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カテゴリ:教育
場所:(青森県三戸郡新郷村戸来) ここ最近、いろいろと作業に忙殺されています。 それに加えて、セミナー、講演、勉強会等に参加して、 頭が煮詰まっています。。。 ちょっと切り替えるためにドキュメンタリー系の番組などをチェックしてみました。 偶然みたTV番組で“酒井勝軍”氏という人物が登場して、 あまりの突拍子のない発想?と歴史観に触発されて、 いろいろと調べてみました。 日本という国の不思議さ、奥深さ? を再度認識させられました。 また知的好奇心を触発されましたので、 あくまで個人的な趣味において、 ここに検索内容を残します。 酒井勝軍 ⇒出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 酒井 勝軍(さかい かつとき、1874年3月15日 - 1940年7月6日) は独自のキリスト教伝道者、 日ユ同祖論者、 オカルティスト、 「日本のピラミッド」発見者である。 1874年3月15日山形県上山町(現上山市)で生まれる。幼名を山下勇吉といい、後に酒井姓を継いだ。山形英学校に入学するものの、家庭の事情で退学をする。 1888年(明治21年)J.P.ムーアによるキリスト教の洗礼を受けて、キリスト教徒になる。 1894年(明治27年)東北学院に入学。苦学して卒業した。 1898年(明治31年)渡米してシカゴ音楽大学、ムーディ聖書学院に学ぶ。 1902年(明治35年)帰国する。直ちに東京唱歌学校を設立し、新進気鋭の牧師として頭角をあらわしていく。 (省略) 1934年(昭和9年)4月24日、酒井は広島県庄原市を府中町専売出張所所長である堀準衛ーらとともに調査し葦嶽山をピラミッドであると断定した。5月30日に中国新聞記者らに公開調査し、全国の新聞に報じられ、広島県の山村の村が一躍脚光を浴び、続々と見物客が押し寄せることになる。 (鳥谷幡山が1934年(昭和9年)10月、青森県戸来村(現新郷村)において、ピラミッド大石神を「発見」する。 1935年(昭和10年)8月初、同ピラミッドを訪問した、竹内巨麿は塚を発見したとし後にキリストの墓とした。[2]) 9月11日の講演の後に飛騨高山でピラミッド上野平を「発見」する。 同年、『太古日本のピラミッド』(国教宣明団)出版。 その後、続々と「日本のピラミッド」は「発見」され、現在に至っている。 酒井が提唱する日本のピラミッドとは、日本のものがエジプトをはじめ海外のように人工的に造られた建造物ではなく、自然の地形を利用しながら半人工的に石や土を積み上げて造られたものだという。そして数千年という長い年月の中で日本の風土環境の中、自然の山のようになってしまった。これは、古墳が地上から見たのでは自然の山々と区別がつかないのと同じであると唱えている。 キーワード “竹内文書” “竹内文書 キリスト” 『竹内文書』 竹内文書は人類の「創世記」である 竹内文書は茨城県磯原(北茨城市)の皇祖皇大神宮天津(あまつ)教の官長職竹内家に代々伝えられたという神代史関係資料である。 そこには元始神の宇宙創成、神々の地球光臨、人種・文明の発生が年代誌的に記されている。 竹内文書によれば私たち人類は過去二度にわたって《上古25代、不合(フキアエズ)朝73代》高度の文明を建設してきたことになっている。 そしてムー、アトランティスの沈没をもたらした大異変(1万2千年前?)によって崩壊した。 竹内文書は「禁断の書」である 竹内文書は、戦前その一部が公開されたとき、その内容に当時の最大タブーだった皇室の出自(天皇家の祖先)に触れている部分や、 古代における日本とユダヤとの深い交流を示す箇所があった。 このことから(特に国民信仰の中心とされていた伊勢の皇大神宮にまつわる記述)、公開者の竹内巨麿(タケノウチキヨマロ)《義宮氏の父》は当局ににらまれ、 昭和12年『不敬罪』で起訴され、天津教は解散させられた。 巨麿の起訴と天津教の解散とほぼ同時に、竹内文書自体も、当時の碩学と謳われた加野亨吉j博士によって徹底的に批判され、学問的に偽書、偽作と断定された。 以来、竹内文書は歴史家にとって、単に異端の書であるだけでなく『禁断の書』となった。 現在、古代史・国語学者でこの文書の存在を知らないものは無いといわれているにも拘らず、いずれも「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿主義をとっているようだ。 竹内文書は「日本人の存在証明(アイデンティティ)」のルーツである 現代に生きるわれわれ日本人の「日本人の存在証明(アイデンティティ)」の追求は、日本列島と世界との係わり合いの歴史を無視しては成り立たない。 ひとくちに我々は、単一民族(日本民族)とはいうものの、厳密にはそれぞれルーツを異にする複数民族を祖先に持っている。 それ故この民族統合の精神的な基盤(バックボーン)となるべき宗教的な信仰に於いては、キリスト教や回教国の一神教の人々からみるとかなり異色である。 たとえばわれわれの身辺から見ても、神道・仏教・キリスト教と実にバラエティに富んでいる。 生後30日目や七・五・三のお宮参り(神道)。結婚式は教会(キリスト教)で挙げ、葬式はお坊さんにお経をあげてもらう(仏教)。 あるいは上棟式は神主さんに御祓いをしてもらい、元旦には神社に詣でる(神道)。盆踊りに興じ(仏教)、お祭りでワッショイと騒ぎ(神道)、 クリスマス(キリスト教)にはケーキを食べる。 平均的な日本人はこれらの神・仏・キリストが混淆する歳時記的な行事になんら違和感を抱かず、ごく自然に溶け込み慣れ親しんでいる。 このことは確かに欧米人にとって理解しがたいであろう。 日本人のこの雑多な宗教的感覚のルーツは太古代に求めるほかはあるまい。 これは「万教帰一」、「万教同根」という原始神道に根を発しているのである。 竹内文書を貫く一本の線がこの原始神道的な世界観なのである。 ⇒“竹内文書” 『キリストの墓』 昭和10年、竹内文書を元に誕生した新たな伝説の地。 ⇒キリストの墓 「竹内文書」の真偽についてのコメントは避けておくが、この地がキリストゆかりの地であるという根拠は他にもあるのだという。その根拠とは、 ・この地域の字「戸来(へらい)」という地名は「ヘブライ」が転訛したもの。 ・旧家坂口家の家紋はユダヤの紋章と同じ。(坂口家の家紋は桔梗で五芒星に見える。) ・子供が生まれて初めて戸外に出すときに、額に十字を墨書する。 ・足にしびれが切れたとき、人差し指につばを付けて額に十字を3回えがく。 ・父親を「アヤ」、母親を「アパ」と呼ぶのは、「アダム」「イブ」の転訛したもの。 盆踊りの謎の文句「ナキャドヤラー、ナニャドナサレノ、ナニャドヤラー」は古代ヘブライ語で「お前の聖名をほめ讚えん、お前に毛人を掃蕩して、お前の聖名をほめ讚えん」と訳せるのだという。 場所→(青森県三戸郡新郷村戸来) 関連HP↓ 青森県三戸郡新郷村大字戸来にキリストの墓なるものがある。 ⇒青森・キリストの墓 Wikipediaで検索すると“八戸のキリストの墓” など、興味深い歴史と史跡が学べます。 知的好奇心をくすぐられたいかたは、 ↑のキーワードで検索してみてください(^^) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 28, 2009 10:39:23 AM
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