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沖縄県名護市辺野古への新基地建設をめぐる政府と県との対立を引き起こしている原因は、言うまでもなく、日米安保にある。1951年9月8日午後5時、アメリカの第6兵団が基地として使っていたプレシディオで調印された軍事条約だ。その1週間前、同じ場所でアメリカはオーストラリアとニュージーランドとの間でANZUS条約を結んでいる。このふたつの軍事条約は誕生の時点から密接に関係していると言えるだろう。
その6年前、日本はアメリカに降伏したのだが、その時、すでに反ファシズムの看板を掲げていたフランクリン・ルーズベルトはいない。1945年4月12日に執務室で急死、政府の主導権は1933年に反ルーズベルトのクーデターを計画した巨大資本が握っていた。関東大震災が起こった1923年から日本に大きな影響力を及ぼし、戦後はジャパンロビーというグループを編成して日本を「右旋回」、つまり「戦前回帰」させた勢力。「戦前回帰」ということは、天皇制を維持するということでもある。 敗戦によって日本の支配システムは揺らぎ、労働運動が活発化、民主化を求める声も高まり、民主的な内容の憲法草案が提案され始めた。しかも、連合国の内部で天皇や皇室の戦争責任を問う声が高まることは必至であり、急いで「民主的」な体裁の憲法を制定し、戦争責任を問うたという形を作る必要があった。 そこで日本国憲法の制定を急ぎ、極東国際軍事裁判(東京裁判)によって戦争責任の追及は幕引きになる。憲法の公布は1946年11月、裁判の判決は48年11月のこと。この憲法は「象徴」という名目で天皇制を維持、裁判で皇室の責任は問われなかった。 1947年に実施された参議院選挙と衆議院選挙で社会党が第1党になり、6月には同党の片山哲を首相とする政権が誕生するが、そうした雰囲気の中、昭和天皇はダグラス・マッカーサーと会見し、新憲法の第9条に対する不安を口にしたとされている。自分の戦争責任を問う勢力が存在していると恐怖していたようだ。その内容の一部を通訳の奥村勝蔵は記者へリーク、APの報道につながった。マッカーサーは天皇に対し、アメリカが日本の防衛を引き受けると保証したというのだ。 ところが、奥村が隠した会談の後半でマッカーサーは違うことを述べていた。「日本としては如何なる軍備を持ってもそれでは安全保障を図ることは出来ないのである。日本を守る最も良い武器は心理的なものであって、それは即ち平和に対する世界の輿論である」と主張していたのだ。(豊下楢彦著『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫、2008年) 大戦が終わると、アメリカは中国の制圧に乗り出す。その手先として選ばれたのが国民党だった。1946年夏の段階で国民党軍の総兵力は430万人、それに対して紅軍(コミュニスト軍)は120万人。アメリカは国民党に対して120億ドルを援助、最新の装備を提供し、軍事顧問団も派遣していた。 国民党の勝利は時間の問題だと推測する人は少なくなかったが、1947年夏になると農民の支持を背景にしてコミュニストが反攻を開始した。軍の名称も紅軍から人民解放軍に変更、兵力は280万人に増えた。その時の国民党軍は365万人。1948年の後半になると人民解放軍が国民党軍を圧倒、49年1月には北京へ無血入城し、10月には中華人民共和国が成立する。 大戦中、アメリカはイギリスと共同で破壊工作部隊「ジェドバラ」を編成、その人脈で1948年には極秘機関OPC(当初の名称は特別プロジェクト局)が組織され、東アジアの拠点は上海に置かれていた。その上海は1949年5月に人民解放軍が制圧、OPCは拠点を日本へ移した。その中心だったのはアメリカ海軍の厚木基地。 この頃、日本では「怪事件」が続発していた。1948年10月には「帝銀事件」、49年7月には「下山事件」と「三鷹事件」、8月には「松川事件」だ。政府やマスコミは国鉄を舞台にした3事件を共産党の仕業だと宣伝、その党員が起訴された。後に被告は無罪になるが、労働組合や左翼勢力は致命的なダメージを受けている。 1952年6月には大分県直入郡の菅生村(現在の竹田市菅生)の巡査駐在所で爆破事件があり、これも当初は共産党員の犯行だとされた。ところが、後に警察の警備課に所属する戸高公徳が仕組んだということが発覚、戸高は身を隠すのだが、戸高を匿っていたのは警察だった。その後、戸高は警視長まで出世している。ノンキャリアでは異例のことだ。 1960年代から80年頃にかけてイタリアで「NATOの秘密部隊」、グラディオが「極左グループ」を装って爆弾攻撃を繰り返し実行し、左翼勢力を弱体化させ、治安システムを強化することに成功している。その黒幕はOPC人脈で編成されたCIAの計画局(後に作戦局へ名称変更、現在はNCS/国家秘密局)。イタリアの爆弾攻撃は「緊張戦略」と呼ばれているが、似たことが日本で先に行われていた可能性が高い。 OPCを生み出したジェドバラは1944年夏、アメリカとイギリスの情報機関によって編成されたのだが、1943年2月にソ連へ攻め込んでいたドイツ軍は全滅、ソ連軍が反撃を始め、西に向かって進撃していた。 1941年6月にドイツ軍が「バルバロッサ作戦」を開始、ソ連領内に攻め込んだときには傍観していた米英だが、ドイツ軍が敗走するのを見て1943年7月にシチリア島へ上陸、9月にはイタリア本土を制圧、イタリアは無条件降伏していた。そして1944年6月に実行されたのがノルマンディー上陸作戦。この時点でのジェドバラ編成である。 1945年5月7日にドイツは連合国に降伏するが、その直後、イギリスのウィンストン・チャーチル首相はJPS(合同作戦本部)にソ連を攻撃するための作戦を立案するように命令。そしてできあがったのが「アンシンカブル作戦」で、7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦を実行する上で最大の障害になったであろうアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は4月12日に執務室で急死していたが、イギリスの参謀本部が反対、実現していない。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000など) 7月26日にチャーチルは退陣するが、翌1946年3月5日にアメリカのミズーリ州フルトンで「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている」と演説した。ソ連との「熱戦」を始めることに失敗したチャーチルが「冷戦」の幕開けを告げたと言えるだろう。 ルーズベルトの急死でアメリカ側の状況は大きく変化していた。副大統領から昇格したハリー・トルーマンはドイツとソ連が戦っている最中、「ドイツが勝ちそうに見えたならロシアを助け、ロシアが勝ちそうならドイツを助け、そうやって可能な限り彼らに殺させよう」と提案している。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012) 安保条約が結ばれる前年、1950年6月にジョン・フォスター・ダレスは吉田茂と会談、吉田は「日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」をアメリカへ与えることに消極的な姿勢を見せ、7月に開かれた参議院外務委員会で「軍事基地は貸したくないと考えております」とした上、「単独講和の餌に軍事基地を提供したいというようなことは、事実毛頭ございません」とも発言した。 ところが、この年の4月に大蔵大臣の池田勇人は吉田の発言と矛盾する内容のメッセージを携えてアメリカを訪問している。その時に同行したのが秘書官だった宮沢喜一だ。そのメッセージには、アメリカ軍を駐留させるために「日本側からそれをオファするような持ち出し方を研究」してもかまわないという内容が含まれていた。(豊下楢彦『安保条約の成立』岩波新書、1996年) その後の吉田発言とは矛盾しているが、その謎を解くカギは、池田が訪米する1週間前に行われた天皇とマッカーサーとの会談にあるとする見方がある。この会談では「講和問題と日本の安全保障問題」が議論のテーマで、それまでの流れからすると、関西学院大学の豊下楢彦教授が言うように、天皇とマッカーサー「の見解が対立ないし平行線をたどったであろう」ということになる。(前掲書) 池田訪米の2カ月後、6月22日にダレスは東京のコンプトン・パケナム邸で開かれた夕食会に出席している。パケナムはニューズウィークの東京支局長で、イギリスの貴族階級出身ということから日本の宮中に太いパイプを持っていたという。この点、ジョセフ・グルーと似ている。ダレスとパケナムのほか、ハリー・カーン外信部長、国務省東北アジア課ジョン・アリソン課長、大蔵省の渡辺武、宮内省の松平康昌、国家地方警察企画課長の海原治、外務省の沢田廉三が出席した。日本側の出席者は天皇と関係が深い。 こうしてみると、日米安保/日米同盟は昭和天皇を抜きに語ることはできない。アメリカにとって日米安保は中国を見据えたものであり、天皇は自分自身の「防衛」を考えていたと考えなければならない。昭和天皇の役割を見て見ぬ振りをするから複雑に見えるだけだ。 また、「冷戦の仮想的はソ連」だから北海道にアメリカ軍基地がないのはおかしい、という発想もおかしい。敗戦直後、ソ連に周辺国を侵略する能力がないことはアメリカも熟知していた。だからこそ、先制核攻撃を計画したのだ。北海道にソ連が攻め込むなどアメリカは考えていなかったはず。北海道からソ連を攻めるメリットも考えていなかっただろう。本ブログでは何度も書いたことだが、朝鮮戦争やベトナム戦争も中国を見据えての戦争だと考えなければ辻褄が合わない。19世紀のアヘン戦争以来、アングロ・サクソンにとって中国は略奪のターゲット。だからこそ沖縄だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.04.15 12:39:33
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