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コメントをいつもいただくともちゃんさんから、わたしに複眼を持つように言われた。彼によると、私は片目でしか物事を見ていないから、立体像が結べていないということらしい。
そして私が「上から目線」で話を進めているということも指摘された。だが、これは正しい。私は、今科学者の誰もが興味を示さない言語のメカニズムの全貌解明に取り組んでいる。この視点で、例えば菅野氏の複雑系科学を見るとき、私の知っていることが考慮されていないことに一種のいら立ちさえ感じることがある。 本当なら、私が全てを書き換えればいいのだが、私には物理や生物の専門分野はわからない。しかし、そこに言語を司っているのと同じメカニズムがあることだけは確信がある。どちらにしろ、我々に科学や哲学を可能にしているのは言語であるから、言語のメカニズムが分かれば、科学や哲学の概念が変わるだろうことは予想できるだろうと思うのだが、どうもそうは簡単にはいかない。 今、私が考えているのは、自分が見ている言語の世界を他の人たちが想像しやすいように少し整理すること。科学的な説明にはならないが、私がどのような世界観を持っているかを示すこと。これを通して、新しい俯瞰の視点を共有できないかということである。 頑張ろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
佐藤さん
『今、私が考えているのは、自分が見ている言語の世界を 他の人たちが想像しやすいように少し整理すること。 科学的な説明にはならないが、 私が、どのような世界観を持っているかを示すこと。 これを通して、新しい俯瞰の視点を共有できないかということである』 言語には2つの用途があります。 1つ目は、思考の為の用途です。人間は言語で思考します。 これが言語を持たない動物の思考との大きな違いです。 言語には、もう1つ、コミュニケーションの為の用途があります。 1つ目の用途では、脳の中だけで言語を使います。 その為の言語使用では、普通は、文字に書き表す事がありません。 しかし例外として、日記やメモ帳があります。 日記では、他人に理解される言語を使う必要がありません。 むしろ、他人に見られてはマズい内容もあります。 たとえば、異性の名前などは、イニシャルで書く事が多いと思います。 日記とは、ある種の「お筆先」のようなモノです。 心の中の「想い」をダラダラと書いて行けば良いだけで、 他人に理解させる為の言語は必要ではありません。 『言語学の嘘』と言うブログの問題点は、佐藤さんの「お筆先」の部分と、 コミュニケーションの部分が分離されていない所だと想います。 佐藤さんは、自分の文章を整理したいと書いておられます。 その為には、「お筆先」の部分と「コミュニケーション」の部分を、 分離するべきだと想います。 「お筆先」は、他人に見えない形で筆記するべきだと想います。 何年も前に書いた「お筆先」は自分でも理解できない。 佐藤さんは、この様に仰有っています。 それを防ぐ為にも、記憶が新鮮な内に、 時々「お筆先」を「コミュニケーション言語」に変換して行く。 こう言う手続きを、されてはいかがでしょうか? 実は、私は「夢日記」成るモノを付けております。 もう10年近くになりますが、まだ一度も読み返しておりません。 夢の言葉と言うモノは、潜在意識から立ち登り来るものであり支離滅裂です。 これは、かなり「お筆先」に近いモノではないかと想います。 おそらく佐藤さんも、こんな感じで文章を書いておられるのだと想います。 佐藤さんの潜在意識から立ち上る「夢の言葉」である「お筆先」と、 それを「理性の目」でみる立場にいる佐藤さん。 ここには、二人の佐藤さんがいます。 二人目の佐藤さんを、宗教用語では審神者(さにわ)と呼びます。 佐藤さんは、我々の見えないところで、お筆先を書いて行く。 そして時々、審神者(さにわ)が、お筆先をコミュニケーション言語に直す。 審神者(さにわ)が手を加えてモノだけを『言語学の嘘』にのせる。 こうすれば、だいぶ読みやすい文章になる。 私は、この様に考えております。 (2019.08.30 10:34:46) |