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言語学の嘘(ソシュール記号学の再考)

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《自己紹介》
佐藤直幹(さとうなおみき)と申します。令和元年で満53歳になります。丙午です。現在、フランスのパリ近郊在住で、翻訳を中心に仕事をしています。
nsato75@yahoo.fr

記憶による自己同一性進化論という、テーマに取り組んでいます。言語の本質を追い求めているうちに、人間とは何か、認知とは何か、生命とは何か、太陽系とは何か、時空間とは何か、物質とは何かという問いが生まれ、これらの根底に流れているが「記憶」という概念だと気がつきました。

ただ。ここでいう「記憶」の概念は、端的に言うと私の造語で、我々の知っている「記憶」をカバーしてますが、全く新しい概念で「すべての存在を生み出し、支え、進化させる」ものです。

記憶による自己同一性進化論は、今の科学の枠組みとは全く違うものになりますが、今の人類の知識を、新しい枠組みで捉え直すというプロセスと考えれば、矛盾は無いと思います。一言で言うと「科学のパラダイムシフト」を起こしたい訳です。

今は、ソシュールの記号学を「記憶による自己同一性進化論」という枠の中で再構築することを課題としています。ソシュールの「一般言語学講義」を再読しながら、記号学を新たなレベルに引き上げることを目標としています。


日本の大学では経済学を専攻しました。卒業後、金属素材メーカーに就職しましたが4年後の1995年に退職、直後にフランスに渡航し、言語学の勉強を始め今に至ります。一応フランスで修士と同等の免状(DEA)を取得していますが、博士論文は途中で断念しました。

高校三年のときにアメリカのイリノイ州に1年間のホームステイ留学、大学3年に上がる前に韓国に一年間、語学留学していました。最近は大分忘れましたが、フランス手話もフランスで勉強し、私の言語理論の重要な支えになっています。

始めはフランス語で発信しようと思いましたが、フランス語の語彙の概念を借用しながら、日本語で書く事にしました。あまりネガティブなコメントにはおつきあい出来ないと思いますが、興味があれば読者の方々と色々とディスカッション出来ればと思います。

「日本人の為のフランス語自習室」というブログもあります。最近は更新していませんが、フランス語に興味の有る方は是非どうぞ。
http://francais75.exblog.jp/

趣味は折紙ですが,最近は半分プロとしてやっています。
折紙のバラが専門です。ここに作品を発表しています。ミクシーでは、もっと多くの作品を公開しています。ハンドルネームは「Mikki」
http://pliagedepapier.com/gallery/index.php?cat=11645

2015年8月に、「バラの折り紙 ROSE」という本が出版されました。
http://www.amazon.co.jp/バラの折り紙-1枚の紙から作る-佐藤直幹/dp/452905466

2018年1月27日に「美しいバラの折り紙」という本が出版されます。
https://www.amazon.co.jp/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E3%83%90%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%8A%98%E3%82%8A%E7%B4%99-%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%9B%B4%E5%B9%B9/dp/4529057674/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1516427564&sr=1-1&keywords=%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%9B%B4%E5%B9%B9

2019年9月24日にアメリカのTuttle社から「美しいバラの折り紙」の英語版「Naomiki Sato's Origami Roses, create lifelike roses and other blossoms」が出版されます。
https://www.tuttlepublishing.com/other/naomiki-satos-origami-roses


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手話

2016.09.29
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カテゴリ:手話
私は、人類最初の「コミュニケーション・ツールとしての言語」は、手話(視覚言語)であったと考える。

しかしこれは、手話が音声言語(聴覚言語)と比べて「原始的」であるのでは全くない。

人類の黎明期、遺伝的には「人間」に分類できる個体はいたとしても、まだ言語を使うまで至っていなかった時代があったはずである。この時、最初に「記号」を認知座標の中に想像し、自らのアイデンティティーを確立した人間は、まず間違いなく、五感全てを使って自分のアイデンティティーを形成していたはずである。

しかし、この「五感を駆使した」記号ないしアイデンティティーは、そのままではコミュニケーションとして使える言語には成り得ない。なぜなら、五感全てを座標として共有し、記憶喚起することは不可能であるからである。ここで言う「記憶喚起」は、記憶科学の最も基本である「離散融合更新循環」に則ったものである。

そこで候補として出てくるのが、視覚と聴覚である。

言語学では一般的に言語の起源という時に、聴覚言語、いわゆる音声言語が取り沙汰される。しかし、聴覚では、コミュニケーションという役目を果たすためには、同じ音素を共有するために音韻体系を確立し、それを共有する必要がある。つまり、コミュニケーションの前に、どういう音素を使うかを一々確認する作業が必要になるのである。実際のコミュニケーションの現場ではこんなことでは埒が明かない。つまり「実用に適さない」のである。

これに対して視覚言語の場合、腹と背のある銅に対して、上には頭、左右には腕と手が付いているという人間の生物学的な形態が、触覚的かつ視覚的な座標として始めから存在しているのである。この座標は、記憶喚起の更新循環を可能にするだけでなく、それを個人同士で共有することが可能になる。これにより、コミュニケーションツールとしての言語として機能し始めるのである。

視覚言語は、それだけで完結しているが、視覚的な座標は、他の視覚的な記憶媒体を取り込むことを可能にする。それが、空間(平面上)に描かれた図象であり、それが発展した象形文字である。これは古代支那文明の漢字の発明に通じるものである。

しかし、視覚言語から、他の視覚的な記憶媒体を通さずに、直接、聴覚的な記憶媒体に達した言語がある。その1つが日本語である。これには、「子音+母音」という単位が使われる。なぜなら、この組み合わせにすることにより、全体の単位の数が極端に少なくなるからである。現に、日本語では五十音表というように、ひらがな/カタカナは、五十余の聴覚的な記憶単位に還元されてしまう。つまり、日本語では50個の「仮名」を覚えてしまえば、それを組み合わせて全ての単語を作ることが可能になるのである。

インド・ヨーロッパ語族の起源と言われるサンスクリットも、日本語の五十音に近い構造を持っていたと聞いたことがある。まだ、確信はないが、サンスクリットと日本語は実は非常に近いメカニズムでできた言語である可能性が強い。しかし、この2言語は地理的にも離れているし、直接的には関係がない。しかし、記憶言語学の見地では、相似性が認められるのではないかということである。

サンスクリットにより、視覚言語から聴覚言語が生まれ、それが徐々に地理的に近くに住んでいる視覚言語を使っている民族に聴覚言語を伝え、それが同心円上に広がることによって、インド・ヨーロッパ語族が生まれたのではないのではないかという仮説が成り立つ。つまり、聴覚言語を使う民との接触がある前、全ての民は視覚言語を使っていたはずである。視覚言語を使っていれば、記憶喚起(離散融合更新循環)は可能である。それが、世代交代を経ることで、視覚言語から徐々に聴覚言語に移行していったと考えるのが自然であろう。

ここで1つ、当時の聾者と盲者に起きた劇的な変化について述べたいと思う。

視覚言語が主流であった時代、聾者達は、音が聞こえないというハンデはあってが、意志の疎通には困らなかった。これに対し、盲者達は、言語活動から全く遮断されており、人間らしい生活を遅れていたかどうかも怪しい。動物のようにしか振る舞うことのできない盲者は、成人することは無かったのかもしれない。

ところが、視覚言語から聴覚言語へと言語の知覚チャンネルが移行するに従い、盲者と聾者の立場が(完全ではないが)逆転する。聾者は聴覚言語を知覚することができないのに対し、盲者は聞いて理解し意志の疎通をとれるようになる。つまり、それまで人間になれなかった盲者が、人間として同じ記憶を共有できる個人になることが可能になったのである。これに対し、聾者は、生きていく上で重要な情報は視覚的に受け取ることができるが、聴覚言語を学ぶことができない。

実はここで、視覚言語(ジェスチャー言語でもある手話)を捨てるか温存するかの選択があるのだが、これが、社会の中で一定の割合で生まれてい来る聾者の運命を決める。ジェスチャーを使って視覚的にコミュニケーションをすることに抵抗のない民族の場合、聾者の疎外はかなり緩和されるが、ジェスチャーを無意味なもの、汚らわしいものと見なす民族の場合、聾者達は人間になる道を絶たれてしまう。この傾向はヨーロッパで非常に強かった。

これに終止符を売ったのが、レペ神父による手話法による教育である。視覚言語の教育現場での復活により、聾者たちも社会(人類)の共通の記憶(一般的な知識や文化から、文学や科学知識まで)を持てるようになる。しかし、それもつかの間、口話法が聾教育の現場を席巻することにより、聾者達は、再び人間として生きる道を閉ざされることになる。これに変化が起きたのが20世紀後半である。

現在、手話は言語として認められているが、聴覚言語(音声言語)のジェスチャー版であるという認識が広く言語学者の間でも浸透している。これは、由々しき事態であるが、今のところ、これを覆すことは非常に難しいようである。記憶言語学の目的は、視覚言語(手話)が、聴覚言語(音声言語)とは全く別の独立した言語体系であると知らしめることである。






Last updated  2016.09.29 08:16:19
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2016.03.13
カテゴリ:手話

佐野千遥教授の「人類史に於ける日本人,ユダヤ人の位置を言語科学から解明する!!!!!!スミルノフ学派DR佐野千遥」を読んだ。というか、ざっと目を通したと言ったほうがいいだろう。

私の感じとしては、様々な言語の特徴を調べ、それを話している人達の人種や地理政治学的知識を総合し(ムー大陸も出てくるのでオカルト情報も含めて)、佐野教授のインスピレーションで語るとこうなると言うことだろうか。

フランスにも、クロード・アジェージュという言語学者がいるのだが、彼は元々チュニジアとフランス人との間の生まれで、何ヶ国語かは分からないが、アラブ語を筆頭に幾つかのヨーロッパ言語を操り、世界中の言語の類型論にも詳しい。

ソシュールもインド=ヨーロッパ言語に関する論文を書いているから、世界の言語の類型論を研究するのはヨーロッパの伝統と行ってもいいのだが、ここに1つ大きな見落としがある。言わずもがな「手話」の存在である。

私が準備している言語理論には、まず最初に2つのタイプの言語しか存在しない。日本語やフランス語など、音声を使う「聴覚言語」と、手や身体のジェスチャーを使った手話、つまり「視覚言語」である。「視覚言語」というと、普通、文字も含むようであるが、私の言語理論では自分たちの身体以外の人工媒体(紙など)を通さずに使うことのできる「生理的な人間言語」を対象とする(「自然言語」は既に別の意味で使われているので却下)。

私が「聴覚言語」という用語を使うのは、日本語もフランス語も、我々は音声を聴くことによって、音素として認識しているからである。音声は発声することによって成立するが、音韻体系の構成員としての音素の認識はあくまで聴覚によるものである。

それで、早速ネットで「聴覚言語」というのを調べてみたのだが、全く検索に引っかからない。それで「視覚言語」を調べてみたら、ウィキペディアの記述に「音声言語は聴覚言語であるが、音声表出とリンクされる動作、表情の視覚情報と統合されて認識される」とあった。「聴覚言語」にリンクが貼ってあったので早速クリックすると、何と「ウィキペディアには現在この名前の項目はありません。」との文言の遭遇し、あっけなく撃沈。気を取り直してフランス語の「langue auditive」で検索するも結果は同じ。どうやら「聴覚言語」というのは、私の造語となってしまう可能性が高いということがわかった。

「音声言語」という場合、一般的には、英語では「Spoken language(話し言葉)」となり、これは「Written language(書き言葉)」と対をなす用語である。日本語で「音声言語」というと「聴覚」を使っている言葉という認識はあるが、この対としては「視覚言語の手話」は当たらない。「聴覚vs視覚」という対立は、一般的には「話し言葉vs書き言葉」という図式になってしまうことは、前々から認識してはいたが、あれから全く変わっていないという認識を新たにした。

結局、私が何をいいたいかというと、言語学を語ろうとしている学者たちが(多分、ほぼ)全て、「視覚言語」である「手話」を、「音声言語(本来は「聴覚言語」)」と対にして見るという視点が全くないということである。フランスにはパリ第8大学のCuxac(キュクサック)教授のおかげで、手話を独自の言語(聴覚言語と同じステータスを持つ言語)として見る流れがあるが、世界の中では絶対的に少数派である。

人間の言語の価値体系の座標を支えているのは「視覚と聴覚」であるという基本認識がなく、自分たちがよく知っている「聴覚言語」を唯一の言語として位置づけることで、言語の起源のストーリーは、視覚言語である手話を排除した形で進むことになる。この誤りから佐野教授も逃れられなかった。これに反論する人達は「ジェスチャー言語」を提唱しているが、これは「聴覚言語」を「音声言語」と呼んでいるのと同じ間違いを既に犯しているのと同じであり、手話が「視覚言語」であるという視点に立っている理論に私はまだ出会ったことはない。 (今、キュクサック教授の最近の動向を調べてみたが、どうも「視覚」ではなく「ジェスチャーの図像性」の迷路に陥ってしまったようである。)

私は人類の黎明期、視覚も聴覚も持っていた人間たちは、まず最初に視覚を使って言語を作ったとしか考えられない。これはソシュールのいう「シニフィアン(私の理論では「シニャン(Signant)」とし「意味」を排除)」が、聴覚を使った場合、一世代で実用に足るものができないということからである。視覚であれば、単に指を指しても自分の伝えたいものを示すこともできるし、当然「パントマイム」的に、ジェスチャーをして、対象物を「想起」させることが可能である。

これに対して聴覚言語の場合、コミュニケーションが成り立つ言語の域に達するためには、まずお互いに「同じ音素」を認識することが必要になるが、同じ音素を認識するかどうかの前に「コミュニケーションの用を足す」必要があるのであり、自分が考えている意味と音声が、お互いに同じであることを確認するのは指南の技である。 音声を聞いて、音素の確認をしている間に、ジェスチャーという視覚情報でコミュニケーションしたほうが早いに決まっている。

「視覚言語」の場合、人間が共通に持っている「身体的かつ運動性の特徴」の作る「静的かつ動的軌跡」という誰が見てもわかりやすい「視覚的座標体系」が始めから備わっているのである。ビデオカメラで手話をする人の体(上半身で十分)を撮影する場面を想像して欲しい。身体に大きな障害がある場合を覗いて、頭が一番上にあり、顔と身体が正面を向き、腕と手が動くことによって「静止画と動画という視覚的軌跡」がジェスチャーになるのである。(ビデオでは基本的に2次元であるが、身体の前後の向きがあることで3次元的な認識が可能になる。)

感情表現から、物や現象を表すのにも顔の表情を含めた「ジェスチャー」は非常に有効である。つまり、細かいことまでを表現しようとする場合、何の言語も知らず、ただ言語を発明する能力だけ持っていた黎明期の人間達は「視覚言語」を発明する方に流れたと考えるのは全く自然なことなのである。 (人類の黎明期、手話が主流であった時代、「聾者」は現在の「盲者」と似たような境遇似合っただろうと推測される。それが、その後の「聴覚言語」の発明と普及により、聾者と盲者の社会的地位が逆転したことは想像に難くない。)

視覚的なジェスチャーが「意味」を持つようになると、壁画などの視覚的記録にも「意味」が見出されるようになり、聴覚言語より先に象形文字などの「文字」が発明された可能性も高い。(ここで「意味」というのは、「認知」レベルでの話であり、言語とは切り離して考えないといけないのだが、これに関してはまた別に投稿したいと思う。) 文字は、「聴覚言語」をサポートする形で存在するが、その起源には聴覚言語が存在しなかった場合があるとしたら非常に面白いだろう。

佐野教授の自由奔放な「仮説」を読んで、私が感じていることをまとめてみた。ただ、私の考える「視覚言語(手話)先行説」なども仮説であり、実際は確認のしようがないが、言語が価値体系であるという認識が一般的になれば、論理的な発想であることが理解できると思う。







Last updated  2016.03.13 08:41:47
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2016.01.26
カテゴリ:手話


自分の中では、手話(視覚ジェスチャー言語)だけが自然発生言語という確信が持てた。こうなると、聴覚発声言語は必然的に手話が生まれた後に発生、あるいは発明されたことになる。

これは、人類が「視覚文明」からスタートして、「聴覚文明」に移行したことを意味する。そして、長い間この2種類の文明は、平行線をたどり交わることが無かったのだが、それが20世紀になってようやく共存の道が開かれるようになる。一つ前の投稿で書いた、聾者と盲者の社会的地位が逆転は、二つの文明のすれ違いによって生まれた悲劇だ。

言語学会では全く一般的ではないが、私は人類の言語は、視覚ジェスチャー言語と聴覚発声言語の二種類にタイプ分けすることが絶対に必要であると考える。まず人類が、視覚と聴覚という異なるチャンネルを使って「完成した言語」を生み出すことができるということをベースに言語学を考えるという見方を持つことが不可欠であると主張したい。

しかしながら、この2タイプの言語は、知覚チャンネルの性質が非常に異なることを受けて、様々な相違点を見せる。例えば、光のない暗闇の中で視覚言語は使えないが(ジェスチャーを触覚で伝えるという手段もあるが、これは極端な例)、声の通らない水の中では聴覚言語は使えない(ダイバー達には独特の手話によるコミュニケーション方法がある)。その他にも記述方法では、視覚言語は映画やビデオという形が最も有効だが(サインライティングという「記述」方法もあることはあるが、簡略されてしまうので実用的ではない)、聴覚言語は、文字で記録することが可能であり(書記言語がない言語もあるが、約束事を決めれば音韻記号で「記述」は可能)、知識の蓄積に関しては大きな利点を持っている。

では「相似点」というのは何であろうか。それは「人間の言語」であるという点。人生の悲喜こもごもを表現でき、自分たちが獲得した知識や発明を後世に伝え、更に新たな進歩を生み出すということだ。そして特に、人間らしい情操教育の部分も大切だ。これは私が尊敬する日本の手話教育を守りぬこうとした高橋潔先生の教えにから学ぶことができる。「お・か・あ・さ・ん」と発声できる子供を育てるよりも、「母」の偉大さを理解し敬うことのできる子供に育てることこそが重要なのだ。

聾者のコミュニティーには「ろう文化」というものがある。私はもっと高く「ろう文明」という位置づけができて、それを人類全てが認めることができたら、この世は変わると思う。それがきっと高橋先生やレペ神父の遺志を継ぐことになると考えている。






Last updated  2016.01.26 09:22:51
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2015.07.15
カテゴリ:手話

今日、フランスとドイツが共同して作ったチャンネルARTEの番組「LE GRAND ROMAN DE L'HOMME」を見た。

人類の歴史を道具や遺跡から考察するのがテーマで、それなりに面白かった。

本編のナレーションでは手話について全く触れていないのだが、人類の活動を示すために動員された5人のダンサー(そのうち1人の女性は日本人で知り合い)が、ジェスチャーを使って意思の疎通を図ろうとしているところが印象的だった。

聴覚言語の出現の前に、視覚言語(手話)があったことを匂わせる演出だったのだが、これは音抜きの映像だけで表現しなくてはならなかったダンサーたちの自然な反応だったのかも知れない。






Last updated  2015.07.15 09:12:43
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2015.04.08
カテゴリ:手話

フランス手話とアメリカ手話は、歴史的に見ると接点が多い。

手話が教育のための言語としてフランスで確立され、そのメソッドを携えた教育者がアメリカに渡り、それがアメリカ手話の基礎になったといういきさつがある。今でも基本的な単語に類似性が見られ、指文字に関しては一部の例外を除いてほぼ同じである。

私はアメリカ手話の専門家ではないが、アメリカ手話について見聞きした特長を挙げてみる。1つは、形容詞と名詞の位置。手話では普通、名詞をまずサインで示し、その形質を表すサインが、その後になされる。これが自然な語順であり、フランス手話はこれが原則である。しかしアメリカ手話の場合、まず形容詞が来て名詞が来る。つまり、英語と同じ語順なのである。

これは、アメリカの聾教育の現場で手話が言語としてではなく、コミュニケーションの手段として優先されたことが根底にあると考える。聾学校で、自然手話を獲得しなかったが手話(サイン)を覚えた聴の先生によって教育がなされたことが原因だろう。つまり「英語対応手話」が、一種の「クレオール(異なった言葉を話す話者同士で作られた言語が世代交代を経て母語の域まで達した言語)」として「アメリカ手話」として定着したわけだ。

これとは逆に、フランス手話は、その後1880年のミラノ会議を経て学校現場から禁止され、手話を話す聾の教師も職を奪われることになる(注1)。ここで歴史の皮肉というか、手話が禁止されなかったアメリカでは、手話がクレオール的な発展をとげたのに対し、フランス手話は、聴覚言語との接触が絶たれた事により、全くの自然な言語として独自の発展を遂げた。

これに関して、私の聾の友人も支持してくれている。ただあまり公には言えないのがもどかしい。まるで手話の禁止を肯定するかのように取られる可能性があるからだ。禁止を受けながらも、自然な手話を伝え続けてきたフランスの聾コミュニティーには私は多大の尊敬をよせる。

もう1つアメリカ手話の大きな特徴は、指文字によるスペリングで英語の語彙を直接使うことである。アメリカ人が手話で話しているとき、日常的なことでは問題はないが、学術的な話題になればなるほど、この傾向が強くなる。フランス語圏のカナダ人がフランス語で話としているのに、英語の単語になると突然アメリカ英語の発音になるのとよく似ている。つまり、二つの言語体系が混在しているのである。

ここには非常に大きな問題がある。つまり、アメリカの聾者が自分たちの言葉だけで思考することが出来ず、アメリカ英語の学問体系から独立していないことを意味する。聾者の場合、手話だけでは高度な学問を修めることが出来ず、聴覚言語の書記言語をマスターすることになり、聴覚言語からの「外来語」を使うことは避けられないのであるが、指文字ばかり使うアメリカ手話は、ボタンのかけ間違いがここまで来てしまったといえるのではないかと思う。

日本語でもカタカナで表記する外来語は多いが、もうこれは外国語というより日本語になっている。支那人を支配した様々な王朝から渡ってきた漢字も、今では「国字」となっており、現代の中国人たちが見ても、使い方に大きな差がある。日本語で話しているのに、英語の単語を連発するのは歓迎できるものではない。しかも、アメリカやイギリス英語バリバリの発音でまくし立てられたら閉口してしまう。

アメリカ人の聾者にとってアメリカ手話は、どんな発達を遂げたとしても自分たちの言葉であるという自覚はあるだろう。それはそれで結構なことだと思う。フランス語だって、ラテン語と現地語のクレオールと見る事だって可能なのだから。

しかし、アメリカ人言語学者の言語の定義を見ていると、手話をあくまでも「聴覚言語のジェスチャー版」と見ているきらいがあり、そこが私にはしっくり来ないのである。

(注1:日本でも同じことが、その50年後に起きている。詳しいことは、山本おさむ氏の漫画「わが指のオーケストラ」に描写されている。)






Last updated  2015.04.08 06:00:38
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2015.02.12
カテゴリ:手話

目も見えず、耳も聞こえないというと日本ではヘレンケラーを連想する人が多いだろうが、フランスにも聾盲の子供の教育の事例はあった。

それにインスピレーションを受けて制作されたのが、この映画。ずっと気になってはいたのだが、やっと見た。驚いたのは、手話通訳の友達が通訳役で出演していたこと。彼女は実は、聾盲の手話のスペシャリストでもある。

ここ数年、手話からある意味意識的に離れていたのだが、やはり自分の研究にとって手話の果たした役割を実感させられた。今の、自分の知識をもってすれば、手話や聾者のことを別の見方で記述できる。もう、そういう時期に来ているのかもしれない。

1つ残念なのは、英語の字幕のみがついていたこと。つまり、フランス手話と英語ができないフランス人には、劇中での手話での会話が理解できないということ。こういう配慮というものにフランスはまだまだ欠けている。






Last updated  2015.02.13 02:27:49
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2014.02.16
カテゴリ:手話

私は聾児教育論を打ち上げるつもりは無いですが、ご質問を受けたので、自分の思っていることを書いてみようと思います。

まず教育を論じる上で大切なのは、何を理想・モデルとして子どもの教育を行うかということです。これは健聴児が対象であれば、大きな問題は無いでしょう。教育を行う方も、教育を受ける方も、同じチャンネル・言葉を使って情報を受け答え出来るからです。

聾児の場合、大きく別けて2つのアプローチがあると考えられます。まず一つは、聾児を健聴児と同じ様に「振る舞える」ことに重きを置くことです。就職する場合、日常的に上司や同僚達と会話をすることが想定されます。これはたわい無ない世間話から、仕事の指示にいたるまで様々です。

口話ができれば、聾児の社会参加ができると考える向きもありますが、これは聾児に「上からの指示を受け、それを忠実に遂行する事だけを求めること」になります。自分で考え、周りを巻き込んで社会を発展させて行く様な積極的な役割は、聾児には期待されていません。これは、耳の聞こえない聾児達が、どうやってたら耳の聞こえる様に振る舞えるかを、耳の聞こえる教育者達が突き詰めた結果であるとも言えます。耳の聞こえない聾児は、耳の聞こえる教育者にとって、いつまでたっても半人前です。これは精神薄弱児の社会参加のための議論と同じレベルであるとも言えます。

もう1つのアプローチは、聾児は普通の知性をもった普通の子ども達であるという認識から出発して、人間としての将来の活躍を支援する教育です。例えば、いろんな知識を与え、自分で考え行動する力を身につけること。聴児の教育では当たり前の事が、聾児の教育ではないがしろにされてしまうのです。

面白い話があります。大人の聾者を見た事が無い子どもは、自分が若くして死ぬだろうと無意識に思うことがあるそうです。つまり、社会参加している聾者のモデルが存在しないため、将来の自分の姿が、年をとって行く姿さえ創造出来なくなるのです。手話法では、当然のごとく聾児達の「自然言語」である手話(視覚言語)が大いに活躍しますが、これには人間的に成熟した手話を使える先生の存在が不可欠です。つまり、聾児達にとって社会参加のモデルとなる身近な大人の存在が非常に重要になります。口話中心の教育では、こういう先生は育ちにくいですから、いろんな意味で将来を見据えた教育理念が必要になります。

明晴学園の目指す所はここにあると私は考えています。普通の就職は難しいかも知れないが、子ども達の人間としての教育が実践できれば、彼ら自身が自らで生きる道を切り拓いていくだろう、そういう願いがこもっていると思います。

しかし、口話法は、実は全くの悪者ではありません。軽度の難聴の場合、補聴器を使う事で、普通の話し言葉でのコミュニケーションにあまり不便を感じないこともあります。聾の度合いは個人差が大きく、これで社会参加に対してポジティブな結果が得られるのあれば、大いに活用するべきです。重度の難聴の子どもであっても選択科目として口話法を習得する事だって可能なのです。

口話法教育の大きな問題は、読唇と発音練習にこだわるばかり、手話を口話習得を妨げる物として排除してきたことです。これには耳鼻咽喉科の医師達の意見が非常に大きな影響力を持っています。特に人工内耳の埋め込みをした子どもの親に、手話を使うと口話の習得のスピードが落ちると脅しているのです。

私はヒューマニズムだけを掲げて、手話を擁護している訳ではありません。一般的な人権擁護の手法自体が、耳が聞こえることに立脚しているため、聾者達の人権が侵されている事に大多数の人間が気付いていないということに警鐘を鳴らしたいのです。

これは非常に複雑な問題で、お互いの知っている事、理解している事の差が大きいのことが相互理解の妨げになっていると思います。しかし、疑問を持っていただける事は、私にとっても嬉しい事です。そこから議論が始まるからです。

ご質問に全部は答えていないと思いますが、取りあえずここで一区切りにします。






Last updated  2014.02.17 03:43:24
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2013.10.24
カテゴリ:手話
最近ユーチューブで東洋史家の宮脇淳子先生のお話をよく視聴する。

聞いていて面白いのは、現在日本で語られている「中国史」「朝鮮・韓国史」が嘘だらけであって、それを修正しようと見方だ。言語学でまかり通っている嘘を暴こうとする私のアプローチと重なる所が多くある。

先生によると、嘘の原因は、歴史の捉え方によるという。中国の歴史はプロパガンダ、韓国の歴史はファンタジー、日本の歴史はヒストリーというアメリカのどこかの大学の先生の言葉をかりて一発で表現なさっている。これに日本の自虐的歴史観があいまって、彼らにとっての外国である日本でも、この嘘がまかり通っている。

ただ、言語学の場合、嘘がどうしてここまで浸透してしまった原因が何処にあるのか、政治的な意図があったのか、それはわからない。

そしてもう1つ面白いのは、先生がメインストリームの歴史研究をせずにモンゴル史を専攻し、日本ではだれもやっていないジュンガル帝国で論文を書いたということである。つまり、誰にも負けない分野を作った後、他の分野の人と他流試合をするということ、これは京都大学時代の先生のアドバイスによるものらしい。

私も、手話に興味をもち、手話だけでなく聾者に関する様々な事を知る事で、自分の言語理論の構築をしてきた。手話研究も奥が深いが、これをしている人は言語学をしている人の中では極々少ない。今の言語学部では手話は必修ではない。

「井戸の中の蛙」にならないためには、専門分野で掘り下げたミクロの知識を、他の分野に応用すると言うマクロの視点が重要だとおっしゃる。まさにその通りだと思う。言語学は、手話という人間言語のもう1つの可能性を黙殺することで成立した。この歪みを修正しなければ、本当の言語学はありえない。

また頑張る力をもらえた様な気がする。







Last updated  2013.10.24 19:59:11
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2013.10.06
カテゴリ:手話
昨日は、言語学の障害を書こうと思って始めたのだが、話が少しそれてしまい、そのまま投稿してしまった。本題の言語学の障害に関しては、また別の機会に掘り下げたいと思うが、今日は特定知覚チャンネルへの特化について少し書きたいと思う。

私がここで「特化」という表現を使うのは、聴覚チャンネルに特化し音声言語になったり、視覚チャンネルに特化して手話言語になるにしても、それは自然の成り行きあるという事である。特に、聴覚チャンネルを使えない聾者達にとっては、音声言語への道を自ら選ぶ事は通常ではありえない。視覚チャンネルを使えない視覚障害者は、自然に音声言語を学ぶが、特別な教育を受けなければ聾児達が音声言語を話し始める事はない。

ここで人類は歴史上大きな過ちを犯してた。知覚チャンネルは人間が自由に出来る選択肢の1つであると考えたのだ。そして、手話に知性を見いだせなかった当時の教育者達は、聴覚アクセスできない聾児達に音声言語を教えようと考え、それを強要し同時に手話を禁止した。これは全ての国で起こった訳ではないが、ヨーロッパのフランス、そして日本では聾者の教育の権利を狭める結果になった。フランスでは手話法を使っていた時代、聾者の中にも高い教育を受けた人が多くいたが、手話禁止とともに暗黒時代を迎える。日本での禁止は50年後に来るのだが、やはり同じ様な悲劇を生む事になる。

アメリカでは禁止される事はなかったが、中途半端な形でサインが教育現場で使われる事により、英語と手話の融合が起きたのではないかと私は考える。普通の手話の場合、名詞の後に形容詞がつくのが普通なのだが、アメリカ手話では英語と同じ語順になる。それに、アメリカの聾者達は指文字でのスペリングを多用する。これは、手話の語彙を発達させ使うのではなく、あくまで英語からの借用語であり、英語の優位性を物語っている。

公に主張する人はいないが、フランスで手話が禁止された事の唯一のメリットは,自然な形の手話が、現在のフランス手話に受け継がれた事だと考える人がいる。日本の場合は、日本語の語順が手話の語順と似ていることによって、日本語の順番でサインを並べる日本語対応手話が一般に通じるという、また複雑な状況が生まれている。

手話には、抽象概念を示す言葉がないとか、手話に語彙が少ないと言うのは間違いである。教育を受ける聾者が増えれば、自然とコミュニティーの中で使う語彙の種類が増える。それが手話全体の語彙数アップにつながる。しかし、こんな理由で今でも手話を誤解している人が多い。

言語学を勉強する人、全てが手話をするべきだと思うが、今の言語学では返って、間違った考えを広めるだけになってしまう。言語学の大改革が必要なのだ。






Last updated  2013.10.06 07:34:42
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2012.08.05
カテゴリ:手話
前回の投稿の続き。。。Kyokette さんの質問への回答です。

「そうすると、「敬語」はどうなるのかという疑問がわいてきました。
手話には敬語にあたる単語はないような気がしますが、表す事はします。
相手に敬意を表す時、体を低くし目線を上げたりする行為がそうです。
例えば離散性に視覚言語の立場で観察した説明をつけるとすれば、この目線を上げる行為「目線の角度」は説明の要素に含まれますか?
私たち手話話者にとってこの「角度」は、一般人の健常者が使うそれとは大別されるのですが。。。
ちなみに、フランス人健常者が相手を指す時、tu、vousを使い分けますが
私の見た範囲では、フランス手話にはありませんでした。
でもやはり目線の「角度」がありました。」

まず「敬語」という文法概念ですが、これは日本語に特有なものと考えた方がいいと思います。これを意味でとらえて「相手に敬意を表する文法規則や表現」を他の言語に探す事は可能です。フランス語の場合「tu / vous 」の使い分けが「一部」これに該当しますが、フランス語のこの2つの主語代名詞の違いは、単数か複数かです。言語学では、言語のタイプが違う場合、似た文法現象がない場合に、このような意味による比較をよく行います。これはこれで、言語に関する知識を増やすという意味ではメリットはあると思いますが、比べられないものを比べていると私は考えています。

手話の「目線の角度」ですが、「目線の角度」を使い分けて、相手に対する「敬意」を表すのは、音声言語を使っている人たちの中でも存在します。ただこれは「文化的」の要素がありますので、全ての音声言語者が使う訳ではありません。例えば、目線をあわせない事で相手を敬う文化と、目線をあわせないと失礼になる文化があります。しかし、音声言語では、この要素は、言語学的な要素にはなりません。大きな意味では、言語的と言えるかもしれませんが、私が音声言語を考察する場合、(例えば電話の様に)相手が視覚的に見えない状況を想定します。こうなれば、音声言語の柱である「聴力による言語活動」に集中する事ができます。

私がここで論じている「離散性」ですが、一般に言語学が「文法規則」を記述しようとしているのとは違って、まず第一に、言語が成立するための基本条件に関わるものです。つまり、言語も持つ離散性とは、音声言語/手話言語という、チャンネル(聴覚/視覚チャンネル)への特化によって生まれる2つの言語タイプが共通して持っている認知構造です。私の考えでは、現在の言語学は、この「離散性」の存在を知っているにも関わらず、その本当の意味を理解しないで、文法規則を確立する事によって、言語とはなんであるかを定義しようとしています。もう答えが出ているのに、わざわざ答えを伏せて、答えを探している訳です。離散性にたどり着くには、発想の転換を迫られるので、これができていないと、真実が見えてきません。このブログは、この「パラダイム・シフト」を、どう言語学に起こそうかと考えて書いています。

手話言語における「離散性」ですが、まず様々な概念を閉じ込める「標準サイン」への文節が該当します。この時点では、音声言語が、離散性を使ってできる音素で「単語」を生み出しているのと似ています。音声言語の場合、この単語の一部が文の中で概念の離散化を作る役割をします。フランス語の「tu / vous 」は、会話の主体を3つ(1/2/3人称と)に離散化している人称システムの構成要員です。フランス語では、どうしても文を作る上で、話者か、対話者か、それ以外の第三者という図式〔(話者/対話者)/第三者〕の、どれに該当するか判断しなければ行けません。フランス人が日本語を勉強する時に、どうしても「わたし」をつけないと落ち着かないのは、この為です。主語代名詞による離散化にまったくもって依存しているからです。

私は、フランス手話を習いましたが、まだまだマスターには至っていません。逆に、マスターしていないことで手話に対して新鮮な視点を保てている部分もあります。Kyokette さんが観察なさっている「目線の角度」が具体的にどういう事を差しているのかは、私には分かりませんが、手話話者にとって「常に利用出来る状態」にあるこの運動機能を、何らかの「離散化」に利用する事は十分考えられます。実際、手話における「目線/アイコンタクト」は「文法的役割」をもっていることに注目して、様々な研究が進んでいるはずです。私も、幾つかの発表を聞いた事があります。

コーダの方について書かれたものを読んだりとかする機会はありましたが、直接お話した事はありません。もともと日本で手話と出会う事がない生活をしていたのですが、ある手話通訳者の方に会う事で、私の人生が変わりました。これは運命だとおもっています。実は、渡仏前は、ド・レペ神父のことも知らなかったのです。今年は、ドレペ神父の生誕300年の記念の年です。この機会に、手話の社会的地位が本当の意味で向上する事を願ってやみません。







Last updated  2012.08.05 06:57:01
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