「進化を封印」したピダハン。。。
ピダハンは、アマゾンの原住民の中でも異色の存在であるらしい。文化的な面でも、とても違っている。自分たちがどこから来たのかという「伝説」もない。しかし、これはピダハンが劣っているというわけではない。逆に言うと、自分たちの価値観を第一に考えることの出来るピダハン語はとても強いアイデンティティーを持っているといえるだろう。ピダハンの生活にはアマゾンの豊かな自然が不可欠である。この中で、何年、何十年、何百年、そしてたぶん何千年にも渡り、一つのライフスタイルを築き上げた。このうち最も重要なものが「進化の封印」である。言語は「差」から成り立っている、言語には「差」しかないと説いたのはソシュールであるが、言語を使うことは、共同体の中で「差」を生じさせることにつながる。昨日したことと今日したことの「差」を意識することで、更に明日何をするかを我々は思い、意識の進化が始まる。ピダハンの言語では、この差をいたずらに作ることを避け、アマゾンの自然のままに生きていくことを優先させているのではないかと思う。進化が無くても、アマゾンの自然のサイクルは十分生存に必要なものを提供してくれる。つまり、ピダハンは「進化を封印」したのである。今、ピダハンの村ではポルトガル語が教えられているらしい。となると、数の概念や、左右、そして時間の概念も入ってくることになる。ピダハンがそれらをどう受け止めるかに非常に興味がある。あくまでも、よそ者の持ち込んだ概念として、自分たちのアイデンティティーを崩すことがなかったら、ピダハン語の強さは相当なものであるといえるだろう。私は、この強さを考えるとき、日本語のアイデンティティーの強さを連想してしまう。これは日本人が外国語が苦手なのと大いに関係がある。日本語という特殊なシステムを一旦マスターしてしまうと、それを取り崩すことは難しい。これを日本の封鎖性とネガティブに考える人もいるだろうが、私はこれこそ日本の強みであると声を大にして言いたい。ピダハンの自然観と日本人の自然観。精霊を見るピダハンと、何事にも神が宿ることを信じる日本人。何処かで何か共通点があるはずだ。