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《櫻井ジャーナル》

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2014.06.08
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 今から25年前、1989年の4月15日から6月4日にかけて中国の首都、北京は反政府運動で揺れていた。その引き金になったのは胡耀邦の死だとされているが、その前から中国各地では政府に対する抗議活動が展開され、ソ連圏での動揺とも連動している。

 今でも大半の「西側」メディアは6月4日に天安門広場で「虐殺」があったと報道、大多数の人はそれが事実だと認識しているようだが、それを否定する情報がある。例えば、2011年6月に公表されたWikiLeaksが入手した外電。これにはチリの外交官の証言が報告されていて、銃撃があったのは広場の外で、広場の中で軍が群集に発砲した事実はなく、広場へ入った部隊は棍棒を持っていただけだとされている。

 政府側の資料では、4日の午前4時30分に広場の北から42台の装甲車を使い、ゆっくり南へ移動、学生のリーダーだった劉暁波は広場から撤退するよう学生に指示した。南東の角から外へ出る学生が目撃されている。

 イギリスのテレグラフ紙によると、当時、BBCの特派員として現場にいたジェームズ・マイルズは自分たちが「間違った印象」を伝えたと2009年に認めたという。治安部隊が広場へ入った段階で残っていた学生は外へ出ることが許され、天安門広場で虐殺はなく、死者が出たのは広場から5キロメートルほど西の地点で、数千人が治安部隊と衝突したと語っている。

 こうした話はマイルズより前にワシントン・ポスト紙の北京支局長だったジェイ・マシューズもコロンビア大学の出している雑誌、「CJR(コロンビア・ジャーナリズム・レビュー)」(1998年9/10月号)に書いている。広場に到着した軍隊は残っていた学生が平和的に立ち去ることを許したと現場に居合わせた人は話していたという。

 衝突のあったという場所は少し違い、天安門広場から1.6キロメートルほど西だとされている。大半が暴徒化した労働者や通りがかりの人であり、火炎瓶で焼き殺された兵士もいたようだ。戦車の前にひとりが立っている写真は、近くのホテルから事件の翌日に撮影されたもので、戦車は広場から出ていくところだったとも言われている。

China-tank

 当時、学生をひきいていたひとりの吾爾開希(ウイグル系の名字)は200名の学生が射殺されるのを見たと発言していたが、その出来事があったとされる時刻の数時間前、彼は広場から引き上げていたことが後に判明している。

 広場の外で治安部隊と衝突した群集の多くは労働者だったようだが、そうした事態を招いた一因は経済政策にある。中国は1980年にミルトン・フリードマンの「理論」を導入して「市場経済路線」を歩み始めた。この年、フリードマンは中国政府の招待で訪中している。(Naomi Klein, “The Shock Doctrine”, Metropolitan Books, 2007)

 言うまでもなく、フリードマンの政策は富を一部の特権層へ集中させるもので、庶民の貧困化が進んで貧富の差が問題になる。そのため、軌道修正する必要が出てくるのだが、そうなると特権層は不満を抱く。エリート意識が強く、自分たちは優遇されるべきだと考える学生の中にそうした人が出てきても不思議ではない。アメリカへ留学した学生にそうした傾向は強いようだ。この問題はまだ解決されていないだろう。

 「天安門広場での虐殺」を最初の報じたのは香港のサウス・チャイナ・モーニング・ポスト紙(南華早報)。当時、香港はまだイギリスの直轄植民地で、1997年の返還を前にイギリスと中国は緊張した関係にあった。どこから「虐殺」の情報が流れたかは不明だが、この話に「西側」のメディアが飛びつき、「西側」で信じられていることは確かだ。今でも「天安門広場での虐殺」を主張するメディアがあるとするならば、それは偽情報の可能性が高いことを知ってのこと。妄想癖があるのでなければ、確信犯だ。

 ちなみに、「天安門事件」の2年後、ボリス・エリツィンがロシアの大統領に就任、その年の終わりにソ連は消滅し、1993年に彼は憲法を無視する形で議会を強制的に解散すると発表した。

 この決定を憲法違反だとして議員は抗議、自分たちの政府を樹立すると宣言して少なからぬ議員が議会ビル(ホワイトハウス)に立てこもると、エリツィン大統領は戦車に議会ビルを砲撃させ、10月3日から4日にかけて100名以上、議員側の主張によると約1500名が殺された。

 その後、エリツィンはフリードマン流の経済政策、つまり新自由主義を導入する。政府の腐敗分子と手を組んだ一部の人間が二束三文の値段で国有財産を手に入れ、巨万の富を築く。オリガルヒの誕生だ。そうしたひとりがボリス・ベレゾフスキー。後に旧ソ連圏で「カラー革命」のスポンサーになる。

 ウラジミール・プーチンがロシアの大統領になるとベレゾフスキーはイギリスへ亡命、ウクライナの「オレンジ革命」に資金を出している。この「革命」でウクライナも新自由主義の世界へ入った。ここでもオリガルヒが誕生するが、庶民は貧困化して反発が強まって「革命」、つまり「西側」の巨大資本によるウクライナ乗っ取りは挫折した。

 そして今回のクーデターは「オレンジ革命」/ウクライナ乗っ取りの第2幕。天安門での経験を生かしたのか、まず広場で「カーニバル」的な集まりを演出、人が集まったところでNATOの軍事訓練を受けたメンバーを含むネオ・ナチが入り込んでクーデターへ移行している。






最終更新日  2014.06.08 18:54:18



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