「離散化」という概念は体感できるか。。。
「離散化」という概念は、物理的、生物的、認識的、言語的現象の背後にあるものであり、それを直接感じることは難しい。私はそれらを全て「離散システム」あるいは「離散系」と呼ぶ。言語も離散系の一つであるが、これを日常的に使っている限りでは、離散化したシステムを感じることは、ほぼ不可能に近いだろう。言語は、古代から人類が抱える大きな謎の一つであった。今でも、言語学者や哲学者たちの間で熱い(不毛な?)議論が戦わされている。日本人が、離散化を感じることが一番できるのは、多分、日本人が遺伝的に持っている「匠の心」によってであろう。ものづくりというのは、まず単純作業を重ねることから始まる。そして同じ動作ができるようになることで、品質が上がっていく。しかし、それだけでは本当のものづくりにはならない。その上を行く革新的な発想によって、更に技術が向上する。こうして日本の技術の伝統が培われてきた。しかも最近は、伝統技術だけを繰り返し実践しているだけでは、この世界で生き残っていけないということで、更に新しい発想、新しい分野への応用とか、頭を使う必要が出て来る。このとき、我々には「閃き」というものが起きる。私はこれが「離散化」であると考えている。「閃き」というのは、今までとは違うパラメータを使って物をつくったらどうだろうと思うことである。つまり、パラメータの変化によって「同じであるけれど違うという状況」を生み出すことであり、これが新しいものの誕生につながる。コロンブスの卵やニュートンの林檎も、実は「離散化」が働いた結果である。私も折り紙の創作では、よく経験する。ただ、全ての閃きがうまく行くわけではない。閃きから実現まで数年間を有する場合もある。しかし、閃きによって今までに無かった新しいコンセプトの作品が生まれるのは、非常に充実感を感じるプロセスでもある。技術をよく知っていて、日常的に修練することの先に、また新しい閃きが興り、それを実現するためにまた修練を行う。しかし、一旦完成した技術は、コピーするのは簡単であるから、最先端で活躍するためには、更に新しい技術を生み出さなくてはならない。日本的な技術革新はこういうことの連続なのだと思う。そして少しずつ「人類の進歩」という形で結実していくのだろう。