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《櫻井ジャーナル》

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2015.08.14
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 日本では8月15日を「終戦記念日」、あるいは「終戦の日」と呼ぶ。70年前のこの日に「玉音放送」、あるいは「終戦勅語」と呼ばれている昭和天皇の朗読がラジオで流された日だ。それがなぜ「終戦記念日」とか「終戦の日」になるのだろうか?

 堀田善衛氏の言葉を借りるならば、朗読の内容は「負けたとも降服したとも言わぬ」不審なもので、日本に協力させられた国々に対しては、「遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス、という、この嫌みな二重否定、それきり」で、「その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の軀にこたえた」(堀田善衛著『上海にて』)代物だった。負けたわけでも降伏したわけでもないので「終戦」だと言いたいのかもしれない。

 30年以上前、兜町の古老に聞いた話だと、1945年の春先には「平和産業株」を買いあさる人がいたようで、支配層の内部では降伏が近いと認識されていたのだろう。沖縄本島へアメリカ艦隊が攻撃を始めたのは3月23日で、26日には慶良間諸島へ上陸して集団自殺が起こっている。沖縄の第32軍を指揮していた牛島満司令官が長勇少将と自殺したのが6月23日、アメリカ軍は7月2日に沖縄戦の終了を宣言した。

 沖縄本島への攻撃が始まる前、3月9日から10日にかけて東京の下町は大規模な空襲で火の海になり、10万人、あるいはそれ以上とも言われる住民が焼き殺された。そのほかの都市も空爆で多くの人が焼き殺され、8月6日にはウラン235を使った原爆が広島へ落とされ、9日にはプルトニウム239を利用した原爆が長崎へ落とされた。8月8日にはソ連がヤルタでの合意に基づいてい日本と戦争を始めている。

 都市部への空襲が激しくなると、原爆の開発を急いでいた仁科芳雄を中心とするグループは朝鮮の興南へ避難、そこで研究を続けたようだが、8月12日には原爆の実験を行ったとする情報もある。アメリカの軍事専門家の中にはアメリカの原爆よりも性能は上だったとし、その施設などを押さえたソ連はその後の核兵器開発に生かしたとする人もいる。

 長崎に原爆が落とされた直後に開かれた「御前会議」で日本政府はポツダム宣言を受諾する、つまりアメリカ、イギリス、中国、ソ連に降服することを決め、8月10日夜半には同盟通信の海外向け放送でこの決定を明らかにし、14日には最終的な受諾通告をした。そして15日に「終戦勅語」、16日に日本軍は停戦命令を出し、9月2日に政府全権の重光葵と軍全権の梅津美治郎が降伏文書に調印した。戦争が終わったのはこの日だ。

 日本の現行憲法が公布されたのは降伏から1年2カ月後の1946年11月3日、その翌年の5月3日に施行されている。堀田によると、敗戦直後に中国人から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという。(堀田善衛著『上海にて』)

 同じように考えていた人は連合国側に少なくなかったはずで、日本の占領にアメリカ以外の国々が関わりを強めてくると天皇の戦争責任を問う声が強まることは明白だった。本ブログでは何度も書いているように、アメリカの巨大資本を代表するJPモルガンは財界や政界だけでなく皇室とも関係が深く、この関係を第2次世界大戦後も維持するため、天皇制官僚国家の仕組みを崩したくなかったはずである。

 JPモルガンの総帥だったジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻と親戚の関係にあるジョセフ・グルーは1932年から日米開戦まで駐日大使を務め、戦後はジャパン・ロビーの中心的人物として、日本をウォール街にとって都合の良い国へ向かわせる役割を果たした。このグルーの妻、アリス・ペリーは少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)で九条節子(後の貞明皇后、つまり昭和天皇の母)と親しい関係を築いている。

 勿論、アメリカとしては日本を民主化するという形式を整える必要はあった。アメリカにも大戦を「民主主義」対「ファシズム」の戦いだと信じている人も少なくなかったはずで、日本が降伏するまでの体制を継続させるわけにはいかない。

 ところが、日本の支配層はそうした事情を理解できていなかったようで、降伏文書への調印から24日を経過した1945年9月26日に哲学者の三木清が獄死している。戦前の治安体制は継続、政治犯は獄につながれたままだったのだ。こうした状況ではアメリカが急いで新たな憲法を作り上げ、民主化の要素を入れた天皇制を構築するしかない。

 アメリカで日本の民主化を強く求めていたのはニューディール派だろう。その中心的な存在だったフランクリン・ルーズベルト米大統領が4月12日に執務室で急死しているので民主化の圧力は弱まっただろうが、それでも戦前の体制を維持することは不可能。そんなことをすれば、戦前にウォール街が築いた主従関係が崩壊する。

 ルーズベルトの死後、主導権を握った巨大資本はソ連を敵視している。同じような考え方をしていたのがウィンストン・チャーチル英首相で、5月7日にドイツが降伏した直後にJPS(合同作戦本部)に対してソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令する。そこで考え出されたのが「アンシンカブル作戦」で、7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。

 アメリカの好戦派は1957年の初頭に「ドロップショット作戦」をスタートさせ、300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊しようと目論んでいた。勿論、先制攻撃。

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)によると、1961年7月、ジョン・F・ケネディ大統領に対し、ライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長など軍や情報機関の幹部がこの計画について説明している。

 1954年にアメリカは水素爆弾を搭載したF100戦闘爆撃機を沖縄の嘉手納空軍基地に派遣、その後も核兵器を沖縄へ持ち込んだが、1955年から57年にかけてレムニッツァーは琉球民政長官を務め、この時期に土地の略奪やラテン・アメリカへの棄民が進められた。比嘉秀平琉球主席が55歳の若さで急死したのは1956年10月のことだ。

 レムニッツァーは統合参謀本部議長になってからキューバへの軍事侵攻を正当化するための偽旗計画「ノースウッズ作戦」を計画している。キューバ軍を装ってアメリカで爆弾攻撃を繰り返し、最後には旅客機を自爆させてキューバ軍に撃墜されたように装って軍事侵攻しようというものだ。

 ICBMの準備ができる1963年の後半にはソ連を核攻撃するというスケジュールになっていたというが、ケネディ大統領はこの計画を拒否し、レムニッツァーの再任も認めなかった。そのケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されている。

 アメリカはこうした先制核攻撃の拠点として日本を考え、沖縄の基地化を推進したのであり、アメリカが日本を守ってくれるという考えは妄想にすぎない。アメリカの核兵器で日本が守られているとする「核の傘」論はナンセンスであり、無責任。日本がアメリカの核攻撃に巻き込まれなかったのは運が良かっただけと言わざるをえない。アメリカの介入でいくつもの国が破壊され、人びとが虐殺されてきたことを直視すべきだ。破壊された国の多くは民主的なシステムが機能していた。つまり、アメリカの支配者は民主主義の破壊者でもある。






最終更新日  2015.08.15 01:42:26
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