2007/05/04(金)04:27
★特待生問題★ アマ野球の歴史を振り返る
球界他事ログ 自論「特待生問題」(2)=特別号=本ブログはアマチュア野球関連記事を読んで、私的感想、批評、罵声、反省を書いて行きます(編集人:G一筋ウン十年 末裔まで巨人な古馬道)
「野球の歴史と現状を考える」
学生憲章に付いて批判が集中してますが、何故このような憲章が生まれたか振り返ってみましょう。
◆野球の始まり
日本に初めて野球を紹介したのは1873年(明治6年)開成学園(東京大学の前身)の米国人教師、ホレエス・ウィルソンとされています。歴史的に見れば、伊藤博文や岩倉具視などの「明治維新の主役達」が日本を改革している最中に、日本人は野球に出会ったのです。
その後野球は、当時の学生(現:大学生)を中心に広まり、やがて「用具」や「用語」も整っていきます。同時に早稲田、旧制第一高等学校(東京大学)が”学校別対校試合”をする等、活発になっていきました。それを子供達が観戦をして、空き地や原っぱで「草野球」(1910年頃)で遊ぶ姿が見られるようになったといいます。
それから「草野球」が日本全国の青少年に広まるに連れて「親達」の野球に対する関心も高まって行き、「各学校単位」で「野球後援会」が設立されるようになります。主な設立の目的は経済的に支援することにありました。それが講じて試合(大会)運営や練習方法にまで干渉するようになって行き「子供の遊び」の範疇から逸脱して行きます。ここで「学校制度」を述べておきますが、1886年(明治19年)に学校令が発令され、小学校の4ヶ年義務教育制度が確立されました。以後、年々就学率は上昇し続け、1907年(明治40年)に、義務教育6ヶ年制に移行されています。
◆「野球バッシング」
一方この頃、東京朝日新聞社が1911年(明治44年)に紙面上で「野球害毒論」が掲載されます。主な内容は、学生の本分は勉学に励む事であり、その時間を野球は疲労を伴うために弊害が起きる。また大人達(後援会)が慰労会の名目の飲食させる(分不相応な食事)ことは堕落に向かう。そして「野球」そのものが運動競技として不完全なもので、片方の手で球を投げると、その腕だけが異常に発達する・・・など、一部の内容は現代でも当てはまる事例(栄養費)が、既に明治時代に指摘されていました。
この記事については大きな反響を呼びました。当時「朝日新聞」は国内最大の全国紙でしたが、その支社である「東京朝日新聞」と熾烈な拡販競争をしていたのが、「東京日日新聞」(現・毎日新聞)でした。同紙は約半月間、「東京朝日新聞」の掲載内容を批判する「野球擁護論」を展開、新聞の拡販戦争の為や存在価値を高める争いが始まります。ちなみに「読売新聞」は、この当時まだ大きな力はありませんでしたが、中立を保ちながら両新聞社の賛否両論を展開していました。結果的にこの論争は「野球」への関心を高めることになりました。
◆企業と商業新聞社
この頃、各地区で旧制高校が主催する硬式の中等学校野球大会が盛んに行われていました。そして、1915年(大正4年)、箕面有馬電気軌道(現:阪急電鉄)が、各大会の優勝校を集めた「全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)」の企画内容を「大阪朝日新聞社」に持ちかけることになります。しかし「東京朝日新聞」が野球を“害毒”扱いしていたため、大会を主催すると「朝日新聞社」としての主張に矛盾が生じてしまいます。そこで「大阪朝日新聞」は、「野球界の監視、指導役として健全な方向に向わせるべく計画、後援する」という方針を打ち立て、支援にすることになりました。具体的な内容は、優勝チームに辞典や図書券を贈呈、そして入場行進や試合開始前の一列に並んで礼をする、さらに連帯責任の強化など、教育的意義という新しい要素を盛り込みました。これは、「野球害毒論」を論じた「朝日新聞社」が、精神”や“教育”という言葉で覆い隠して、時世に乗る為でした。
◆教育機関からの「野球統制令」
一方「野球」は既に「遊び」ではなくなり、このような「大人達」が様々な形で支援を始めていることについて、当時の文部省(現:文科省)は事態を重く見ました。要するに「学校」は「教育機関」として位置付けていたため、余りにも「野球」に熱中する環境に、危惧したためです。
そこで1932年(昭和7年)、当時の文部大臣鳩山一郎は、文部省令として「野球統制令」を発令しました。 これが今話題になっている『日本学生野球憲章』の土台となって行きます。その中身を簡単に紹介すると、まず「小学生野球」については、「主催者の限定」を必要とし、学校間の試合は、校長の責任下において開催されなければならないとしました。また「中等学校」の野球についてはさらに厳しく、その管理は「府や県の体育団体」に一括し、学校間の対抗試合は年1回、府県下の大会出場も年1回、全国大会出場も年1回のみとされました。
特に小中学校野球が厳しく規制された背景として、教育現場では様々な弊害が起こっていました。それは
(1)小中学校の野球が興行化(有料試合)されていた
(2)大会に出場するために意図的に留年する生徒がいた
(3)大会に出場するために生徒の転校が頻繁に行なわれた
(4)平日に授業を犠牲にして試合が行なわれていた
(5)学校とは別にクラブチームにも所属していた生徒がいた
(6)大会の優勝チームは、主催者またはそれ以外の団体から多くの褒賞が与えられていた
などです。
当時の新聞には「純直にして、かつ教育の軌道に乗った野球に立ち返らせんとするもので、案そのものは教育的見地から極めて結構なもの」と、この「野球統制令」に評価を与える記事が掲載されたといいます。
以降「大阪朝日新聞社」によって実施されていた「全国中等学校優勝野球大会」を運営する目的で結成された「全国中等学校野球連盟」が発足しました。そして、後の第二次世界大戦の終結によって、1947年(昭和22年)に学制改革が実施され、中等学校が高等学校へ改組されると同時に「全国高等学校野球連盟」と改称されます。さらに1963年(昭和38年)には、当時の文部省から財団法人として認可され『財団法人日本高等学校野球連盟』と名称が改称しました。
◆大東亜戦争の傷
第二次世界大戦の際、戦局悪化で徴兵年齢の引き下げ(満17歳以上)によって、陸軍幼年学校や海軍飛行予科練習生、陸軍少年飛行兵などに召集され、その悲劇を一段と拡大しました。また甲子園球場も、1943年に名物の大鉄傘が海軍に供出されて、高射砲基地となりました。そして1945年8月6日、広島県に原爆が投下され、兵庫県も大空襲を受けて戦火にさらされました。戦場に行かないまでも、勤労動員などで空襲に合い、亡くなった球児も少なくありません。そして戦地に赴いた若者達は、太平洋や戦地で藻屑と散り、同時に未来ある才能豊な球児たちも朽ち果てて行きました。
それから60年以上の月日が流れましたが、あの「阪神淡路大震災」の際も「高校野球」は中止をせず続いています。これは、日本が二度と同じ過ちを繰り返さないと「永遠に戦争を放棄する国」と決意した憲法第9条の精神を、戦後の復興社会の中、堅持してきたことと深くかかわっています。特に「全国高校野球大会」は、旧盆の時期に行われるのも戦没者への鎮魂(レクイエム)のためなのです。また、開会式の入場行進、選手宣誓、そして8月15日の正午にプレーを中断して、サイレンの音とともに1分間の黙祷が行われるのも、その意味があります。
ですから、甲子園球場出場校に求められるのは、戦前の「教育」を主眼においた「清廉潔白な学生」であり「野球統制令」に沿った学校なのです。それに厳しい眼で管理監督をするのが「日本高等学校野球連盟」の役目(なはず)です。
このような歴史があることを理解している方が、今般の『特待生問題』に批判、意見を述べて頂くのは非常に結構なことと思いますが、ただ不公平だ、厳しい、という意見だけでは如何なものか、と思います。他のスポーツ競技と違い、長い歴史を持つ「野球」は一つの文化であり国技なのです。ですから、先の戦争で御子息を亡くした親御さんの立場、気持ちも考えねばなりません。もっと過大解釈をすれば、戦後の日本が取って来た行動まで含めて考えねばならず、「靖国問題」までもが含まれてきます。このように、憲章文を1行消滅させるにも様々な”根回し”が必要となるのです。
また、21世紀の平和な時代を今過ごしている私達は、生きて来た時代、社会、文化、流行等と照らし合わせ、古いモノへの価値感を批判をします。しかし上述のとおり、その「野球」というスポーツを、明治時代から当時の「大人達」も同じく論議をして、最後は商業目的に切り替えていったことも理解しておいて欲しいと思います。
◆プロ・アマの壁を越える努力
その上で改めて『日本学生野球憲章』の私感を訴えるならば、「野球統制令」の名残を引きずっている”戦没者への儀礼”は良いと思います。ただ『特待生制度』が違反というのは、完全に時代錯誤の印象を否めません。同じ学校の「サッカー部」や「ゴルフ部」の選手はいいのに、何故野球部は行けないのか、同じスポーツなのに、一方はセミプロのようにTV出演をして、野球部選手は規則違反に何故なるのか・・・その理由が『日本学生野球憲章』第13章だけを印籠のように使う時代は既に過去のものです。また高校野球選手だけが“清廉潔白”な人材に育てようとしても、現代ではとても無理なことです。
まず高野連は、”野球部員”を調査するよりも、自らが”高校生”の行動の現状を認め、更に他の競技をリードする『特待生制度』を整えることが先決です。仮に授業料の軽減や入試優遇処置が他の生徒の保護者からは、どのような不満があるのか、更に本質であったハズのプロ野球機構側との金銭授受問題をどう解決するかに視線を向けた方が、余程前向きな行動かと感じます。『特待生制度』論議だけでは、この先何の展開も見出せないでしょう。特に、安倍内閣が推し進めた教育改革にも、この点について接点もあるはずです。
高野連だけではなく、文部科学省も含めた再検討を計らないと『特待生制度』について、どれだけの成績を求めるとか、経済的にどれぐらい苦しければいいとか”基準”を作ってしまったら、更に抜け道は出来てしまいます。特に「プロの道」が開かれるスポーツ競技については、そのプロ組織団体とも協力をして、条文を検討することが必要かと思います。