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《櫻井ジャーナル》

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2015.08.05
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 国力が圧倒的に違ったアメリカとの戦争は回避すべきだったと言う人がいる。アメリカに逆らわなければ破綻しないと言いたいのかもしれないが、1941年12月7日に日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃した時点で中国での戦争は泥沼化していた。財宝を略奪して儲けていたものの、軍事的には追い詰められていたのだ。アメリカとの戦争を回避できたとしても、先は見えていたということでもある。アメリカとの戦争が無謀だったと強調する人びとはアジア侵略から目をそらし、アメリカへの従属を正当化しているとしか思えない。

 1931年9月18日の柳条湖事件、37年7月7日の盧溝橋事件などを利用して日本軍は中国を侵略していったが、その始まりは1872年の琉球藩でっち上げ。明治政府は1871年7月に廃藩置県を実施、強力な自治権を持つ藩を廃止して中央政府の送り込む知事が行政を取り仕切る体制へ切り替えていたのだが、その後に新たな藩を作るという不自然なことをしている。

 言うまでもないことだが、明治政府が琉球国を日本領だと認識していた、あるいは日本領にしたいと願っていたなら、琉球藩を作ってから廃藩置県のはず。その順番が逆だということは、明治政府は琉球国を日本だと認識していなかっただけでなく、日本領にしようとも思っていなかったということになる。

 その不自然なことをした原因と見られている出来事が1871年10月に起こっている。宮古島の漁民が難破して台湾に漂着したのだが、その際に漁民が殺されたとされている。この出来事を口実にして日本政府は台湾へ軍隊を送り込むのだが、そのためには琉球国が日本だとする形を整える必要があった。そこで廃藩置県の後に琉球藩をでっち上げたわけである。明治政府を動かせる立場にいた何者かがこの出来事をみて侵略を思いついたということだ。

 琉球国が潰された1872年、厦門のアメリカ領事だったチャールズ・リ・ジェンダーが来日、外務卿だった副島種臣に台湾への派兵を勧めたとされている。このアメリカ人は1875年まで外務省の顧問を務めた。2003年に公開されたアメリカ映画の「ザ・ラスト・サムライ」は、このアメリカ人がモデルだという。

 日本は1874年に台湾へ派兵するが、それに続いて75年には李氏朝鮮の首都を守る要衝の江華島へ軍艦が派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功した。当初、琉球の併合を考えていなかった明治政府にしては段取りが良すぎる。

 同条規の批准交換にル・ジェンダーも陪席、それに続いて1894年から95年にかけて日清戦争、1904年から05年にかけて日露戦争、1910年には韓国を併合、さらに中国や東南アジアを侵略したわけだ。日本のアジア侵略は「琉球処分」で幕が開いたと言える。

 米英は中国(清)を支配して略奪するために1840年から42年にかけてのアヘン戦争や1856年から60年にかけてのアロー戦争を引き起こし、そうした戦争で大儲けしたジャーディン・マセソン商会は1859年にトーマス・グラバーをエージェントとして日本へ送り込む。「幕末ものドラマ」によく登場する人物だ。

 グラバーが来日した4年後、1863年に長州藩は井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)をイギリスへ送り出している。勿論、物見遊山が目的だったわけではないだろう。その手配をしたのがグラバーであり、渡航にはジャーディン・マセソン商会の船が使われた。イギリスの支配層は長州藩を手先として使うことにしたように見える。

 ところで、日露戦争で日本は戦費を調達するため、日銀副総裁だった高橋是清がクーン・ローブのジェイコブ・シフ頭取と交渉、融資を受けている。関東大震災の復興資金を調達する際にはJPモルガンに頼っているが、この金融機関と最も親密な関係にあったのが井上準之助。第2次世界大戦の前、ウォール街のカネに頼っていた日本は彼らの強い影響下にあった。

 このクーン・ローブとJPモルガンを含む金融界の大物たちは1910年11月22日にジキル島クラブで秘密会議を開き、紙幣を印刷する権利を手に入れようと画策している。そして1913年12月23日、クリスマスの直前に連邦準備法を成立させ、銀行家が紙幣をコントロールする連邦準備制度ができあがり、アメリカを支配する体制が整った。

 1932年のアメリカ大統領選挙で勝利したフランクリン・ルーズベルトが率いるニューディール派はウォール街の支配者たちから嫌われていて、1933年から34年にかけて金融界はニューディール派を排除し、ファシズム体制を築くためにクーデターを計画した。これはスメドリー・バトラー海兵隊少将の議会証言で明らかにされている。第2次世界大戦が勃発した1939年頃には、「日本・アングロ(米英)・ファシスト同盟」を結成してソ連と戦うという案が米英支配層の内部にあったという。(Anthony Cave Brown, ““C”: The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies”, Macmillan, 1988)

 1945年5月にドイツが降伏した後、イギリスのウィンストン・チャーチル首相の命令でJPS(合同作戦本部)は「アンシンカブル作戦」を作成した。それによると、7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始めることになっていたが、参謀本部が反対して実現せず、首相は下野することになる。この時に日本は戦争を継続中で、米英独がソ連と戦争を始めたなら、日本とソ連が手を組むということも米英側は考えたようだ。ちなみに、ポツダム会談が開かれたのは7月17日から8月2日にかけての期間で、その間にチャーチルは首相の座から下ろされた。ポツダム宣言が発表されたのは7月26日。

 第2次世界大戦で敗北するまでの日本を「軍国主義」という切り口だけで理解しようとすると、「天皇制官僚国家」によるアジア侵略の歴史が見えなくなる。特高警察や思想検察の幹部たちが大戦後も要職に就くことができた理由も「冷戦」で誤魔化すしかなくなる。問題は「冷戦」が始まった原因であり、そのためには少なくともチャーチルの動きを理解しなければならないが、記者、編集者、学者といった類いの人びとはウォール街のクーデター計画と同じように見て見ぬ振り。

 戦前と戦後を結びつけるキーパーソンのひとりがジョセフ・グルー。彼は1932年に駐日大使として来日、戦後は日本をウォール街の意向に沿った国に作り上げるためにジャパン・ロビーの中心人物として活動している。

 グルーの親戚、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥の総帥の妻であり、ジョセフの妻、アリス・ペリーは少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)で九条節子(後の貞明皇后、つまり昭和天皇の母)と親しい関係を築いている。グルー夫妻を介し、皇室とウォール街は大戦前からつながっているわけだ。「戦後レジーム」から「戦前レジーム」に切り替えても大きな変化はない。






最終更新日  2015.08.06 12:39:41

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