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《櫻井ジャーナル》

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2015.01.20
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 アメリカを後ろ盾とするウクライナのキエフ政権は東/南部での攻撃を本格化させている。そうした状況のウクライナへアメリカ欧州陸軍司令官のフレデリック・ベン・ホッジス中将を中心とする代表団が数日中に到着、1月20日から22日にかけてはNATO軍の代表がウクライナ軍側と会議を開くという。27日にアウシュビッツ強制収容所が解放されて70年になることを記念する式典がポーランドで開かれるというが、その時にはウクライナの軍事的緊張がかなり高まっている可能性がある。

 1月27日に式典が開かれる理由は、1945年1月27日にソ連軍がアウシュビッツ強制収容所を制圧、拘束されていた人びとを解放したことにある。解放前、そこではユダヤ教徒、ロマ(かつてはジプシーと呼ばれた)、ソ連軍兵士、心身障害者、同性愛者など、多くの人が犠牲になったとされている。

 犠牲者の中でユダヤ教徒の比率が多かったことは確かだが、それを利用して新たな殺戮を正当化してきたのがイスラエル。ナチスに殺されたユダヤ教徒/人を利用してナチスのようにパレスチナ人を虐殺してきたわけで、アウシュビッツでの犠牲者を愚弄しているとも言える。

 こうしたイスラエルの残虐行為を批判したことが原因でノーマン・フィンケルスタインはデポール大学から追放されたが、この人物の母親はマイダネク強制収容所、父親はアウシュビッツ強制収容所を生き抜いた経歴の持ち主である。

 アウシュビッツではナチス親衛隊の大尉で医師でもあったヨーゼフ・メンゲレが生体実験を行っていた。1945年1月にメンゲレは西へ逃走、ベルリンを経てミュンヘンへ移動、そこでアメリカ軍の捕虜になり、49年にはアルゼンチンへ逃げた。この逃走にアメリカ軍がどのように関係したかは不明だが、大戦後、アメリカ政府にはナチスの科学者を保護し、自分たちの研究開発に役立てようという「ペーパークリップ作戦」が存在していた。

 アメリカには「ブラッドストーン作戦」と呼ばれる亡命ソ連人を集めるプロジェクトもあったが、対象になった人の多くは、かつてのナチ協力者だった。この工作で中心的な役割を果たしたのが特別プロジェクト局(政策調整局/OPCへ改名)。この機関は秘密工作を行うようになり、1951年にはCIAの計画局になる。この部署の活動が議会の調査で発覚した後に作戦局へ名称が変更され、現在は国家秘密局と呼ばれている。

 ナチスはアウシュビッツだけで人びとを虐殺したわけではない。例えばウクライナの場合、ステファン・バンデラを中心に組織されていたOUNのバンデラ派(OUN/B)と手を組み、ユダヤ人、知識人、ロシア人、コミュニストなどを殺している。16歳から60歳までのポーランド人を全員殺すつもりだとバンデラは語っていたとチェコのミロシュ・ゼマン大統領に指摘されている。

 バンデラは1909年1月1日に誕生したという。今年の正月、生誕106周年を記念し、ネオ・ナチは松明を掲げてデモを行った。こうした行為をキエフ政権だけでなく、EUもアメリカも黙認しているようで、ゼマン大統領ならずとも、良くないことが起こっていることはわかる。

Kiev-Nazi

 OUN/Bでバンデラに次ぐナンバー2がヤロスラフ・ステツコ、ナンバー3がミコラ・レベド。ステツコは第2次世界大戦が終わった直後の1946年にイギリスの情報機関SIS(通称、MI6)の一員となり、ABN(反ボルシェビキ国家連合)の議長に就任した。1966年にABNはAPACL(アジア人民反共連盟。後にアジア太平洋反共連盟へ改名)と合体してWACL(世界反共連盟。後にWLFD/世界自由民主連盟へ名称変更)になる。この組織統合にはCIAが関与していた。レベドは第2次世界大戦が勃発した1939年にゲシュタポ警察学校へ入学している。

 1941年に日本軍が真珠湾を奇襲攻撃してアメリカも大戦に参戦することになったが、40年から42年にかけてバンデラは配下の人間にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領を暗殺するように命令した。ルーズベルトがOUNの合法化を拒否したことが理由だという。

 言うまでもなく、大戦は始まりは1939年9月1日のドイツ軍によるポーランド侵攻。話し合いがこじれていたポーランド回廊(ドイツ本国と東プロイセンの間に作られたポーランド領)の問題を軍事的に解決しようとしたのだが、その直後にイギリスとフランスが宣戦布告、世界大戦に発展したわけだ。この当時、ウクライナはソ連の一部。

 ジャーナリストのC・アンソニー・ケイブ・ブラウンによると、この頃、ソ連と戦うために「日本・アングロ(米英)・ファシスト同盟」を結成するという案があったという。この案を実行に移す場合、最大の障害はフランクリン・ルーズベルト米大統領だった。(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies”, Macmillan, 1988)

 1941年6月にドイツ軍は東へ向かって進軍を開始、7月にはレニングラード(現在は帝政時代のサンクト・ペテルブルグに戻った)を包囲した。「バルバロッサ作戦」だ。ドイツ軍の快進撃を見てルーズベルトはソ連を支援しようとしたが、アメリカやイギリスの支配層には反対する意見が少なくなかった。

 例えば、ミズーリ州選出の上院議員だったハリー・トルーマンは「ドイツが勝ちそうに見えたならロシアを助け、ロシアが勝ちそうならドイツを助け、そうやって可能な限り彼らに殺させよう」と提案している。ルーズベルトとトルーマンは相反する考え方をしてたということだ。1944年の大統領選挙でこのトルーマンが副大統領候補になり、ルーズベルトに近かったヘンリー・ウォーレスは商務長官にされている。

 ドイツ軍はスターリングラード(現在のボルゴグラード)まで攻め込んだが、そこで1942年から43年2月まで激しい攻防戦が展開された後、ドイツ軍は壊滅、ソ連軍は西に向かって進撃を開始した。ちなみに、ドイツ軍に包囲されたレニングラードでウラジミル・プーチンの兄、ビクトルはジフテリアで死亡している。

 ドイツ軍の敗走を見て慌てたのがアメリカやイギリスで、1943年7月にアメリカを中心とする部隊がシチリア島へ上陸、9月にはイタリア本土を制圧し、44年6月にはノルマンディー上陸作戦が敢行された。この頃になるとドイツ軍の幹部とアメリカ軍の上層部が接触を始めている。

 ところで、昨年2月にキエフで実行されたクーデターの主力部隊はアメリカ/NATOから訓練を受けたネオ・ナチ、つまりバンデラの信奉者だった。このグループの中心的な存在は、ドニエプロペトロフスクの知事を務める三重国籍(ウクライナ、イスラエル、キプロス)のイゴール・コロモイスキー、1991年にネオ・ナチの「ウクライナ社会ナショナル党」を創設し、クーデター後に国家安全保障国防会議(国防省や軍を統括する)の議長に就任したアンドレイ・パルビー、右派セクターのリーダーで国家安全保障国防会議の副議長に選ばれたドミトロ・ヤロシュだ。

 このネオ・ナチと並ぶクーデター体制の柱が「国境なき巨大資本」を後ろ盾とするオリガルヒ(一種の政商)。この勢力の一員で、アメリカのビクトリア・ヌランド国務次官補からクーデター前に高く評価され、「次期政権」へ入閣させようという話になっていたアルセニー・ヤツェニュクは首相に就任した。

 このヤツェニュクは1月8日、ドイツのARDテレビのインタビューで「ソ連によるドイツ、ウクライナ侵略は記憶に新しい」と明言、「第2次世界大戦の結果を書き換える権利は誰にも無い」と言いながら歴史を書き換えようとしている。安倍晋三首相なみの発言だと言えるだろう。

 1月27日に開かれるという式典の背後にはナチスの亡霊が見える。






最終更新日  2015.01.21 01:54:49

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