昔はこの時期になると、毎年テレビで「忠臣蔵」の映画をなにかしら放映したものだが、近年はさっぱりになった。
それも当然のこと。今の若い世代でこの史実や芝居に興味のある人は皆無といっていいだろう。赤穂浪士も48名いれば「AKR48」として時世に応じたパロディにでも仕立てたいところ、残念ながら義士は47名なのだ。今やテレビはバラエティ天国。元禄赤穂事件のスターたちが活躍する場は無い。
さて、赤穂事件を基にした「忠臣蔵」映画はたくさん作られているのだが、私は1961年(昭和36年)公開の『赤穂浪士』が特に気に入っている。
この作品は大石内蔵助と千坂兵部、浅野内匠頭と脇坂淡路守といった男同士の友情を中心に主君の仇討ち劇を描いているのが特色で、特に脇坂淡路守(中村錦之助)の絡むシーンはみな痛快で感動モノだ。
「忠臣蔵」には定番となった名シーンがたくさんある。しかし、私が最も好きなシーンは「刃傷松の廊下」のようなハイライト部分ではない。それは、浪士となった大石一行が江戸へ向かう途上の旅籠で九条家用人立花左近から温情を受ける一幕だ。
私はこの場面を見ると大石ら一行と同様に感涙の極に浸ってしまう。なんとなれば、忠臣の至難な仇討行にあってこのエピソードにこそ大時代劇の真髄、大きなテーマである「武士の情け」が端的に描かれているからだ。
私はこれを劇場で観た世代ではないので、里見浩太郎など今は大ベテランの若かりし頃の姿などなんとも新鮮だ。松方弘樹には苦笑してしまう。(失礼ながら)なんという大根。これでは清水一角役で出演している父(近衛十四郎)も恥ずかしかったろう。これだけのオールスターキャストで占められる大作のなかにあってはね。
多くの俳優が演じている三大主要役柄、大石内蔵助、浅野内匠頭、吉良上野介の配役もこの顔ぶれがベストだと思うし、実は史実よりも創作が大部分を占める「忠臣蔵」物語にあって、この脚本はもっとも時代劇らしさが出ていると思う。
浅野内匠頭が吉良上野介から酷い恥辱を受けたというのは一つの推測だが、こうしたパワーハラスメントはずっと昔から常にあったに違いない。だからこそ赤穂事件を基に「忠臣蔵」という芝居が出来、それが大うけしたのである。
今日でもこのパワーハラスメントは大きな社会問題となっており、いつ爆発して大事になってもおかしくないマグマの塊のような危険な状態となっている。しかるに、今この「忠臣蔵」劇があまり顧みられないのはなぜなのか。
やはり日本人の中に「武士」がいなくなったということなのかな。武士の魂、武士道精神は敗戦とともに消えたのかもしれない。

赤穂浪士 [ 松田定次 ]