして、今の行動は、そのまま過去の行動になり、全ての行動の結果は、言語や文化の中に蓄積されていく。 極論を言うと、例えば、現在独裁者が治めている国は、そこに住む人々が独裁者を生む精神的土壌を長年作り上げてきた結果であるということである。それを断ち切るのは、そこに住む人間たちにしかできない。独裁を逃れて他の国の人間となり幸せな生活を手に入れる選択肢もあるだろうが、逃げることができず残された民は、未来永劫そのサイクルに苦しむことになる。独裁者を追い出したところで、このサイクルを断ち切る意志がなければ、また新たな独裁者が生まれることになるだけである(中国、韓国、北朝鮮ウォッチをしていると、リアルタイムで観察できる)。 記憶言語学では、言語は不平等であるという結論に達するが、これは、現在の言語学とは真っ向から対立するものである。言語の間に貴賤はないというのが言語学の一般的な認識だからである。この点から言って、現在の言語学はとても左翼の影響が強いと言えるだろう。 しかし、言語が不平等であったとしても、今を生きる人間たちには平等に機会が与えられていると私は考える。独裁者に反抗すれば、即刻死刑という現実がある国もあるから、全く平等であるとは言い切れないが、言語に蓄積された民族の価値観を打ち破ることは、理論上は可能であるということである。しかし、中国や韓国、北朝鮮を見ていると、その意志はあまり見られないようである。中国では、反政府運動は確かにあるが、一部にとどまっている。それに韓国に関しては、今正に日帝時代の前に先祖返りしている真っ最中であり、北朝鮮に関しては、先祖帰りは遠の昔に終了し、さらなる強化が行なわれていると見るのが妥当である。 「人間は記号を飼っている」と「言語は平等ではない」は、記憶言語学を構築する上での柱となる考えである。文法研究に没頭する言語学は終わりを告げ、人類の現実と行く末を直視する言語学が必要になると私は考えている。記憶言語学がそういうインパクトを与えられるような理論になるように日々思索を続けている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.06.26 20:20:07
コメント(0) | コメントを書く |