新しい言語学の展望。。。
自分の考えている言語学が一般に広まるのはまだ先の先のことかもしれないが(全く理解されない可能性もあるが)大学等で、どういう形で教えられるのが理想か考えてみた。これは今の大学のシステムが「知ったかぶりをしている言語学者」を毎年毎年大量に生み出しているという現状を受けてのことである。「二極化した認知単位」によって生じる「二重の価値体系」これが言語の定義になる。これを説明するモデルとなる「離散性構造」を前提にすることを受け入れるのであれば、この説明自体はかなり具体的であり、これはあまり問題はない気がする。(ただここで私は、この「離散性構造」を持った人間の認知単位が、どうやって動物の認知単位から発展したのかという問題提起をしたい。ソシュールの提案した「記号学」を踏襲しながら、もっと踏み込んだ形の学問になる。「記憶」がキーワードになるから「記憶記号学 la mnemo-semiologie 」とでもいうのあろうか。これについてはまた別の機会で扱うつもりである。)「離散性構造」を受け入れるということは「言語現象の法則を記述すること、つまり文法の構築で言語の本質に迫ろう」という考えから脱却することになる。文法学者達が「法則」のように見ているもの全ては「離散性構造」が大元にあるのである。例えばツリー構造は、離散性構造があるからこそ成り立つものであり、ツリー構造を所与のものとしてそれから法則を導きだそうとしても意味がなくなる。もう次元が違うのである。こうなると1つ大きな問題が生じる。現在、存在している言語学の様々な分野がどうなるのかということである。まず、生成文法は言語学の歴史の1つとして語られることはあってもそれ以上の価値を見いだせなくなる。具体的な分野、例えば日本語とか手話とかという区分では、対象物はあくまでも存在するのであるからなくなることはないだろう。しかし、その手法が変わってくるはずである。ただ自分はそういう言語学がどのように新しい手法を構築するのかあまり興味がない。それよりは「離散性構造」がどのようにして生まれるかという根本的な学問の方に興味をそそられるからだ。この問題を解決する糸口になるのは言語の定義をきちんとすることであろう(最初に出した定義は間違いではないが、ちょっと簡単過ぎる)。分かっていないこと(例えばどうやって動物から人間になったのか)ははっきりさせた上で、分かっていることをきちんと説明して、言語学者がそれをきちんと守るのであれば道を踏み外すことはないかもしれない。新しい言語の定義。まだこれに関してはあまり自信はないが少しずつまとめていこうと思う。