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《櫻井ジャーナル》

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2014.10.09
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 香港大学の戴耀廷(ベニー・タイ)副教授が発案、陳日君(ジョセフ・ゼン)、李柱銘(マーチン・リー)、黎智英(ジミー・ライ)が率いる「オキュパイ・セントラル(佔領中環)」運動には余若薇(オードリー・ユー)や陳方安生(アンソン・チャン)も深く関与、いずれもNEDと深く結びついている。黎智英はネオコンの大物、ポール・ウォルフォウィッツともつながっている。

 このNEDとは1983年にアメリカ議会が承認した「民主主義のための国家基金法」に基づいて創設された組織。政府から受け取った公的な資金をNDI(国家民主国際問題研究所)、IRI(国際共和研究所)、CIPE(国際私企業センター)、国際労働連帯アメリカン・センターへ流しているのだが、それがどのように使われているかは議会へ報告されない。関係者の証言によると、この資金は実際のところ、CIAの秘密工作に使われている。

 1983年と言えば「イラン・コントラ工作」の最中であり、アフガニスタンで秘密工作が実行され手いた頃。その後、NEDはグルジアの「バラ革命」やウクライナの「オレンジ革命」でも使われ、現在、そのネットワークはロシアにも張り巡らされている。香港の「佔領中環」もCIAが黒幕だということになる。

 この香港をイギリスが支配するようになったのは19世紀のこと。中国(清)との貿易戦争で完敗したイギリスはアヘンを売りつけることを思いつき、それを拒否する清へ軍事侵攻、香港島を奪い、上海、寧波、福州、厦門、広州の港を開港させ、賠償金まで払わせているのだ。これが1840年から42年まで続いたアヘン戦争。その後、1856年から60年にかけてアロー号事件(第二次アヘン戦争)をイギリスは仕掛け、11の港を開かせ、外国人の中国内における旅行の自由を認めさせ、九龍半島の南部も奪っている。アヘン貿易も公認された。

 この戦争で大儲けした会社のひとつがジャーディン・マセソン。アロー号事件の最中に横浜で事務所を構え、神戸や長崎にも拠点を築いている。幕末ドラマにも登場するトーマス・グラバーが同社へ入ったのもこの年。その翌年にグラバーは長崎へ渡り、薩摩藩や長州藩を支援して徳川幕府の打倒に協力することになる。

 そうした支援活動の一環としてイギリスは長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決め、選ばれたのが井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。いわゆる「長州五傑」だ。この5名は1863年にイギリスへ渡るが、船などの手配をしたのはジャーディン・マセソン。

 1868年の戊辰戦争を経て誕生した明治政府は1871年7月に廃藩置県を実施、自治権を奪って中央集権制を確立しようとするのだが、その翌年、琉球藩を設置している。奇妙な話だが、実は1871年10月に宮古島の漁民が難破して台湾に漂着、何人かが殺されたことに目をつけ、台湾侵略を目論んだのだろう。つまり、琉球を日本領だと主張、軍隊を送り込むというシナリオを政府内の誰かが考え、そのために琉球藩をでっち上げたわけだ。

 この決定に琉球側は反発、抵抗して清に助けを求めているが、イギリスとの戦争に敗れた清にそうした余裕はなかった。そして1879年、イギリスを後ろ盾とする明治政府は沖縄県を作るのだが、その間に日本は東アジア侵略を始めている。1874年に台湾へ派兵、75年には朝鮮の首都を守る要衝だった江華島へ軍艦を派遣して挑発、76年に日朝修好条規という不平等条約を結ばせた。イギリスからみて当時の日本はIS(イスラム国)に近い役回りを演じている。

 1894年に朝鮮半島の南部で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こると朝鮮王朝は清に出兵を求め、日本は「邦人保護」を名目に軍隊を派遣、日清戦争につながる。この戦争で日本が勝利、清は外国に浸食されていった。

 日本は次に朝鮮王朝、高宗の后である閔妃を1895年に惨殺した。三浦梧楼公使を中心とする日本の官憲と「大陸浪人」が朝鮮の宮廷に突入して殺したのだが、その際、性的な陵辱を加えたと言われている。三浦たちを日本の裁判官は「証拠不十分」で無罪にしているが、この判決によって事件は日本政府が関与していたことを示すことになった。

 その後、中国は日本に侵略されるが、第2次世界大戦で日本が敗北した後、紅軍(後の人民解放軍)はアメリカの支援を受けた国民党軍を破り、1949年に中華人民共和国の成立が宣言された。そのとき、アメリカはコミュニストの指導者を一気に暗殺しようとしたが事前に発覚して失敗、1950年に朝鮮戦争が勃発する。

 その年の春からアメリカは朝鮮半島で秘密工作を開始、韓国の空軍が北側を空爆、地上軍が海州を占領した2日後に朝鮮軍が38度線を突破して攻め込んだ。ダグラス・マッカーサーに同行して日本にいた歴史家のジョン・ガンサーによると、半島からマッカーサーに入った最初の電話連絡は「韓国軍が北を攻撃した」というものだったという。

 朝鮮戦争が勃発した1950年に破壊工作(テロ)組織のOPCはCIAに吸収され、51年1月にアレン・ダレスがCIA副長官として破壊工作を指揮、53年には長官となる。1951年にCIAは国民党軍を率いて中国領内への侵攻を試みたが失敗、翌年にも再度攻め込んだものの、やはり反撃にあって退却している。

 1953年に朝鮮戦争は休戦になるが、年が明けるとすぐにアレン・ダレスの兄、ジョン・フォスター・ダレス国務長官は国家安全保障会議において、ベトナムでのゲリラ戦を準備するように提案、CIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成した。朝鮮戦争もベトナム戦争もアメリカの目は中国に向いていたように思える。

 1972年にリチャード・ニクソン米大統領は中国を訪問、ベトナム戦争を続ける意味はなくなって戦争は終わる。アメリカと中国との交渉が進む中、ヘンリー・キッシンジャーは周恩来に対し、友好関係を結ぶことに同意しないならば、アメリカは日本に核武装を許すと脅したとジャーナリストのシーモア・ハーシュは主張している。

 ところで、2011年3月8日付のインディペンデント紙に掲載された石原慎太郎のインタビュー記事によると、「日本は1年以内に核兵器を開発することができる」と語り、外交力とは核兵器なのであり、核兵器を日本が持っていれば中国は尖閣諸島に手を出さないだろうと主張したようだ。






最終更新日  2014.10.10 13:36:52

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