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《櫻井ジャーナル》

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2016.05.11
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 アメリカやイスラエルは核兵器を恫喝の道具として使ってきた。その核兵器の開発にアメリカのバラク・オバマ大統領は積極的で、今後30年間に9000億ドルから1兆ドルを投入する計画を打ち出している。イスラエルは恐怖を増幅させる意味もあってか秘密主義を堅持、自国の核兵器開発を内部告発したモルデカイ・バヌヌを18年にわたって刑務所で監禁、その後も行動を厳しく規制している。5月18日にはまたまたバヌヌを起訴したという。イスラエルが原子爆弾を保有していることはバヌヌが告発する前から知られていたが、その数は推測を大きく上回っていた。さらに彼は水爆、中性子爆弾の製造も明るみに出している。中性子爆弾は保有しているだけでなく、使用しているという疑いもある。

 アメリカには恫喝だけでなく、実際に核攻撃を目論んできた歴史がある。例えば、1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告にソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれ、54年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成、57年初頭には300発の核爆弾でソ連の100都市を破壊するという「ドロップショット作戦」が作成されている。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 その間、1953年に厚木基地へ核攻撃機AJが飛来、その半年後に横須賀へ入港した空母「オリスカニ」には核兵器を組み立てる能力があった。1950年代の後半になると、厚木基地へ核爆弾の組み立てを担当するチームも移動してきたという。

 また、沖縄では1953年に布令109号「土地収用令」が公布/施行されて暴力的な土地接収が始まり、55年の段階で「沖縄本島の面積の約13%が軍用地」になっているが、その背景にもアメリカの核攻撃戦略がある。1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めたライマン・レムニッツァーはドワイト・アイゼンハワー時代の60年、統合参謀本部(JCS)議長に就任、ソ連に対する先制核攻撃を目論むグループで中心的な役割を果たした。沖縄は核攻撃の前線基地になったと言えるだろう。

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、レムニッツァーJCS議長やSACの司令官だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに核兵器で奇襲攻撃を実行する予定だった。その頃にアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていたのだ。この攻撃を成功させるためにもキューバを制圧し、ソ連の中距離ミサイルを排除する必要があった。

 ジョン・F・ケネディ大統領に議長再任を拒否されたレムニッツァーは1963年1月から欧州連合軍(NATOの軍事機構)の最高司令官になるが、1961年に空軍参謀長に就任していたルメイはそのまま。ソ連に対する核攻撃計画は進められていた可能性が高い。

 その後もアメリカは先制核攻撃のチャンスをうかがい、アメリカの属国と化していたロシアが21世紀に入って再独立した後、2006年にはキール・リーバーとダリル・プレスがフォーリン・アフェアーズ誌(CFR/外交問題評議会が発行)で、ロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できると書いている。ネオコン/シオニストはこう考えていたのだろう。日本が「集団的自衛権」を行使するということは、アメリカが計画している先制核攻撃に参加することを意味する。

 安倍晋三政権が集団的自衛権を使えるようにすることで大筋合意したのは2014年6月のことだが、その年の「平和宣言」で松井一実市長は「集団的自衛権」に触れていない。この問題に触れなかったということは、核戦争の勃発を危惧していないのだろう。核兵器の廃絶を本当に望んでいるとは思えない。

 2015年6月1日、安倍首相は赤坂の「赤坂飯店」で開かれた官邸記者クラブのキャップの懇親会で「安保法制は、南シナ海の中国が相手なの」と口にしたと伝えられている。この発言にも松井市長は反応していない。

 言うまでもなく、日本にも核兵器開発の歴史がある。第2次世界大戦中には理化学研究所の仁科芳雄を中心とした陸軍の二号研究と海軍が京都帝大と検討していたF研究が進められていた。陸軍は福島県石川郡でのウラン採掘を決め、海軍は上海の闇市場で130キログラムの2酸化ウランを手に入れて1944年には濃縮実験を始めたという。

 1945年に入るとドイツは約540キログラムの2酸化ウランを潜水艦(U234)で運ぼうとしたが、アメリカの軍艦に拿捕されてしまう。日本側は知らなかったようだが、アドルフ・ヒトラーの側近だったマルチン・ボルマンは潜水艦の艦長に対し、アメリカの東海岸へ向かい、そこで2酸化ウランを含む積み荷をアメリカ海軍へ引き渡すように命令していたという。(Simon Dunstan & Gerrard Williams, “Grey Wolf,” Sterling, 2011)その結果、このUボートに乗り込んでいた日本人士官は自殺、積み荷はオーク・リッジへ運ばれたとされている。

 大戦後、1955年12月から56年3月にかけて調査団が欧米の原子力事情を調査、その間に原子力基本法が成立し、原子力委員会が設置された。4月には通産省工業技術院に原子力課が新設された。一方、経団連は「原子力平和利用懇談会」を発足させている。

 NHKが2010年10月に放送した「“核”を求めた日本」によると、1965年に訪米した佐藤栄作首相はリンドン・ジョンソン米大統領に対し、「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えている。1967年には「動力炉・核燃料開発事業団(動燃)」が設立され、69年に日本政府は西ドイツ政府に対して核武装を持ちかけた。

 この提案を西ドイツは拒否するものの、日本側は核武装をあきらめない。10年から15年の期間での核武装を想定、核爆弾製造、核分裂性物質製造、ロケット技術開発、誘導装置開発などについて調査、技術的には容易に実現できるという結論に達している。

 原爆の原料として考えられていた高純度のプルトニウムは、日本原子力発電所の東海発電所で年間100キログラム余り、つまり長崎に落とされた原爆を10個は作れると見積もっていた。

 1977年になると東海村の核燃料再処理工場(設計処理能力は年間210トン)が試運転に入るのだが、山川暁夫は78年6月に開かれた「科学技術振興対策特別委員会」で再処理工場の建設について発言、「核兵器への転化の可能性の問題が当然出てまいるわけであります」と主張している。実際、ジミー・カーター政権は日本が核武装を目指していると疑い、日米間で緊迫した場面があったという。

 しかし、1981年にロナルド・レーガンが大統領に就任するとアメリカ政府の内部に日本の核武装計画を支援する動きが出てくる。東海再処理工場に付属する施設として1995年に着工されたRETF(リサイクル機器試験施設)はプルトニウムを分離/抽出するための施設だが、この施設にアメリカ政府は「機微な核技術」、つまり軍事技術が含まれていた。

 調査ジャーナリストのジョセフ・トレントによると、福島第1原発が過酷事故を起こした当時、日本には約70トンの兵器級プルトニウムがあったという。自らが生産した可能性もあるが、外国から持ち込まれた可能性もある。トレントに限らず、アメリカの情報機関は日本が核兵器を開発してきたと確信している。

 オバマ大統領が広島を訪問すれば核兵器廃絶で何らかの進展があったかのような気分になるかもしれないが、その実態は深刻な度合いを増している。その中に日本が含まれていることも間違いない。

 東電福島第一原発が「過酷事故」を起こす3日前、2011年3月8日付けのインディペンデント紙は東京都知事だった石原慎太郎のインタビュー記事を掲載した。それによると、外交力とは核兵器なのであり、核兵器を日本が持っていれば中国は尖閣諸島に手を出さないだろうと石原は発言したという。





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最終更新日  2016.05.12 13:09:10
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