《櫻井ジャーナル》

2015/04/23(木)12:35

戦争の準備を進める安倍首相が真榊を奉納した靖国神社の焼却を阻止したのはCIAのカトリック神父

 安倍晋三政権は戦争の準備を進めている。アメリカの好戦派に命令されてのことで、その「仮想敵国」は中国だろう。「後方支援」は戦争の勝敗を決する重要な要素だが、それにはとどまらず、実戦にも参加する可能性が高い。核ミサイルの撃ち合いに巻き込まれることも想定できる。  表面的には「偽旗作戦」やマスコミのプロパガンダで「やむにやまれず」という形にするかもしれないが、その実態はアメリカの侵略戦争へ荷担することにほかならない。防衛省の内部では侵略かどうかは気にせず、「今なら中国に勝てる」と単純に考えている幹部がいるようだが、それは分析でなく妄想。  日本の支配層が従属しているアメリカは先住民を虐殺、土地を奪うことからスタートした国で、侵略戦争を繰り返してきた。ウィリアム・マッキンリー大統領暗殺を受けて副大統領から昇格したセオドア・ルーズベルトは棍棒外交、つまり軍事侵略で有名。1904年2月に日本海軍の旅順港に対する奇襲攻撃で始まった日露戦争はこのセオドア・ルーズベルトを調停役にして1905年9月に講和が成立している。  戦争を継続する余力のなかった日本にとってセオドア・ルーズベルトの登場はありがたいことだったが、この人物は自分たちの利権を見ていたはずだ。実際、講和条約が結ばれた2カ月後に桂太郎首相はエドワード・ハリマンと満鉄の共同経営で合意している。勿論、アメリカの支配層が鉄道の経営で満足するはずはない。その後、小村寿太郎の反対で覚書は破棄されてしまうのだが、アメリカの支配層は怒ったことだろう。  アメリカと緊密な関係にあり、日本で徳川体制を倒すクーデターで黒幕的な役割を果たし、薩摩藩と長州藩を中心とする新体制を作ったのがイギリス。その直前、中国(清)に戦争を仕掛けて麻薬を押しつけ、利権を奪っている。  アメリカの巨大金融資本、JPモルガンが日本の政治経済に大きな影響力を持つ切っ掛けは1923年の関東大震災で、その金融機関の総帥の親戚にあたるジョセフ・グルーが32年に駐日大使として日本へ来た。  その年、アメリカでは大統領選挙があり、ウォール街と対立関係にあったニューディール派のフランクリン・ルーズベルト(FDR)が当選している。1933年から34年にかけてJPモルガンを中心とする勢力が反ルーズベルト/親ファシズムのクーデターを計画したことはスメドリー・バトラー海兵隊少将が議会で証言、明らかになっている。  FDRは労働者の権利を認めるなど巨大資本と対立、外交面ではファシズムや植民地に反対し、日本との関係も悪化するのだが、グルーはウォール街とのパイプ役を務めていた可能性が高い。1941年12月に日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃してアメリカと戦争が始まるが、グルーは翌年の7月まで日本に留まった。  グルーが訪日する前年、日本軍は奉天の北部にある柳条湖で満鉄の線路を爆破、責任を中国側に押しつけて軍事侵略の口実に使った。つまり「偽旗作戦」だ。そして日本の傀儡国家、満州国をでっち上げるが、安倍の祖父にあたる岸信介は満州国の国務院実業部総務司長に就任、その傀儡国家を動かす中枢グループに入った。  その中枢グループには関東軍参謀長だった東条英機、満州国総務長官だった星野直樹、満鉄総裁の松岡洋右、日産コンツェルンの鮎川義介、そして岸が含まれ、一般に「2キ3スケ」と呼ばれている。その当時、日本の情報機関や巨大商社は麻薬取引に手を出していたが、その取り引きで有名な里見機関の里見甫、その上官にあたる影佐禎昭とも緊密な関係を築いた。自民党の谷垣禎一は影佐の孫だ。  本ブログでは何度も書いているように、日本のアジア侵略は1872年の「琉球処分」から始まる。その年、来日して外務卿だった副島種臣に台湾への派兵を進めたのが厦門のアメリカ領事だったチャールズ・リ・ジェンダー。そして日本は1874年に台湾へ派兵、75年には李氏朝鮮の首都を守る要衝、江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功した。  その当時、朝鮮では高宗の父にあたる興宣大院君と高宗の妻だった閔妃が対立、主導権は閔妃の一族が握っていた。その閔氏の体制を揺るがせたのが1894年に始まった甲午農民戦争(東学党の乱)で、この戦乱を利用して日本政府は軍隊を派遣、朝鮮政府が清に軍隊の派遣を要請したことから日清戦争へつながる。  閔妃がロシアとつながることを恐れた日本政府は1895年に日本の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃、閔妃を含む女性3名を殺害した。その際、性的な陵辱を加えたことが日本への憎しみを増すことになるが、こうした行為をイギリスは容認したようで、日本とイギリスは1902年に同盟関係を結び、04年2月に日露戦争が勃発した。  日露戦争の最中、1905年1月にペテルブルクで皇帝へ請願するために行進していた労働者らに軍隊が発砲、2000人の死傷者が出たといわれているが、その事件を切っ掛けにして国内は不安定化、6月にはロシア黒海艦隊の戦艦「ポチョムキン」で反乱が起こり、モスクワなどで武装蜂起が起こる。いわゆる第1次ロシア革命だ。この武装蜂起は鎮圧されたものの、戦争どころではなくなり、ロシア政府はセオドア・ルーズベルトの調停に応じたわけだ。  この当時、帝政ロシアは近代化の過渡期で、体制は利害の対立がある地主貴族と産業資本家に支えられていた。そうした中、1914年6月にサラエボでオーストリア皇太子が暗殺され、これが引き金になって第一次世界大戦が始まり、支配体制の矛盾が噴出する。戦争で農民をとられたくない地主と、戦争で儲けたい資本家の対立だ。  そして1917年3月に帝政ロシアは革命(二月革命)で倒される。樹立された臨時革命政権で主導権を握ったのは資本家階級で、戦争は継続されることになる。この政権で法務大臣に就任、後に首相に就任するのがエス・エルのアレクサンドル・ケレンスキー。この人物を通じてイギリス政府とシオニストは新政権に影響力を及ぼしていたと見られている。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)  この革命の際、ウラジミール・レーニンやレフ・トロツキーといったボルシェビキの幹部は亡命中か、刑務所の中。スイスに亡命していたレーニンをはじめ、亡命中の幹部をロシア国内へ運んだのがドイツだ。戦争に反対していたボルシェビキを支援し、ロシアを戦争から離脱させようと考えたわけである。そして11月の「十月革命」につながり、ボルシェビキ政権は即時停戦を宣言した。二月革命と十月革命を混同すると、その後の歴史を見誤る。  その後、日本は革命に干渉するために派兵し、シベリアには1922年まで、サハリンの北部には25年まで日本軍は居座った。アメリカの国務省では反ソ連派が形成されるが、その中には「封じ込め政策」で有名なジョージ・ケナン、あるいは駐日大使を務めたジョセフ・グルーも含まれていた。(Christopher Simpson, "The Splendid Blond Beast," Common Courage Press, 1995 )  明治維新から現在に至るまで、日本の支配層はイギリスやアメリカ、つまりアングロ・サクソンの影を背負ってきた。そうした影が最も薄くなったのが真珠湾攻撃から敗戦まで。アジア侵略を反省しない日本のエリートが真珠湾攻撃を無謀だったという理由はこの辺にあるのだろう。  第二次世界大戦が終わって70年目にあたる今年の夏に発表する「談話」に「侵略」や「おわび」という単語を含るつもりがないらしい安倍首相は4月21日、「春季例大祭」にあわせて靖国神社に「真榊」を奉納したという。  この靖国神社はアジア侵略の象徴的な存在で、日本を占領していたGHQ/SCAPの内部では将校の多数派が神社の焼却を主張していたという。朝日ソノラマが1973年に出した『マッカーサーの涙/ブルーノ・ビッテル神父にきく』によると、それを阻止した人物がブルーノ・ビッターというカトリックの神父。  ビッターはニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟だとされているが、このスペルマンはCIA/OSSと深く結びついていた。つまり、ビッターもCIA/OSS人脈。GHQのG2(情報担当)を指揮、「小ヒトラー」とも呼ばれていたチャールズ・ウィロビー少将とも親しかった。ウィロビーは退役後、スペインの独裁者フランシスコ・フランコの非公式顧問になっている。  現在、アメリカの支配層はロシアがナチスと激闘を繰り広げた事実を消し去り、歴史を書き換えようとしている。その一方、ナチスの後継者を使ってウクライナをクーデターで奪還し、ロシアに軍事的な圧力を加えている。アメリカの好戦派に従属する安倍首相がアジア侵略の歴史を書き換えようとしても不思議ではない。

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