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《櫻井ジャーナル》

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2016.05.03
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 第2次世界大戦後の日本が平和だったかどうかはともかく、とりあえず領土が戦場になることはなかった。ただ、その理由を在日アメリカ軍や自衛隊に求めることは間違っている。アメリカは世界制覇を狙い、一貫して先制攻撃を目論み、自衛隊はその戦争マシーンに組み込まれているのだ。在日米軍は日本を守ってきたのではなく、日本は侵略戦争に巻き込まれる恐れがあったと言える。

 アメリカ軍が日本を守るという話はメディアが広げた幻想にすぎない。例えば、1947年5月7日付けのAP電は、ダグラス・マッカーサーが天皇に対してアメリカが日本の防衛を引き受けることを保証したと伝えたが、マッカーサー本人は報道の内容を否定している。アメリカ軍による占領を正当化するための情報操作だった可能性が高いだろう。アメリカの支配層が純粋に日本を守ろうとしているとは到底思えない。せいぜい、戦略的、あるいは経済的な必要性から守るという程度だろう。必要なければ捨てられる。

 米英(アングロ・サクソン)の支配層が何を考えているかを知るには歴史を振り返る必要がある。さかのぼり始めると限りがなくなるが、とりあえず第2次世界大戦の勃発から始めることにしよう。

 この大戦は1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻したときに幕が開く。大規模な戦争が目的ではなく、第1次世界大戦後に東プロイセンが飛び地化した問題を解決しようとしていた可能性が高い。軍事侵攻の2日後にイギリスとフランスはドイツに宣戦布告したにもかかわらず、しばらく目立った戦闘がなく「奇妙な戦争」と呼ばれている理由はそこにある。

 その前にナチス体制を危険だと感じたソ連は1938年にイギリスやフランスに同盟を呼びかけるが拒否され、次善の策として39年8月にドイツと不可侵条約を結んだ。条約の秘密条項で両国はポーランドを分割することを取り決めたと宣伝されているが、流れから考えて独ソ開戦のレッドラインを決めたとする解釈もある。

 ドイツ本国と東プロイセンを分断にしていた地域が「ポーランド回廊」。当時、イギリスがポーランドの後ろ盾になっていたが、ジャーナリストのC・アンソニー・ケイブ・ブラウンによると、この軍事侵攻があった頃、イギリスにはソ連と戦うために「日本・アングロ(米英)・ファシスト同盟」を結成するという案があったという。この案にとって最大の障害はアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領だった。(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies”, Macmillan, 1988)

 この後、ドイツ軍は1941年6月に「バルバロッサ作戦」を開始、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫る。1942年8月にドイツ軍はスターリングラード(現在のボルゴグラード)市内へ突入するが、11月からソ連軍が反撃に転じ、ドイツ軍25万人は包囲された。生き残ったドイツ軍9万1000名は1943年1月31日に降伏、2月2日に戦闘は終結した。

 この間、ルーズベルト大統領はソ連を支援しようとするが、反対が強く、実現していない。例えば、ミズーリ州選出の上院議員だったハリー・トルーマンは、「ドイツが勝ちそうに見えたならロシアを助け、ロシアが勝ちそうならドイツを助け、そうやって可能な限り彼らに殺させよう」と提案している。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 米英のライバル、ドイツとソ連を共倒れにさせようというわけだが、ドイツの敗北を見てアメリカ軍は活発に動き始める。まず1943年7月にシチリア島へ上陸、9月にはイタリア本土に進軍してイタリアは無条件降伏、翌年6月にはノルマンディーへ上陸した。いわゆる「オーバーロード作戦」だ。

 この上陸作戦は1943年5月にワシントンDCで練られている。アメリカやイギリスがドイツとの戦争を本格化させるのは、ドイツ軍がスターリングラードで降伏、大戦の勝敗が決した後だということである。

 1945年2月にはクリミア半島のヤルタでルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、ヨセフ・スターリン露人民委員会議長が集まって会談、大戦後の問題や国際連合創設、またソ連の対日参戦などが話し合われた。

 アメリカ支配層の一部、アレン・ダレスのような反コミュニスト派は大戦の終盤にドイツ側と接触を開始、ソ連を除いた形の単独講和も模索されていたが、実現していない。ドイツは5月7日に降伏した。

 それを受けてチャーチル英首相はアメリカやドイツと連合してソ連を奇襲攻撃しようと目論む。その命令に従ってJPS(合同作戦本部)が5月22日に作成した「アンシンカブル作戦」は7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていたが、参謀本部の反対で実行されていない。ソ連との戦争を目論んだことが原因なのかどうかは不明だが、7月26日にチャーチルは退陣する。

 一方、ソ連はヤルタ会談での合意に基づいて8月8日に日本へ宣戦。アメリカは8月6日に広島へ、8月9日に長崎へ原子爆弾を投下したが、ソ連参戦を意識してのことだろう。

 大戦が終了した後もチャーチルはソ連を破壊する夢を捨てていない。1946年3月5日にアメリカのミズーリ州フルトンで、「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている」と演説、「冷戦」の幕開けを告げたのだ。1947年にはアメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員と会い、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいとチャーチルは頼んでいたとも伝えられている。

 このチャーチルは貴族階級の出身で、父親のランドルフ・チャーチルは46歳のときに梅毒が原因で死亡している。生前、ナサニエル・ロスチャイルドから多額の借金をしていたことでも知られ、その額は現在の価値に換算すると数百万ポンド、つまり数億円。息子がロスチャイルドと無縁と言うことはありえない。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

 ソ連に対する先制核攻撃は大戦が終わって間もない頃に浮上している。例えば、1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とす(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)という内容が盛り込まれていた。

 1952年11月にアメリカは水爆の実験に成功、核分裂反応を利用した原子爆弾から核融合反応を利用した水素爆弾に核兵器の主役は移っていく。1954年になるとSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成した。この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。(前掲書)

 SACが1956年に作成した報告書(SAC Atomic Weapons Requirements Study for 1959)によると、ソ連、中国、東ヨーロッパの最重要目標に対しては水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下することになっていた。軍事目標を核兵器で攻撃しても周辺に住む多くの人びとが犠牲になるわけだが、市民の大量虐殺自体も目的だったと見られている。

 1956年当時、SACの司令官はカーティス・ルメイ。第2次世界大戦の終盤、日本の大都市に大量の焼夷弾を投下して庶民を焼き殺す「無差別爆撃」を第21爆撃集団司令官として推進した軍人だ。1945年3月10日に東京の下町を約300機のB-29爆撃機で空爆、10万人以上の住民を焼夷弾で焼き殺したと言われている。

 実際にソ連を先制核攻撃する準備が始まったのは1957年初頭で、「ドロップショット作戦」が作成されている。300発の核爆弾をソ連の100都市で使うというもので、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたともいう。(前掲書)

 アメリカがソ連を先制核攻撃した場合、反撃をどのように押さえ込むかが問題。そこでアメリカがICBM(大陸間弾道ミサイル)で圧倒している段階で攻撃しようということになる。1959年の時点でソ連は事実上、ICBMを保有していなかった。

 この1957年にルメイは空軍副参謀総長に就任、ジョン・F・ケネディが大統領に就任した61年からは空軍参謀長を務めることになった。この当時のJCS議長はライマン・レムニッツァーだ。

 このふたりを含む好戦派はキューバへアメリカ軍が軍事侵攻する計画を立てた。まず、ケネディが大統領に就任した直後、1961年4月17日に亡命キューバ人部隊をキューバのピッグス湾(プラヤ・ギロン)へ上陸させようとする。この攻撃が失敗することは計算済みで、この亡命キューバ人を助けるという名目でアメリカ軍を投入しようとするが、これはケネディ大統領が拒否して実現していない。

 この好戦派は偽旗作戦も計画した。アメリカの諸都市で「偽装テロ」を実行、最終的には無人の旅客機をキューバの近くで自爆させ、あたかもキューバ軍が撃墜したように演出してキューバへ軍事侵攻する口実にしようとしたのだ。いわゆる「ノースウッズ作戦」である。キューバから中距離ミサイルで攻撃される可能性を封印するため、キューバを制圧しようとしたのだろう。この作戦もケネディ大統領に拒否された。

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、レムニッツァーやルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定だった。それより遅くなるとソ連もICBMを配備すると見ていたのだ。そして1963年11月22日、核攻撃の障害になっていたケネディ大統領はテキサス州ダラスで暗殺され、その背後にキューバやソ連がいるとする情報をCIAは流すが、この情報が正しくないことをFBIがリンドン・ジョンソン大統領へ伝え、核戦争にはならなかったようだ。

 この後もアメリカは先制核攻撃を目論んでいる。2006年にキール・リーバーとダリル・プレスはフォーリン・アフェアーズ誌(CFR/外交問題評議会が発行)で、ロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できると書いている。つまり、核戦争になってもかまわないという認識だが、これが間違いだということはシリアやウクライナで示された。それでも開戦で脅しているのがアメリカの好戦派。「狂犬戦略」ではなく、本当に狂犬化しているのかもしれない。






最終更新日  2016.05.04 12:35:12



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