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《櫻井ジャーナル》

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2015.11.18
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 アメリカ大統領だったジョージ・W・ブッシュは2001年9月20日、テレビを通じて行われた演説の中で「テロとの戦争」という用語を口にした。その「テロとの戦争」はロシアが登場して「テロリスト」を攻撃するまでは所期の目的を達することができていたと言うべきだろう。発言の直後から「テロ」は戦術であり、戦術に勝つということは論理的に有り得ないと指摘されていたが、ブッシュ大統領はテロという戦術に勝とうとしたわけではない。

 ブッシュ大統領は「テロ」を口実にして国内をファシズム化し、国外では軍事侵略、略奪、破壊を展開しようとしていた。実際、アフガニスタンからはじまり、イラク、リビア、シリア、ウクライナといった国々を破壊することに成功している。今、アメリカの好戦派が直面している問題は戦争の拡大を防ごうとする国、彼らの目論見を阻止しようとする国が出現したことだ。

 約1年半にわたってアメリカが率いる国々はシリア領内で空爆を繰り返し、地上にも特殊部隊を潜入させていると言われている。IS(ISIS、ISIL、ダーイッシュなどとも表記)を攻撃することが目的だとしているが、その間、ISは勢力を拡大してきた。しかもアメリカはシリア政府に要請されたわけでなく、国連の承認を得たわけでもばく勝手に攻撃しているだけ。つまり侵略行為にほかならない。こうしてみると「テロとの戦争」は失敗しているように見えるが、その目的はターゲット国の破壊と人びとの殺戮であり、好戦派の目的は達成されているのだ。

 歴史を振り返ると、第1次世界大戦の前、イギリスの支配層は意図的に危機を作りだして戦争を誘発、自分たちは漁夫の利を得るという戦略を立て、実行している。1917年3月にロシアで引き起こされた「二月革命」までは成功だったと言えるが、両面から攻められる状況を嫌ったドイツが平和を謳っていたボルシェビキの指導部をロシアへ運び、その結果として11月に「十月革命」が起こったのは想定外の出来事だっただろう。(ボルシェビキ嫌いの人びとは二月革命と十月革命を強引に一体化させ、自分たちに都合の良いストーリーを描いている。)

 危機を作り出して自分たちの描くプランを実現するという意味で、1969年から80年にかけてイタリアで実行された「緊張戦略」も似ている。同国の情報機関を後ろ盾とするグループが極左の「赤い旅団」を装って爆弾攻撃を繰り返し、クーデターも計画していたのだ。「赤い旅団」を創設時代から率いていたリーダーは爆弾攻撃が始まる前に逮捕され、組織は乗っ取られていたとも言われている。

 本ブログでは何度も書いているように、NATOには破壊活動を目的とした「秘密部隊」がある。イタリアではグラディオと呼ばれ、背後には同国の情報機関、その背後にはアメリカのCIAが存在している。

 グラディオが実行した爆弾攻撃には、例えば、1973年12月にローマでパンナム機がロケット弾で撃墜されて32名が死亡した事件、74年5月にミラノ近くで開かれていた反ファシスト集会が爆破されて8名が死亡した事件、同年の8月にボローニャ近くで列車が爆破されて12名が死亡した事件、80年8月にボローニャ駅が爆破されて85名が死亡した事件などがある。

 こうした「爆弾テロ」を遙かに上回る攻撃が2001年9月11日にアメリカで引き起こされた。ニューヨークの世界貿易センターとワシントンDCの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されたのだ。その直後、詳しい調査が行われないまま攻撃は「テロリスト」の「アル・カイダ」が行ったとブッシュ政権は断定、そのアル・カイダとは無関係のイラクを2003年に「テロとの戦争」の一環として先制攻撃している。

 しかし、アル・カイダなる武装集団は存在しない。1997年から2001年までイギリスの外相を務めたロビン・クックによると、アル・カイダとはCIAから訓練を受けた数千人におよぶ「ムジャヒディン」、つまりイスラム系傭兵のコンピュータ・ファイルだ。アル・カイダはアラビア語で「ベース」を意味、「データベース」の訳としても使われている。

 アメリカの支配層がアフガニスタンでの秘密工作を始めたのはリチャード・ニクソン政権の時代。パキスタンのバナジル・ブット首相の特別補佐官を務めていたナシルラー・ババールが1989年に語ったところによると、アメリカは1973年からアフガニスタンの反体制派へ資金援助しはじめているのだ。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)

 1973年と言えば、ウォーターゲート事件でニクソン大統領は窮地に陥っていた。アフガニスタンでの秘密工作どころではなかっただろう。この年の10月には副大統領だったスピロ・アグニューが辞任に追い込まれている。汚職事件の捜査対象になったことが理由だった。後任の副大統領に選ばれたのはジェラルド・フォード下院議員。翌年8月にニクソンが辞任すると、このフォードが大統領に就任する。

 一般に「タカ派」と見られているニクソンだが、大統領時代には緊張緩和(デタント)を推進する姿勢を見せていた。そのニクソンが排除されたが、それだけでは終わらない。1975年11月にフォード大統領は政府高官の入れ替えを発表、デタント派の粛清を開始する。このときにジェームズ・シュレシンジャー国防長官も解任され、登場してきた人物がドナルド・ラムズフェルド。リチャード・チェイニー大統領副補佐官とともにラムズフェルドはこの粛清劇で中心的な役割を果たしたと言われている。この時にネオコン/シオニストが台頭、イスラエルではリクードが勢力を拡大しはじめる。1976年1月にはCIA長官がウィリアム・コルビーからジョージ・H・W・ブッシュへ交代したことも大きかった。

 1976の大統領選挙でフォードを破ったのがジミー・カーター。1971年から75年までジョージア州知事を務めているが、その時にデイビッド・ロックフェラーとズビグネフ・ブレジンスキーが目をつけ、日米欧三極委員会に加えている。こうした経緯があるため、カーター政権では大統領より補佐官の方が力があり、外交や安全保障問題はブレジンスキーの戦略に基づいて動いていた。

 ブレジンスキーはポーランドの貴族階級出身で、ロシア嫌いの好戦派。親が外交官だった関係で家族は1938年からカナダで生活を始め、本人は53年にハーバード大学で博士号を取得した。1959年にコロンビア大学へ移り、60年から89年まで教授として教えているが、教え子のひとりが後に国務長官としてユーゴスラビア攻撃を推進したマデリーン・オルブライト。1981年にコロンビア大学の3年へ編入しているバラク・オバマもブレジンスキーの弟子だとされている。

 ブレジンスキーの戦略に基づいて1979年4月にCIAはイスラム武装勢力を編成、支援プログラムを開始、アル・カイダという戦闘員のリストも作成されることになわけだ。5月にはCIAイスタンブール支局長はパキスタンの情報機関ISIの仲介でアフガニスタンのリーダーたちと会談し(Alfred W. McCoy, “The Politics Of Heroin”, Lawrence Hill Books, 1991)、7月にカーター大統領はソ連をアフガニスタンへ誘い込んで戦わせるという計画を承認している。アメリカ側の思惑通り、その年の12月にソ連の機甲部隊はアフガニスタンへ侵攻してくる。

 1979年7月には「テロとの戦争」を考える上で忘れてはならない会議がエルサレムで開かれている。参加したのはアメリカとイスラエルの情報機関につながる人脈。イスラエル側からは軍の情報機関で長官を務めた4名を含む多くの軍や情報機関の関係者が、またアメリカからはジョージ・H・W・ブッシュやレイ・クライン元CIA副長官など情報機関の関係者や「ジャーナリスト」のクレア・スターリングらが参加、それ以降、ソ連を「テロの黒幕」だとするキャンペーンが始まった。

 アフガニスタンではソ連が「テロリスト」として扱われ、イスラム武装勢力は「自由の戦士」と呼ばれる。現在、アル・カイダ系武装集団やそこから派生したISをアメリカの好戦派は傭兵として使っているが、歴史を考えれば当然のことである。「テロとの戦争」とはアメリカの好戦派が「テロリストを操って戦う戦争」にほかならない。





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最終更新日  2015.11.18 23:39:13



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