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カテゴリ:新ソシュール記号学
ここ十数年の間、ずっと、言語学のあるべき姿ついて書いているのだが、言語というのは、コミュニケーションの為ではなく、個人そして集団のアイデンティティーを確立するために存在するのだと主張する方がいい気がしてきた。コミュニケーションは、動物の世界でも存在するものであるが、アイデンティティーは動物には見られないからである。
では、アイデンティティーとは何であろうか。 アイデンティティーは英語のカタカナ表記であるが、日本語では「自己同一性」という用語が対応する。wikiを見ると、当初は「ego identity」に訳語として「自我同一性」という用語が使われていたとのこと。ネットで検索すると、心理学の分野では今でも使われているらしい。 人間のアイデンティティーと言語の記号は、同じ構造を持っている。言語の核となる記号は、アイデンティティーの分身である。アイデンティティーの形成には、自分に固有な「名前」を持つことが不可欠であるが、この「名前」が、記号の「シニフィアン」に対応する。そして「シニフィエ」は、個人の持っている「価値観」に対応する。 ここで断っておくが、私の考える記号とは、単語の別称ではない。したがって、シニフィエは単なる単語の意味ではなく、特定の言語によって形成される言語共同体によって共有される価値観も含むことになる。このため、私は「シニフィエ」ではなく「signer(署名する)」というフランス語の動詞を使い「signant/signe(シニャン/シニィエ)」を使っている。 特定の記号は、逆に、その言語を使う個人のアイデンティティー形成の本質的な部分も関わっている。これは、特定の言語(特に最初に学習する言語)の記号の「シニィエ」の獲得の過程で、個人のアイデンティティーの形成に大きな影響を与えるからである。日本語を話す人が全て、日本的な価値観を共有しているわけではないが、多くは成長の過程で、日本語によって代々継承される価値観を身に着けていくことになる。 タイトルの疑問であるが、一つ考えられるのが、認知科学がアイデンティティーに興味を持っていないからだと思われる。コミュニケーションが外界との相互作用であり、実験で数値的に測定できる手法に合致しているのに対して、アイデンティティーは個人の内的世界の問題であり、実験等で数値化することが難しい。それに一般的に、言語とは動物のコミュニケーション能力が進化したものと考えられてるため、アイデンティティーの確立が言語と関係があるとの発想に行き着くことがないのだろう。 今後、もう少しアイデンティティーについて投稿を続けようと思う。特に記憶喚起に関してまだ触れていないので。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.10.08 23:42:22
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