「離散性」とは何か。。。2
一眠りして(ひとまず)結論が出た。「離散性」というのは、この宇宙の摂理なのだ。(これは、前から自分の頭でわかってはいたのだが、誰にもわかってもらえないかと思い、無意識に書くのを躊躇していたと思う。)カオス(混沌)という、何らかの波動運動(光?)はあるが、何も持続しない、あるいは何も残らない状態に対して、離散化(力?)が働くことで、互いを認識しあう座標価値システムが生まれ、これが同時に自己同一性を持つ物理的な個々を生み出す。システムと個々は表裏一体、つまり離散性と自己同一性も同様に、同じものを違う観点から見ているに過ぎない。カオスという状態から抜け出すということは、とりもなおさず記憶が発生するということである。自己同一性というのは「自分が同じであること」つまり「自分が持続する」ということであり、そのまま記憶という概念に通じる。つまり、離散性、自己同一性、記憶というのは、全て同じものを別の視座から見ているだけなのだ。カオスから最初に生まれる座標価値システムは、電子の数という周期を持つ物質とそれが同時に生む時空間であるが、一旦、離散化によって生まれたシステムは、離散化ループという形で、システムを更に高次、つまりコスモスの状態に近づけるように進む。これが記憶の進化である。人間は、現在、この進化の最先端にいるが、まだまだ記憶の進化は終わっていない。どの方向に進化が進むのか、私にもまだ確証はない。これを探ることが私のライフワークでもある。記憶は、存在とは違う。何かが存在するためには、それを認識できる何かが先ず存在することが大前提であるが、記憶というのは、全てのもの、すなわち「個々」が、お互いを認識しあうことによって持続していく。存在が静的な世界観とすると、記憶は動的、いや反復性をもった世界観である。離散性の世界観は、西洋の世界観とは相容れず、仏教や日本文明などの東洋的な思想との相性がよい。西洋でも量子力学という形で、離散的な価値観となんとか折り合いをつけようとしているが、量子力学自体が矛盾に満ちており、今後学問として維持できるかどうかも甚だ疑問である。離散性を理解できるようになるためには、何らかの原体験が必要かもしれないと、ふと思った。私の子供の頃の疑問の1つに「か」を長く発音すると、どうして「あ」になっててしまうというのがあった。まだローマ字を習う前で「か」が「ka」という二つの音素に分かれることを知らなかったのだ。また、「や、ゆ、よ(ya. yu, yo)」はあるのに、どうして「yi, ye」は五十音表にないのかというのがあった。これは「ゐ、ゑ」)の存在を知ることで、昔の日本語にはあったが、現代日本語では消滅してしまったことを知った。私のこのような原体験は、私を言語学の道にいざなってくれた。離散性に興味を持てる人は、きっと他の分野で同じような原体験を持っている人たちだろう。離散性は、もしかしたら万人のための科学ではないのかもしれない。一握りのエリートとは言いたくないが、この世界や宇宙を本当に知りたい人たちにだけ訪れる幸運なのかも知れない。そして、日本人であることは、自らが既に進化する価値システムの中で育まれたということであり、この感覚を持ってすれば、離散性という宇宙の摂理を理解することは、他の言語民族と比べてはるかにたやすいはずだ。日本人に生まれたことは私にとって最大の幸運だ。