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佐藤さん
「言語学の嘘」を読み返していたのですが、8月20日の 菅野礼司への反論が、比較的理解しやすく感じました。 ページをあげて、著者のこの考えに対して、自分はここに反論する。 この様な書き方ですね。 反論する相手が、まず理論を展開してくれている訳ですから、 自分は、少ない言葉で足りるのだとおもいます。 (2019.09.22 00:35:18)
お久しぶりです。お元気ですか?
老犬クロが死んで明日で4週間になります。 ようやく、落ち着きを取り戻すことができました。 「時間」の作用は、心を優しく包んでくれるようです。 さて、記事のテーマである生命と認知の起源を考察するにあたり、記憶・進化・時間を キーワードでということなので、人の生き死にとこの3つのキーワードについて考えています。 この世界に生まれ入る(出る)時、この世界から死んで出る(去る)時、人生には、2度、この世界と別の世界をまたぐような節目があると感じています。死んで何もかも終わりという考えにはどうしてもなれません。産みの苦しみは、母親に委ね、気がつくと自分が存在しています。一方、死ぬ苦しみは、自分で味わい切って行くしかない、ようですね。死んでも死なない「何か」によって生命は一見不連続のように見えて実は連続している「何か」によって支えられているような気がします。もちろん、この世と別の世は、階層的に違う位置に属して入るのが大前提ですが。その階層構造全体を貫く基本構造があると思います。記憶の所在、進化の方向性、時間の局所性など、いろいろ考えさせられます。 まとまりのない内容ですが、クロの死を体験し、命の本質を以前より深く考えるようになりました。 (2019.09.22 15:12:49)
ともちゃんさんへ
私は多分、ともちゃんさんの考える「わかりやすさ」は、考えていません。出発点が違う気がします。 前にも書いたことがあると思いますが、図示することはわかりやすさを増すことになりますが、逆に誤解の温床になることもあります。 ですから、ともちゃんさんのアドバイスは心に響きません。 (2019.09.23 03:49:45)
青 天さんへ
まだ、どのような形になるかは具体的にわかりませんが、私が考えている自己同一性の進化に関する理論は、オカルト、いわゆる心霊の世界といつかシンクロすると思っています。 例えば幽霊が見えるという人達は、私は一種のタイムトラベラーだと思っています。といっても彼らが時間を旅するのではなく、我々と経験している時間と空間と、少しずれたところに存在する、肉体を既に失ってしまった者たちとコンタクトが取れるのだと思います。 といっても死んだ人間が全て、この世にとどまっているわけではなく、いわゆる「成仏」できない魂がさまよっていて、それとシンクロしてしまう人達が霊感があるのだと思います。因みに私は霊感ゼロです。 人間として、佐藤直幹として、「青天」さんとして、そして「クロ」として存在する魂は、肉体が無くなっても生き続けます。「生きている」という表現は適切ではないかもしれませんが、我々の記憶は消滅することがありません、私は記憶に「時間を超越して留まり存在するもの」という定義を考えています。 以前は、人任せで、自分は言語だけをしていればいいと思っていましたが、これが分かる人は、やはり自分だけしかいないかもしれないと思って、青天さんがおっしゃる「階層構造全体を貫く基本構造」が何であるかを定義しようと再始動したところです。 最近気が付いたのは、時間が最初に生じ、付随的に空間が生じたと考えた方がいいのではと思い始めました。これが、今後どう発展するかわかりませんが、今まで、どちらを先にするか自分で判断がつかなかったので、これで一つ先に進めるかもしれません。 頑張ってみます。 (2019.09.23 04:26:42)
青 天さんへ
クロと聞いて、思い出した話があります。 これはファンキー中村さんという怪談師が、自分の経験や人づてに聞いた心霊や不思議な話を語るYouTubeの「Ghost contents」というチャンネルがあります。 ここに「クロ」と呼ばれる犬のお話しがありますのでリンクをつけておきます。 https://www.youtube.com/watch?v=w6VFkNxJ9SY ただ、進行役のパウチさんとの軽快なやり取りも売りの番組なので、単にふざけているとは思わないでください。 信じる信じないかは、お任せします。 (2019.09.23 05:44:33)
》》私は記憶に「時間を超越して留まり存在するもの」という定義を考えています。
私もそう思います。ちっぽけな脳の片隅に記憶がぎっしり詰まって入るとは思えません。おそらく、記憶へアクセスする装置のようなものが脳内にあって、その特定の装置(個々)からアクセスできる記憶の領域があるような連想です。個の記憶と集合体の記憶、がトキ全体にわたって存在する領域です。古人は、その領域を「アマ(始元量)」と表現していたと理解しています。 》》青天さんがおっしゃる「階層構造全体を貫く基本構造」が何であるかを定義しようと再始動したところです。 この階層構造を、古人は、3層構造で表明していました。イマーアマーカムです。シンプルに述べると、イマが、時空現象世界(我々が生きている4次元世界=空間3次元+時間1次元とみなして この世界は制約が多い世界です)、アマが時空潜象世界、カムが反時空潜象世界です。反時空という表現は、私が使っている造語ですが、アマとカムが互いに反転関係にあるという意味です。 》》最近気が付いたのは、時間が最初に生じ、付随的に空間が生じたと考えた方がいいのではと思い始めました。これが、今後どう発展するかわかりませんが、今まで、どちらを先にするか自分で判断がつかなかったので、これで一つ先に進めるかもしれません。 時間空間をまとめて、時空と呼んでいます。原日本語の「マ」です。現代科学や数学が捉えている(記述している)時空よりも、もっと広い意味で使っています。時間と空間は互いに相補的な関係で成立しているもので、元々は同じアマの位相の違いぐらいの認識です。どちらが先行するか、答えはありません、というのが私の見解です。時空現象世界(この世)には制約があります。これが生き死にが不連続性に見える理由だと考えています。佐藤さんは、魂という言葉を使いましたが、私はそれこそ個の記憶だと思います。 そんな意味を込めて、一句ひねりました。(タイトル) この世でめぐりあうことの意味をかみしめています。 (2019.09.23 06:05:35)
佐藤さん、ありがとうございます。
早速、動画拝見しました。感動しました。 記憶と記憶が、この時空で織りなす絵巻を連想しました。 言葉で語りつくせないことを、あえて言葉化する、そこにこそ日本語の潜在能力(ポテンシャル)を感じます。投げ手と受け手、それぞれの価値観・認識・理解力など異なりますが、それぞれの記憶の根底にある底通した部分でお互いつながっていると思います。人も犬も、その意味では同じだと感じています。 魂や記憶たどりの旅すがら 今日(日本時間)は、秋分の日です。四季の節目ですね。 秋風やローズ一折りパリのカフェ (2019.09.23 07:39:42)
青天さん
『私もそう思います。ちっぽけな脳の片隅に記憶がぎっしり詰まって入るとは思えません。おそらく、記憶へアクセスする装置のようなものが脳内にあって、その特定の装置(個々)からアクセスできる記憶の領域があるような連想です。個の記憶と集合体の記憶、がトキ全体にわたって存在する領域です。 古人は、その領域を「アマ(始元量)」と表現していたと理解しています』 おそらく、その世界が実体であり、私達の住む、この3次元世界は、 その実体世界の存在者が見ている、夢のような物だと思います。 多くの人々は、その事を理解しているとおもいます。 すべての宗教家は、これと同じ事を言っています。 しかしその事を、この三次元空間の言葉で、どのように表現すれば良いのか? その事に、多くの人達が苦労しているのだと思います。 昔は、それが哲学者の仕事でした。 現在では、それを科学者がになっているのだと思います。 量子力学などの、最先端の科学は、 その世界へ、足を一歩踏み出していると思います。 (2019.09.25 17:54:42)
ともちゃんさんへ
コメントいただき、ありがとうございます。 宗教者(家・屋)とか、哲学者(家・屋)とか、科学者(家・屋)などと肩書きをつけている人間にろくな人間はいない、というのが私の結論です。あまり、盲信しないことをお勧めます。また、ほとんどの人は己の実相を知らず、無為に人生を送っていると感じます。実体世界があるのかないのかは、4次元時空を離れて死んでみないとわからないでしょう。 偽善者や耳にささやく甘い罠 (2019.09.26 10:55:33)
青 天さんへ
こんにちは イマ-アマ-カム を見て、 今-天-神 とイメージしてしまいました。 「マ」=間でしょうか? だけどカタカナで表現されているということは、きっとそれだけではないからなのでしょうね。 言葉が変遷(進化?)するものなので断定表現することで普遍性を失うのかとも思いました。 宗教をふくめて三段階をいう人は多く、私もそのように考えます。 イマが三次元空間と言われるのも、きっとその意味合いをも含むことなのではないでしょうか。 (2019.09.26 13:28:25)
青 天さんへ
>>>私もそう思います。ちっぽけな脳の片隅に記憶がぎっしり詰まって入るとは思えません。おそらく、記憶へアクセスする装置のようなものが脳内にあって、その特定の装置(個々)からアクセスできる記憶の領域があるような連想です。個の記憶と集合体の記憶、がトキ全体にわたって存在する領域です。古人は、その領域を「アマ(始元量)」と表現していたと理解しています。 私も記憶は脳内に蓄積されるのではないと思っています。ただ、こうしてしまうと、完全にオカルトの領域に足を踏み込むことになります。 私が「記憶」というキーワードを持ち出したところで、こういうところに突き当たることは予想していた気がします。前は、ちょっと逃げてましたが、もう一回、挑戦してみようと思っています。 >>>この階層構造を、古人は、3層構造で表明していました。イマーアマーカムです。シンプルに述べると、イマが、時空現象世界(我々が生きている4次元世界=空間3次元+時間1次元とみなして この世界は制約が多い世界です)、アマが時空潜象世界、カムが反時空潜象世界です。反時空という表現は、私が使っている造語ですが、アマとカムが互いに反転関係にあるという意味です。 私も、階層構造があることは感じています。そして階層に分離させるメカニズムが「離散分裂(再)融合更新循環」であると睨んでいます。私が、記憶と進化を分けて考えられないのは、全てが一つの統合された運動であるからです。静的動的という形で分けることができず、全てを一つの運動として見ています。 >>>時間空間をまとめて、時空と呼んでいます。原日本語の「マ」です。現代科学や数学が捉えている(記述している)時空よりも、もっと広い意味で使っています。時間と空間は互いに相補的な関係で成立しているもので、元々は同じアマの位相の違いぐらいの認識です。どちらが先行するか、答えはありません、というのが私の見解です。時空現象世界(この世)には制約があります。これが生き死にが不連続性に見える理由だと考えています。佐藤さんは、魂という言葉を使いましたが、私はそれこそ個の記憶だと思います。 確かにどちらが先行するかという問いだと答えはないかもしれませんが、時間の方を優先して考えようと思いました。多分これは、ともちゃんさんの「時間は四つ目の空間」というのの逆を行こうと思ったのだと思います。空間は時間が産んだのだ、という視点を持ち込むことで新しい発想ができそうな気がします。 そんな意味を込めて、一句ひねりました。(タイトル) この世でめぐりあうことの意味をかみしめています。 この世は我々の修行の場なんですね。その意味をかみしめています。 (2019.09.26 13:49:44)
青 天さんへ
>>>早速、動画拝見しました。感動しました。 記憶と記憶が、この時空で織りなす絵巻を連想しました。 「記憶と記憶が、この時空で織り成す絵巻」ってすごく素敵な表現です。 >>>言葉で語りつくせないことを、あえて言葉化する、そこにこそ日本語の潜在能力(ポテンシャル)を感じます。投げ手と受け手、それぞれの価値観・認識・理解力など異なりますが、それぞれの記憶の根底にある底通した部分でお互いつながっていると思います。人も犬も、その意味では同じだと感じています。 ちょっと話は反れますgあ、今、SNS上で、私の折バラのテクニックの言語化が進んでいます。たまたまフランスにいらっしゃった折り紙愛好家の人にバラを教えたのがきっかけで、その輪が広がっています。英語版も正式に9月24日に発売されたので、また輪が広がりそうです。 魂や記憶たどりの旅すがら >>>今日(日本時間)は、秋分の日です。四季の節目ですね。 フランスにいると日本の季節感とずれたところで生活しているので、こういう記憶喚起は嬉しいです。 (2019.09.26 13:55:13)
ともちゃんさんへ
>>>『私もそう思います。ちっぽけな脳の片隅に記憶がぎっしり詰まって入るとは思えません。おそらく、記憶へアクセスする装置のようなものが脳内にあって、その特定の装置(個々)からアクセスできる記憶の領域があるような連想です。個の記憶と集合体の記憶、がトキ全体にわたって存在する領域です。 古人は、その領域を「アマ(始元量)」と表現していたと理解しています』 おそらく、その世界が実体であり、私達の住む、この3次元世界は、 その実体世界の存在者が見ている、夢のような物だと思います。 多くの人々は、その事を理解しているとおもいます。 ところが、われわれはその「夢のような物」を使って科学をしなくてはいけないわけです。我々に見えるということは、そこに実体があるからではなく、単に見せられているだけなのに、その違いが分かっていないのだと思います。 >>>すべての宗教家は、これと同じ事を言っています。 しかしその事を、この三次元空間の言葉で、どのように表現すれば良いのか? その事に、多くの人達が苦労しているのだと思います。 私も苦労しています。 >>>昔は、それが哲学者の仕事でした。 現在では、それを科学者がになっているのだと思います。 量子力学などの、最先端の科学は、 その世界へ、足を一歩踏み出していると思います。 フランスは、哲学者という職業が存在する不思議な国ですが、私はテレビとかに出てくる彼らは全く意味がないと思っています。科学者たちが哲学的な思考をすることの方がよっぽど信ぴょう性があります。 (2019.09.26 14:01:37)
青 天さんへ
>>>宗教者(家・屋)とか、哲学者(家・屋)とか、科学者(家・屋)などと肩書きをつけている人間にろくな人間はいない、というのが私の結論です。あまり、盲信しないことをお勧めます。また、ほとんどの人は己の実相を知らず、無為に人生を送っていると感じます。実体世界があるのかないのかは、4次元時空を離れて死んでみないとわからないでしょう。 天才漫画家手塚治虫氏の「火の鳥」に、魂は肉体を離れるとコスモゾーンという一種の魂の集合体に吸収されることになっています。 こういう作品を子供の時に読むことができたことを感謝しています。 (2019.09.26 14:04:38)
桜葉佳代さんへ
>>>イマ-アマ-カム を見て、 今-天-神 とイメージしてしまいました。 「マ」=間でしょうか? だけどカタカナで表現されているということは、きっとそれだけではないからなのでしょうね。 私は、直ぐにそういう発想ができませんでしたが、これはしっくりと来ますね。 >>>宗教をふくめて三段階をいう人は多く、私もそのように考えます。 イマが三次元空間と言われるのも、きっとその意味合いをも含むことなのではないでしょうか。 宗教において「3」という数字は重要なのかもしれません。人間の言語のもつ入れ子構造も「3」ですし、関連があるかもしれません。 (2019.09.26 14:07:58)
佐藤さん
『まだ、どのような形になるかは具体的にわかりませんが、 私が考えている自己同一性の進化に関する理論は、 オカルト、いわゆる心霊の世界といつかシンクロすると思っています』 青天さんが仰有る、「アマ始元量」と言う言葉は、 じつは、私には非常になじみの深い言葉なのです。 この言葉は、楢崎皐月(ならさきこうげつ)と言う人が創始した、 相似象学会でよく使用されています。 楢崎と言う人は、理科系の知識を持った技術者ですが、 スピリチュアルな感覚も併(あわ)せ持っていました。 要するに、私のような人間と思って戴ければ分かりやすいと思います。 彼は、中国にいた頃、道教の道士から、 日本には縄文時代以前からの、高度な文明があると教えられます。 戦後、六甲山で仕事をしていた時に、平十字(ひらとうじ)と言う猟師から、ある神社のご神体となっている、古い文献を見せられます。 これは、カタカムナ文字で書かれていました。 ここには、古代の知恵が書かれております。 一言で言ってしまうと、それは科学と宗教を統一した知恵なのです。 楢崎皐月が創始した、相似象学会とは、宗教団体ではありませんが、 非常にスピリチュアルな団体です。 現在も、楢崎の思想を発展させ、実戦されている人は、沢山おられます。 私は、相似象学会の人間ではありませんが、 友人が、古史古伝(こしこでん)を研究しています。 古史古伝とは、アカデミズムから偽書とされた、古い文献の事です。 一般的には、オカルトと考えられています。 だから私は、今まであえて語りませんでした。 しかし楢崎皐月は、一流の科学者です。 あえてその権威を否定される危険を犯して、 彼はオカルトの世界へ飛び込んで行きました。 オカルトと科学を統一しようと考えておられる 佐藤さんの参考になるのではないかと想い一筆したためました。 「楢崎皐月」あるいは「相似象学会」で調べますと、 いくらでもヒットします。 参考にして戴ければ、幸甚であります。 (2019.09.26 15:35:16)
桜葉佳代さんへ
コメントいただき、ありがとうございます。 お時間がありましたら、一度、私のブログをのぞいてみてください。 何か、ヒントになる発見があれば幸いです。 よろしくお願いします。 http://su5.blog.jp (2019.09.26 16:06:44)
佐藤さんへ
》天才漫画家手塚治虫氏の「火の鳥」に、魂は肉体を離れるとコスモゾーンという一種の魂の集合体に吸収されることになっています。こういう作品を子供の時に読むことができたことを感謝しています。 コスモゾーン、意味深ですね。手塚さんや宮崎さんの漫画・アニメには、本質をえぐり出す迫力を感じます。人間の潜在意識の中に眠る「何か」を表現しているのかも知れません。あなどれませんね。 火の鳥や光かがやく彼岸まで (2019.09.26 17:34:55)
佐藤さんへ
》私も、階層構造があることは感じています。そして階層に分離させるメカニズムが「離散分裂(再)融合更新循環」であると睨んでいます。私が、記憶と進化を分けて考えられないのは、全てが一つの統合された運動であるからです。静的動的という形で分けることができず、全てを一つの運動として見ています。 階層構造(現象・潜象を貫く)をまたぎながらフラクタルに変遷・循環する運動のような動的性が基本構造に組み込まれていると思います。我々の存在は、その運動の動的な平衡(統計的な)の刹那かも知れません。とても危うい存在です。そのことが実感できれば、無為に人生を送ることはできないと思います。 悲しとや見猿のためにまんじゆさけ(其角 A382) ゆく秋や自分探しの旅の宿(青天) (2019.09.27 07:35:11)
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