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オージー生活

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秘密のヒーロー

秘密のヒーロー

レポーター/語り部: 60年前、太平洋における戦争は終わりに近づこうとしていました。そして日本皇軍の退却にともない、その残虐行為も明らかになりました。チャンギやビルマ鉄道での死の捕虜収容キャンプのことは、オーストラリア世論にショックを与えました。しかし、他にもあったのです。その場所でのことは、あまりに野蛮で残酷であった為、オーストラリア政府は世間には知らせまい、秘密にしておこうと決めていました。その場所は、サンダカンといいます。ボルネイ島の中のこの日本軍のキャンプでは、オーストラリア軍捕虜の死亡率はほぼ100%でした。しかしながら、つい最近になって、ここで死んだ男達の家族が真実を知ったのです。それは極めて常識はずれの恐怖とヒロイズムの話でした。

ストーリー

レポーター: (壁に数多くの兵士の写真が飾られている)これらは、運命づけられた方達のお顔です。キャンベラの戦争記念館の一角の壁一面に、1800人の方の写真があります。オーストラリア人の、若者たち、息子達、兄弟達、夫達、そして父親であった方さえもいます。この方達全ては、オーストラリアの第二次世界大戦における悲劇の中でももっとも悲惨な死の犠牲となったのです。サンダカンという、ボルネオのジャングルの中の蒸し暑い場所で。

ライネット・シルバー女史(歴史家):1800人のオーストラリア人捕虜がいて、たった6人だけ、なんとか逃げきった6人が生き残ったんです。英国人捕虜が650人いましたけど、生き残った人はいません。この事実は 第二次世界大戦におけるもっとも悲惨な汚点といえるでしょう。特に、その死がどのように遂行されたかということは、かなり注意を惹くと思いますね。

レポーター: (ジャングルの中にいる)ボルネオのサンダカンに来ています。最悪の日本軍キャンプのあった場所です。ここは、今は、記念公園になっていますが、歴史家のシルバー女史は、ひどい秘密があった場所なのだと言っています。

シルバー女史: あまりにひどい出来事だったので、オーストラリア政府は熟考の末、近親者に何があったのか伝えないことにしたんです。そしてそれがこんなに長い間、サンダカンがどういう場所で何があったのか知られなかった理由です。

レポーター:300,000人の連合軍が、1942年のシンガポールにおいて降伏しました。彼らは、チャンギで、ビルマの鉄道でもの言わぬ捕虜にされたわけですが、明らかに、サンダカンが中でも最悪だったのです。

キース ボートレイル氏(サンダカンの生き残り): 表現のしようがない。ただ大きな死の家だ。死の家だよ。

レポーター: キース ボートレイル氏は、サンダカンで生き残った6人のうちのひとりです。歴史は生き残った者によって書かれるといいますが、この場合は、それを書く人があまりに少なく、それを語る人は誰も生き残っていません。ボートレイル氏はこの事件にとりつかれたまま10年前に亡くなってしまいましたが、彼の悲惨な体験は永遠に生き続けるでしょう。

キース ボートレイル氏: みんな病気だった。赤痢、かっけ、マラリア、破傷風、栄養失調。それにあの匂い、、、死臭がするんだよ。あそこではいつでも死臭がした。みんな一緒に苦しんでた。そういうのはみんなを近くさせるんだな。 私は皆を埋めなきゃならなかった。私は百人以上の良い友達を埋めたよ。わかるかい?

レポーター: 1944年までには、日本は太平洋における戦争に敗色が濃くなっていました。しかしそれが、連合軍捕虜にはもっと堪え難いことになるのです。サンダカンにおいては配給は削られ、事実上ないも同然でした。死亡率は、跳ね上がりました。
最後には全ての捕虜を殺してしまおうという決定がなされたのですか?

シルバー女史: ええ。1944年の終わりには、決定がなされたようです。撃つか毒を飲ますか首つりにするか、何にせよ、なされなければならないと、誰も生き残らせてはならないと。 "皆殺しにせよ" それが日本軍の言葉でした。.

レポーター: (ふただびジャングルから)この者たちは殺さなければならないのだから。日本軍は殺すことに決めてから役付けをしました。この者たちを、ボルネオの山の多いジャングルの中を日本皇軍のための荷運びの動物代わりに使おう、と。1940年代、この場所は、人の立ち入ることがなかった森で、南洋の野生に満ちていました。この、死の行進として知られるようになった行進は、飢えた捕虜が、地球上で最も荒れて曲がりくねった、蒸気の上がるような道程を250kmも歩かされた行進です。それはちょうど今頃の季節でした。今日は気温36度。信じられないほど蒸していて、湿度は100%です。私には確実にそう感じます。溶けそうです。1時間もここで耐えられるとは思えません。そう言いながらも、周りを見れば、ここは筆舌に尽くし難いほど、地球上でも最も美しい場所の一つだといえます。捕虜の方々がそのように見たとは思えませんが。 植物に深く閉ざされたこの辺りは、緑の檻だと言われますが、 確かに檻なのです。たった6人だけがかつてそこから逃げたすことのできた檻。

キース ボートレイル: もし気分が悪くなって、足に脚気があったり弱り切ってて、米を運べなかったら、撃たれるか銃剣で刺された。何日にも行進してると、私たちはゾンビのようになって、自分が今歩いているのか眠っているのか休んでるのかさえわからなくなった。終わりがないからね。どこへ行かされるか、どこに向かっているのかもわからなかった。太陽や空を見上げられることはあまりなかった。つらい行進だったよ。木を背に立ち上がり、足踏みをする。自分が死にかけてると思った。そう思ってたから、翌朝目が覚めると驚いたもんだよ。

レポーター: 60年後の今も、サンダカンでの恐怖はまだ詳細が明らかになっていません。はりつけ、去勢、恐ろしい殴打、拷問、そして最も口にされないことですが、カンニバリズム(人肉食)。

シルバー女史: 荷運びの捕虜の中から選んで、彼らの足を切ったり手を切ったりしたという話です。手や足はあまりに痛がるし、胴は川の下のキャンプまで運んで食したんですね。

レポーター: 日本の降伏後、オーストラリアの戦没者の慰霊団体は遺体を見つける為にボルネオに入りました。政府はついに何があったのかを知りましたが、誰にも告げないことにしたのです。限度を超えているからと。事実はあまりにひど過ぎるとされて。フランク マリーのような息子達は、自分の父親に何が起こったのか、今まで語られたことはなかったのです。

フランク マリー(死んだ捕虜の息子): 私が会った人はみんな、受け取った電報には彼らはマラリアで死んだと書かれてたそうです。他には何も書いてなかった。

レポーター: そのことに怒っておられますか?

フランク マリー: もちろん。誰かがやってきて自分の父親に何が起こったのか真実を言わないで、どう思うと思いますか?

レポーター: 捕虜キャンプにおける、1787人のオーストラリア人の死者についての裁判が、ジャングル戦の裁判に次いで開かれました。
脱走した6人の生き残り兵のうち、3人はオーストラリア軍の救助兵に助けられました。

ロフティ ホッジス(オーストラリア軍救助兵): ああ、彼らはいつでも死ぬ用意ができてる風だった。どんな風に見えたか言い難いけど。。。言うなれば、骸骨の上に皮がのってるみたいだったよ。

レポーター: ロフティ ホッジスは、オーストラリア軍救助兵として、日本軍の降伏直前にボルネオにパラシュートで降り、キース ボートレイルを含む3人の生き残り兵を見つけたのです。.

ロフティ ホッジス: 彼を抱き上げたよ、赤ん坊みたいに。だって赤ん坊くらいしか重さがなかったんだ。

レポーター: あなたは大きな大人だった?

ロフティ ホッジス: ああ。そのときはね。彼を抱き上げて、赤ん坊みたいに抱っこして、背中に乗せたよ。

レポーター: まだこのことはあなたに取り付いてるようですね?

ロフティ ホッジス: ああ。まったくね。

レポーター: 彼ら二人の繋がりは生涯続きました。 そしてキース ボートレイスルというボルネオで何が起こったかと言う生きた証拠は、日本軍守衛兵士10人を戦犯として起訴するもとになりました。しかし、特にひどい犯罪が一件あります。1945年の5月、リッチー マリー兵は、殺されました。ボートレイル氏の心から消え去ることはなかった事件でした。それはレナウで起こりました。死の行進の終着地です。日本軍は、オーストラリア人捕虜が、食糧を盗んだことを見つけたのです。さあ、日本軍守衛兵は、気が狂ったように復讐を始めようとしました。それで、オーストラリア人捕虜30人を立たせ、怒りに燃えたぎる軍隊の前に並ばせ、"盗んだ者を突き出せ。さもなくばお前ら皆を撃ち殺す" このときの列の中に走る緊張が想像できますでしょうか?日本軍は本当にそんなことをやるのか?ああ、リッチー マリーはやると思ったのでしょう。過去の仕打ちから。そしてこれは私の聞いたオーストラリア軍の歴史の中でも最も勇敢な行動だと思うのですが、リッチーは日本軍守衛兵を睨みつけ、前に一歩進み出たのです。

シルバー女史: 彼は前に進みでました。そして言ったのです。"私が食糧を盗みました" 死ぬことは分かっていたのでしょう。日本軍は彼を引っ張り出すと殴打し、銃剣で死ぬまで突いたのです。

レポーター: こんなふうに友のために命を投げ出したような明らかな例は今までなかったですね。

シルバー女史: まさに。彼はこのひどい話の中で唯一自ら命を投げ出したんです。その後何が起こるかよく分かっていながら。

フランク マリー(リッチー マリーの息子): (読んでいる) "彼は足を踏み出したのだ。友の為に命を犠牲にするために。忘れることはできない"

レポーター: あなたがこの部分を書いたのですか?

フランク マリー: ええ。

レポーター:書くのはつらかったでしょう?

フランク マリー: ええ。ええ。ええ。とてもつらかった。考えれば考えるほど、たまらない。心をとらえることです。

レポーター: 50年間、フランク マリーはどのように自分の父親が死んだのか、ボルネオの戦没者碑の中のどこに埋められているのか知りませんでした。しかし、歴史家のシルバー女史は、山のような戦時記録から法的にたどり、墓場の場所だけでなく、彼の父親の英雄像を語ることができたのです。

フランク マリー: どこに父が眠っているのか、どのように死んだのか知って安心しました。そしれこのような尊敬に値する事実を知ることができたんです。

レポーター: フランクが彼の父親の話と墓の場所を知ることが出来た一方、他の皆は、コリン プライオアのように、自分の父親の話を知らず墓もわかりません。彼の父親レスリーは、誰のものともわからない戦没者碑の中の一つに眠っています。

コリン プライオア: 父の遺体は見つけられなかったんです。ただ、消えてしまったんです。シルバー女史のが考えるところによると、父は米を運んでいて、死ぬことが分かっていたので、森の中に潜り込み消えてしまい、足跡を見つけることもできないようになったのだろうと。

レポーター: お父さんを見つけることはあなたにとって重要なんですか?

コリン プライオア: ものすごく重要ですよ、もちろん。何年も父に何が起こったのか知らず、私の残りの人生には手本にする人もなければ背中を見てついていく事のできる人はいないとされたんですよ。スポーツをする時は周りの子供達には父親がいる、だけど自分にはいない、そんなことがずっと続いていたんです。

レポーター: このような悲惨な話を終わらせるのに必要なのは、いつも救済と理解の感覚です。それは先だってのアンザックディにありました。
サンダカンのセントミカエル教会には、この歴史にほとんど忘れられかけていた犠牲者に捧げ、彼らを永遠に忘れないように、家族や友や親戚から寄せられた寄付により、記念の窓が作られたのです。

シルバー女史: 彼らは決して、決して生きる為の戦いをあきらめませんでした。だから私たちは彼らを見上げて、犠牲者としてではなく、ヒーローとして見るべきだと思います。

レポーター: それでは、これは人間の魂の勝利だと言えそうですね。

シルバー女史: 人間の弱さを超越した魂の勝利でしょう。サンダカンに作られた窓、これが見せたかったもの、これが魂の勝利です。私は、ここは、第二次世界大戦におけるガリポリ(アンザック軍が戦って死んだ第一次世界大戦の際ののトルコの土地名)になり得ると思います。ここはガリポリと同じくらいの感動を呼ぶ力があり、霊場であり、全力を尽くして戦って、そしてその人たち全てを失ってしまった。。。素晴らしい感動を呼ぶ場所だと思います。

フランク マリー: ここに立って見下ろしていると、その他の感情は全てなくなってしまう。ただ喪失の感情だけです。考えてみてください。時にはもう終わりだ、と思うことがあるかもしれない。でもそんなことはない。私は終わりたくない、石になりたくはないから。

レポーター: ありがとうございました。


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