西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」を読んで。。。2
「絶対矛盾的自己同一」の冒頭の部分である。http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html「現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。」この段落の最後の文であるが、西田は「現実の世界とは物と物との会い働く世界でなければならない」としているが、西洋的な物理学という科学観を通してみると「現実の世界は何処までも多の一で無ければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない」とし、彼の持つ日本的な科学観と西洋的な科学観を対照して「絶対矛盾的自己同一」と名づけたのでは考える。これは、現実世界が西洋的な科学観によってのみ捉えられているが、それに対抗する日本的な科学観がまだ確立されていないことを嘆いた言葉といえるだろう。これは、その次の段落から読み取ることができる。「かかる世界は作られたものから作るものへと動き行く世界でなければならない。それは従来の物理学においてのように、不変的原子の相互作用によって成立する、即ち多の一として考えられる世界ではない。爾(しか)考えるならば、世界は同じ世界の繰返しに過ぎない。」かれは、同じ段落の中で「現象即実在として真に自己自身によって動き行く創造的世界」という表現を使っているが、これは「記憶の進化」に通じる概念であると見ることが可能ではないかと考える。まだ、読み始めたばかりだが、これからも少しずつ読み込んで行きたいと思う。